透明なのかと考え込んでしまった

5/30時点では2つの短歌は日常を詠んでいる。
私は2つの短歌を紐づけて考えてしまった。

1つは推しのラジオにお便りを投稿している短歌で、
もう1つは土曜日の三十分に元気になっている短歌だ。

私が引っかかったのは、
お便りが読まれたら透明じゃないことを認識する1つめの短歌だ。

お便りが"読まれなかったら"、
詠み手は自分を透明だと感じているのだろうか。
そのラジオでどれだけのお便りが読まれるのかはわからないが、
チャンスは土曜日の三十分だけだ。

そう思うと、私は日常ですれ違う人たちが、どれだけ透明か。
私自身も透明なのだろうかと考え込んでしまった。