3 質量をもって
「和室も、異常なし」
谷本は確認を終えると、その場でへたり込んだ。彼がきまぐれで嗜むミステリー小説のように、謎の全てが密室や特定の部屋に隠されているわけではない。これは人の手に負えない代物だ。谷本はそれしか考えられなくなった。
「お腹が空きませんか?」
真田がにこやかに言った。谷本は腕時計を見る。針は午後四時を指していた。約四時間もここにいたことに斎藤も驚く。
時の進み方が青春時代並みに早い、と谷本は嘆息した。
「料理、得意なのか?」
谷本は死人のような瞳のまま質問した。
「カップ麺しかありませんが……」
「私は構いませんよ。頂けるだけ有難いです。博士も、いいですよね?」
斎藤は谷本の腕を掴み、立ち上がらせた。そのまま自分の肩に腕を回し、居間まで歩く。谷本は軽かった。
研究所内の人間が倒れた時、肩を貸したことがある。その時感じた重さと似ていた。
「少々お待ちください」
居間に着くと同時に、真田がキッチンに引っ込んだ。湯が沸くのを待っている間、斎藤は谷本に話しかけ続けた。
「博士、このソファベッド、フカフカですよ」
意気消沈した谷本に救いの手は見えていない。彼が口をぽかんと開けたまま振り向かないのを見た斎藤は諦めて、一人で遊ぶことにした。
「……あれ、何これ、シミ?」
と、茶色のシーツに黒いシミが付着していることに気づいた。「博士、これ、何だと思いますか?」
斎藤は谷本の白衣をぐいぐいと引っ張る。やがて谷本は振り向き、シミを見つめた。
「匂いは?」
谷本に問われ、斎藤が鼻を近づける。髪を耳の上にかける仕草が、谷本の心を揺さぶった。
「ないです」
「そ、そうか……」
「そのシミは、あまり触らないでくれ」
真田の声が聞こえた。二人が背後を振り向くと、彼はカップ麺を載せたお盆を手に、立っていた。
「何かあるんだね?」
谷本は彼を睨みつける。その目があまりに鋭かったので、真田は思わず噴き出した。「別に、やましいものではありませんよ。ただ、それは樹里の形見のようなものですから」
彼は二人の向かいに座り、お茶の入ったコップとカップ麺を配った。
「いただきます」
「すまないね、真田君」
谷本は既に食べ始めている斎藤に冷ややかな視線を送り、謝った。
「いえ……」
真田は優しい目をした。「自分で言うのも恥ずかしいのですが、樹里は俺に依存していました。そのシミは、俺が留守にしている間に彼女の腕から垂れた血です」
斎藤の背筋に寒気が伝った。
「つまり、リストカット」
「そうです。彼女が自分自身を傷つけないためにも、俺は一生懸命に彼女を愛しました」
(こんな話を聞いたところで何になるのだ……)
谷本は少々うんざりしたが、事件解決の糸口になるかもしれないと思い、続きを促した。
「続き? ないですよ。そんな大した話じゃありません」
真田は困り顔で言った。
「証拠になると思ったんだけどなぁ」
「博士」
斎藤が咎めるように言った。
「なんだ、聞いていたのか。てっきり、斎藤くんの耳には麺を啜る音しか入っていないと思っていたよ」
「そ、そんなに大きかったですか?」
斎藤は顔を赤らめた。
「冗談。というか、皮肉を皮肉として受け取れるようになったほうがいいよ」
谷本がニヤつく。
「こんな三十歳にはなりたくないです。真田さんもならないでくださいね?」
「あ、あぁ……」
水を向けられた真田は曖昧な返事をした。
会話劇に幕が下りた。三人は一言も発さなくなり、カップ麺を食べ続ける。麺をすする音だけが部屋を満たす。無言の状態が長引くので、三人は集まった目的を見失いかけた。
「濃すぎる……真田さん、お湯余っていますか?」
「お湯、足しますか?」
「お願いします」
真田が席を立ったその時だった。「待った、真田君」
谷本は我に返ったようにカップ麺から顔を上げた。
「斎藤君の言葉で確信したよ。すべて繋がった」
「わ、わかったんですか!」と真田が叫ぶ。右手に持っているカップ麺のスープが波立ち、ゆらゆらと揺れた。
「本当に、しょうもない真相だよ。ただ、不完全だから最後に情報を補っておく必要がある」
谷本は箸を置き、お茶を飲み干すと語り始めた。
「真田君の他に実験を行っていたのは二人。そうだね?」
今一度、確認する。真田は頷いた。
「浮気されたほうの彼氏は、それでも彼女を愛していた?」
真田は「彼氏のほうも愛想を尽かしたらしいです」と答えた。谷本は今度こそ、自分の推理に確信をもった。
「浮気されたほうと彼女を愛していないほう、この二つにはね、『どちらも彼女を愛していない』という共通点があるんだよ。一方、真田君は彼女を愛しすぎた。それがアンサーだよ」
得意げな谷本だが、他の二人は呆けた顔をしている。
「……いまいち話が見えてこないです」
斎藤が申し訳なさそうに言った。
「斎藤君、海での会話は覚えているか?」
「私に海が似合う話ですか?」
「カップ麺の話だ」
谷本は間髪入れずに訂正した。
「海水でカップ麺は作れるか? ですよね」
「そうだ。あの時、僕は、お湯はカップ麺の成分を薄めるために注ぐのだと話した。一言一句合ってはいないだろうが」
「まあ、そんなところですね」
斎藤は、まだわからないというふうに首を捻る。真田は、斎藤よりも混乱している。
「これが斎藤君への最後の問いだ。カップ麺の正式名称は?」
投げかけられた質問が思いのほかチープだったので、斎藤は更に首を捻った。「バカにしてます?」
「仕方ない。僕が答えるか」
谷本はやれやれというふうに首を振った。
「い、いや、私が解きます! 『即席カップめん』です」
斎藤は声を張り上げた。すぐに、谷本の言っていた真相が見えてきた。それに対する理解度が深まるほど、彼女は笑いたくなった。
「即席彼女は、愛を注がれ過ぎたんだ。坂本樹里が消えたのは、真田君のせい——」
「博士」
斎藤が遮る。「調子に乗らないでください」
真田も理解が及び始めたのか、頭を抱え、蹲ってしまった。普段の彼からは想像もつかない嗚咽が響き渡った。
「博士、彼女を助ける方法は!」
真田は立ち上がり、谷本の肩を揺さぶった。谷本は小さく首を振る。
絶望する真田を少しでも労わってやりたかったが、不器用な谷本には為す術が無かった。
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