破れ羽の蝶

ウヅキサク

破れ羽の蝶

 夜道で一頭の蝶を拾った。


 無惨に羽の破けた、柄からして恐らく雄の蝶だった。

 羽が破けてなおバタバタと羽ばたき、飛べぬ身体を引き摺り藻掻く姿がなんとなく哀れに見えて、私はその蝶を拾い上げ、家へと持ち帰った。元来昆虫採集は好きな質であったし、死んだら標本にしてみようという下心もあった。

 蝶を傷つけないよう、専用のパラフィン紙の代わりにお札で三角形を作り蝶を収めた。私の手に掴まれた蝶は暴れ、裂けた羽で私の手を打ち、その度に舞う鱗粉が街灯を反射して粉雪のように煌めいた。

 家に持ち帰った蝶を、小ぶりの段ボール箱にラップを張って空気穴を開けた簡易的な入れ物に移し、道中で拾った枝と砂糖水で満たしたペットボトルの蓋を中に入れた。

 蝶はか細い足で箱の中を動き回り、時折羽をばたつかせ、箱から逃げ出そうとするかのようにジタバタと暴れ回った。その度に鱗粉が剥がれ、羽の裂け目が広がっていくのが虚しく、また哀れでもあった。

 その日は、時折思い出したように羽ばたき、箱を打つ蝶の羽音を何とはなしに聞いているうちにいつの間にか寝てしまっていた。

 次の日、目を覚ますと箱の中で蝶が羽を閉じて転がっていた。

 縮こまった六本の細い足にも、微かに湾曲した腹部にも生気は感じられず、持ち上げてもただ指先にカサリと乾いた感触を残すだけだった。

 蝶を摘まみ上げて展翅板に乗せ、胸の中央にピンを刺す。美しく鮮やかな羽を広げて展翅テープで抑え、ピンで形を整えた。

 か弱く脆い蝶の羽に細心の注意を払いつつ、綺麗な左右対称に形の整えられた蝶を見下ろして微かな溜息を漏らす。羽の破けも、個人で保管し、鑑賞する分には一種の味と言えないこともない。このまま暫く乾燥させれば標本は完成する。蝶を日陰に移し、私はそのまま会社へ出かけた。

 その日の昼に、なんとなく後輩にその話をすると、後輩はへぇ、と目を丸くし、

「羽の破れた蝶かぁ。格好いいですね」

 と言った。その思いがけない言葉に思わず、格好いい? と聞き返すと、後輩は頷いて、

「雄の蝶って、あの可憐な姿と裏腹に雌を巡って意外に激しい争いをするんですって。その最中に羽が破けてしまうことも多々あるって。だから、きっとその蝶も激しい戦いを生きた歴戦の戦士ってことじゃないですか。……勝ったのか負けたのは分からないけど。そう思ったら羽の破けた雄の蝶って凄く格好良くないですか?」

 後輩はそう言って笑い、そしてふと何か思いついたように話題を変えて何事か話し始めた。私はその言葉をぼんやり聞き流しながら、歴戦の戦士、という言葉が脳みそにこびりついて離れなかった。

 その日家に帰り、展翅版に固定した蝶を手に取った。

 破れた羽。所々剥げ落ちた鱗粉。折れた触角。

 そのどれもが、厳しい自然を生き抜いた勲章であるかのように今の私の目には映った。

 思えば、野生を生きるもの達の生はみな須く過酷な戦いだ。

 食い食われ、生きるために逃げ、戦い、子孫を残すために戦い守り、命を繋いで朽ち果て、その身は他の生命の糧となり土へと還り、そして新たな命を育む。

 過酷な戦いを生き抜いた気高い戦士の死を、私は汚してしまったのではないだろうか。

 人間の目には例えどんなに残酷に映ろうとも、地面の上で死ぬまで生きようと暴れ藻掻き、そして力尽きて他の生き物の糧となる。それこそが戦士としての正しい生き様だったのではないだろうか。

 私は黙って展翅テープを外し、ピンを抜いて蝶の死骸を掌に乗せた。

 紙のひとひらと変わらぬほどのその重さはしかし、重厚な命の質量をしっとりと孕んでいる。

 私はその死骸を掌に乗せて近くの草叢へと行き、そっと地面の上に蝶を置いた。黒く湿った土の上で、色褪せた蝶の羽はまるで誂えたかの様に馴染んで見えた。

 土の上を歩いていた一匹の小さな蟻が蝶の死骸に気がつき、せかせかと近寄って腹部を咥えた。蟻の身体と比べあまりに大きな蝶を、その小さく細い身体からはまるで信じられない力強さで草叢の奥へと引き摺っていく。

 私は蝶の死骸が草叢の奥にある暗がりへと消えていくのを、ただじっと見つめていた。

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