03.保健室の告白

【あたしは気にしないから、どうぞ続けて?】


「――ひッ」


 美門はしゃっくりのような声を上げて言葉を詰まらせ、後ずさってドアに背中をぶつけた。


【あっ、ミカちゃん、大丈夫?】


「わ、わたし……、そんなつもりじゃ」


 とつぜん現れた姉らしき者の呼びかけに、美門は左右に首を振った。

 明らかに怯えている。

 とても姉に対する態度ではないが、死んだと思っていた人を目の当たりにした態度としては正しいのだろう。


「円佳さん……?」


 僕は美門のような劇的な反応もできず、ただ呆然と名前を呼んだ。


 円佳さんは背筋を伸ばして、首をかしげる。


【久しぶり、になるのかな?】


「あれからもう百日も経ちましたよ」


【そっか……、二人とも夏服だし。……と・こ・ろ・で】


 ニマニマと口元をゆるめる円佳さん。その楽しげな表情と、絡みつくような物言いは、この人がお姉さんぶってからかってくる前触れだ。


【こんな場所で、二人っきりで、いったい何をしようとしてたのかなぁ?】


「何もしてませんよ。ここは円佳さんの――」


 背後でガチャガチャと激しくドアノブを回す音がして、僕の言葉がさえぎられる。振り返ると、美門がドアを開けて外へ出ていくところだった。階段を下りていく足音はバタついていて、かなり焦っているようだ。


【あっ……、もう、ミカちゃんたら。いつもは冷静ぶってるくせに、ちょっと何かあるとすぐテンパっちゃうんだから】


 円佳さんは腰に手を当てつつ、さみしそうに妹を見送った。

 亡くなった姉の幽霊を見たというのは、ちょっとどころではない出来事だと思うのだが、のんきな物言いは確かに僕たちの知る彼女のものだ。


「……本当に、円佳さんなんですね」


 呼びかけると、円佳さんはこちらを振り返ってうなずいた。

「そうだよ」と唇が動いたように見えたが、声はかすれて聞き取れない。

 もともと透けていた身体はさらに薄くなっていき、やがて、絵の具を水に溶かしたみたいに消えてしまった。


「……円佳さん?」


 空中に呼びかけても返事はない。


 いきなり現れた人がいきなり消えてしまった。

 それならまた現れやしないかと思い、しばらく部屋の中で待ってみた。

 しかし、円佳さんは一向に姿を見せてくれない。


 やはりあれは幻覚だったのだろうか。

 美門にも見えていたようだが、幻覚が共有されるなんてありえるのか。


 夢でも幻でもかまわないから、また話がしたい。

 その気持ちだけでいくらでも待っていられた。


 しかし、気持ちだけではどうにもならないこともある。

 円佳さんの部屋に一人でいるところを家の人に見られてはまずいという、常識には逆らえず、日が落ちる前に僕は諦めて東雲家を後にした。


 その夜は眠れなかった。ベッドで横になっても頭はずっと冴えていて、円佳さんとの思い出をとめどなく回想し続けた。いつの間にか朝になっていた。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 翌日、寝不足で重い身体を動かして学校に向かう。

 そのまま休んでしまいたかったが、美門に会わなければならない。


 あのあと美門とは連絡がつかなかった。電話をかけてもつながらず、メッセージには既読すらつかない。明らかに拒絶されていたが、そんな状態でも美門は真面目に学校へ来るだろう。あいつはそういうやつだ。円佳さんの葬儀のときも、泣き崩れる母親を気丈に支えていた。


 思ったとおり、生徒で混み合う廊下で美門の姿を見つけた。


「ミカ」


 名前を呼びつつ、人混みをぬって駆け寄っていく。


 僕に気づくと露骨に顔をしかめられたが、それでも構わず声をかける。


「大丈夫だった? 昨日は――」


「その話はしないで」


 ぴしゃりと遮られる。


「どうして」


「あんなの……、きっと気のせいよ。ちょっとナイーブになってただけ。だからそう、わたしは何も見てないし、あなただって」


 美門は小声でぶつぶつ言いながら昨日の出来事を否定した。


 だけど僕はその肩越しに、桜色のダッフルコートの人影を見つけてしまう。

 在校生ではないとひと目でわかる、半透明のその人を。


「あ……」


 驚きのあまり硬直する僕を見て、美門もまた顔を引きつらせる。


「ちょっと、やめてよ、そんな顔をしてわたしを驚かそうとしてるんでしょ。そういうの、不謹慎で全然面白くない……」


【ボンジュール】


 円佳さんの発する、流暢なフランス語のあいさつが聞こえた。


 美門にも聞こえたのだろう。唇をつぐんで震わせていたが、やがて、諦めたように振り返る。


「あ……」


 妹と目が合ったのか、円佳さんは楽しげに手を振った。

 が、その表情はすぐに引き締められる。


【ミカちゃんを支えて】


 円佳さんが短く言った。


「え? ――あっ」


 その直後だった。

 美門のひざがかくん・・・と折れた。倒れるというより崩れ落ちると言った方がしっくりくる、爆破したビルが足元から崩れていくような倒れ方。


 僕はとっさに美門の腕をつかんで、頭が床にぶつかることは避けられたが、身体を支えきれず一緒に倒れてしまう。


 その後、気を失った美門を抱きかかえて保健室へ運んだ。


 すれ違う生徒がことごとく好奇の視線を向けてきたが、そんなものはまったく気にならなかった。こっちは二日連続で亡くなった恋人と遭遇しているのだ。動揺のハードルがずいぶんと上がっていた。


 保健の先生いわく、美門が倒れたのは疲労と心労によるものだろう、とのことだった。学校側は美門の家庭事情を知っているので、そういう結論になる。実際、美門は昨日ろくに眠れなかっただろう。


 姉を見たことによる睡眠不足と、姉との再会によるストレス。

 疲労と心労。結論だけなら大当たりだ。


 先生は席を外したが、僕は許可をもらって美門が目覚めるのを待っていた。

 椅子に座って美門の寝顔を眺めていると、昨日のキスを思い出してしまう。

 それすら円佳さんに悪いと感じて、僕は美門から目をそらした。


 そして、ごまかすように呼びかける。


「……円佳さん。いますよね」


 別に気配を感じたわけではないが、いると確信していた。


 ベッドで眠っている女子がいて、すぐそばには男子がいる。室内には二人きり。そういうシチュエーションを物陰からのぞき見て、ニヤニヤ笑いを浮かべるのが、東雲円佳という人だからだ。


【せっかく気を利かせてあげたのに】


 円佳さんはそんなことを言いながら姿を現す。

 カーテンの向こう側から、ただしカーテンを揺らすことなく通り抜けてきた。


【無防備なミカちゃんの唇を奪うチャンスだったのに】


「僕は円佳さんの彼氏です」


 わお、と円佳さんは手のひらを口元にあてる。


【そんなセリフをさらりと口にするなんて、キミも成長したのね。お姉さん、うれしいやら寂しいやら……】


 よよよ、と今度は手の甲で目元をぬぐう仕草。綺麗なお姉さんの明るくおどけた様子は、ふつう見る者を楽しくさせるものだ。

 しかし、若くして亡くなった人にそんなことをされても、空元気の痛ましさしか感じない。僕は少しも笑えなかった。


「昨日も言ってましたよね、気にしないから続けて、とか……。あれ、どういう意味ですか」


【言葉どおりだけど?】


「気にならないわけ、ないじゃないですか」


【でも、いつまでも気にしてるわけにもいかないでしょ】


「それに、恋人の妹とそういうことをするのは――」


【元、だよ。死んだ人間を気にして、立ち止まってちゃダメ】


 ありふれたセリフだが、それを死んだ人間ほんにんから言われたことがあるのは僕だけだろう。否定のできない全くの正論で、その抗いようの無さが嫌になる。


「……死生観や倫理観の話は後にしましょう」


 だから逃げた。


「どうして昨日になって現れたんですか」

【幽霊が出てくる理由って言ったら、やっぱり未練でしょ】

「幽霊……」


 当人がその言葉を使ってしまったので、こちらも認めるしかない。

 顔が引きつるのがわかった。当たり前のことだが、二十歳の若さで死んでしまって、未練がないわけがないのだ。


 その未練には僕との別れも含まれているのだろうか、なんて。

 すぐに利己的なことを考えてしまう。


 そんな内心を見透かすように、円佳さんはニヤリと笑う。


【あ、勘違いしてるな?】


「勘違い……、ですか?」


【未練があるのは、ミカちゃんと、キミの方だと思う】


「僕たちが?」


【そ。だってあたし的には本気の付き合いってわけでもなかったし】


「え……」


【だから、キミがそこまで深刻に思ってくれてるのは、うれしいけど、ちょっと重いというか、ね? 気にしないでっていうのは、そういう意味……、だったりして】


 円佳さんは冗談めかすように顔をかたむけるが、こちらにとっては何も考えられなくなるくらい衝撃的な言葉だった。頭が真っ白になる、というやつだ。円佳さんの幽霊を見たときだってここまでじゃなかった。これほど動揺したのは、円佳さんが亡くなったとき以来だ。結局ぜんぶ円佳さん絡みじゃないか。

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