第20話 貧民街
マリアは何度かランダムに街角を曲がり、細い路地を抜け、貴族の屋敷へと向かった。特定の目撃者を作らないようにと、そう指示された。ブルーローズを入れた腰に下げた布袋が、歩くたびに軽く揺れる。彼女は周囲を警戒しながら歩を進めた。彼女が身にまとうのは、幾度も繕われた粗布のワンピースだ。かつては濃い茶色だったであろうその生地も、今では日に焼けて色褪せ、至る所に継ぎ当てが施されている。このエリアは貴族領だ。道行く人は無視するか、露骨に軽蔑の視線を向けてくる。
「仕事を頼むなら、ましな服も用意してくれたらいいのに……」
ワンピースの裾は、彼女の足首まで届くものの、所々ほつれが目立つ。袖口は短く、細い腕が露わになっている。その腕には、日々の労働で得た傷跡や、日焼けの跡が散見される。
配達先の玄関をあらかじめ決めたリズムでノックすると、すき間から手が出た。巾着袋を受け取り、代わりに配達料をもらう。取引は無言で終った。しかし、男の背後にノーラたちが待機していることは知る由もない。
ノーラとアデルは、マリアの姿を見失わないよう注意しながら、慎重に後を追った。
「おそらく貧民街のひとだと思います。最低です、立場の弱いひとを利用するなんて」
「悪魔界でも同じよ。強いものは弱い者から、さらに搾取する」
マリアは急いで貴族の屋敷から離れ、再び細い路地に身を隠した。心臓の鼓動が早鐘のように響く。彼女は深呼吸をして落ち着こうとするが、周囲の目が気になって仕方がない。今握っている金貨がばれているという、後ろめたい気持ちがなおさらそう思わせる。
「仕方ないのよ、そう、悪いのは私じゃない。あれが何かも知らないんだから……早く帰らなくちゃ」
彼女は小走りに貧民街への帰路を急ぐ。途中、パン屋の前で足を止める。ポケットの中の硬貨を数え、少し迷った末に店内に入った。
「いらっしゃい……あら、マリアちゃん」
パン屋のおばさんが少し驚いた表情を浮かべる。マリアがこの店に来るのは珍しいことだった。おばさんが自分を覚えていて、嫌な顔をしないことに驚いて、声が出ない。
「……あ、あの、一番安いパンをください。二つ」
マリアは恥ずかしそうに言う。おばさんは優しく微笑んで、棚から新鮮なパンを取り出した。
「はい、ここ最近の豊作のおかげで、少し値段も下がってるのよ。ほら、おまけもつけておくわね」
おばさんは小さなクッキーを一つ付け加えた。マリアは感謝の言葉を述べ、店を出た。家路を急ぐマリアの頬に、自然と小さな笑みが浮かぶ。今日は義妹のリサにいいものを食べさせてあげられる。そう思うと、心が少し軽くなった。育ち盛りの妹はもっと栄養を取らなければいけない、血はつながっていなくても私には大事な妹だ。「分け隔てなく接してくれるひともいるんだ」とマリアはパン屋の対応に少しだけ勇気をもらい、胸を張って歩くことができた。
「なんだか悪いひとには思えないですね」
アデルはマリアを観察して、顎に手を置いた。
「きっと、自分が何をしているのかもわからないのよ。歯車として使われているだけだわ」
ノーラは、安全な背後に隠れて甘い汁をすする輩が大っ嫌いだった。なんとか彼女、マリアの目を覚まさせようと思った。
貴族領から貧民街に戻ると、見慣れていた景色が、ひと際みじめに見えてくる。木の骨組みの間に、藁や小枝を混ぜた泥や粘土を詰めた壁は雨風でひびが入っている。ドアの立て付けが悪く、すき間風が入ってくる。手の中のお土産のパンがひどくつまらないものに急に思えてきた。彼女は首を振って、落ち込む気分を振り払うと、空元気を装い、ドアを開けた。
「リサ、帰ったよ!今夜はごちそうだよ、ほら……」
しかし、いつも迎えてくれる無邪気な笑顔はなかった。
床に倒れたリサが青い顔をしている。そして、ブルーローズを隠しておいた床の板がはずされていた。それが意味することは……甘菓子と勘違いして誤飲したのだった。
「リサ!まさか飲んだの!?ああ、なんてこと、わたしのせいだっ!」
マリアは叫び、妹の元へ駆け寄る。しかし、意識がない。
その時だった、ドアが勢いよく開き、見知らぬ人々が部屋に飛び込んできた。アデルとノーラだ。
「どいて!見せなさい」
ノーラがマリアを押しのけ、リサの脈拍を確認する。脈がない、ノーラは魔力で微弱な電流を手にまとい、心臓マッサージを繰り返した。額の汗が垂れる。
「アデル、緊急よ。教えた簡易魔方陣を描いて、ストロスを呼んで!」
マリアはなにがなんだかわからずに呆然と口を開けて、彼女らの行動を見ているだけだった。体から力が抜けて、動くことができなかった。
アデルは早急に虚空に魔方陣を描えがいて、召喚の呪文を唱えた。水を異界への入り口とするストロスが水桶から顔を出した。
「なによ、ノーラ?あら、あなたは魔女の、アデルと言ったかしら?今からお風呂に入るところなのよ」
「ストロス、この子を助けなさい!」
ストロスの気だるげな声と対照的な緊張感のある怒号をノーラが発する。
「なによ藪から棒に」
彼女はうろたえることもなく、リサを観察する。
「無理よ」
「なんで!」ノーラが詰問する。
「だって、死んでるもの」
「あなたならなんとかなるでしょ!」
「死者の復活は私でも無理。神の領域なのはあなたも知っているでしょ。この子、予言で世界を救うメシアにでも成長するのかしら?あなたがそんなに焦るなんて」
「今日、会ったばかりの子よ……」
「そう、じゃあ、仕方ないじゃない。この子の運命なんだから」
「……そうだけど」
ノーラは悔しそうにうつ向いた。そしてストロスの悪魔らしい冷徹さにいらついている自分に驚く。ストロスの態度は悪魔として至極当然なのに。私は人間界に来て、何かが変わったのかもしれない、と彼女は狼狽えた。それは弱さだろうか?
立ち上がると、ドアに手をかけた。立て付けの悪いドアを無理やり壊して、足早に外に出た。
ストロスはお手上げだと両手を上げ、アデルはあたふたとノーラとストロス、マリアとリサの間で目を泳がせた。しかし、アデルは調査の中で少しだけ肝が据わったのか、すぐに自分の役割を自覚し、マリアに話しかけた。
「私はアデルハイトといいます。あなたが貴族に渡した薬について調べている教会の調査団です」
「……リサは、リサは、死んだの?」
マリアはアデルを見ていない。リサを指さし、わなわなと震えている。
「……残念ですが。小さい子の体には強すぎたようです。こんな時に酷ですが、リサさんのような子を出さないためにも、知っていることを、誰に頼まれたのかを教えてくれませんか」
「ただ、お金がほしかっただけ……罰が当たったんだよ。私のことを殺せばいいのに、神さまはなんでリサを奪うの?」
「それは……」
アデルは自分が作った布教用の小冊子が机にあるのを見つける。この区域にもかつて活動で来ていたことを思い出す。彼女にもきっと会っていたのだろう、そして読んでくれていたのかもしれない。アデルははたして神の教えを今、口にしたところでマリアが納得するだろうかと考えた。神の言葉が無意味であるとは思わない、しかし、ノーラと行動を共にするうちに安易に「神の言葉」を口にするのをためらうようになっていた。彼女もまたノーラとは違う意味で変わっていたのかもしれない。
「なにも知らないの。仮面を被ってて……神父様の恰好をしていた。優しい説教で、あたしはなんだか催眠術にでもかかったみたいで……」
「聖職者だったんですね!」
アデルは父の最後を思い出した。遺体は教会側に持ち去られ、真相は闇の中だ。きっとお酒に溺れていたわけではない、父もブルーローズに支配されていたのだと直感した。
「わたしたちに任せてください。犯人にはきっとリサさんの死を償わせます」
結局、マリアの情報では、例の神父の居場所も名前もわからなかった。
ノーラが戻ってくる。
「……ごめんなさい。取り乱してしまって。今日は引き揚げましょ」
「ノーラ、リサさんをこのままにしておくつもり?私たちで埋葬してあげましょう」
アデルがいつも優しいノーラの中に、冷たい悪魔の一面が一瞬垣間見えたようで、必至に引き留めた。
「え、ええ……そうね。そうするべきだわ」
マリアを知る隣近所の成人男性に穴を掘るのを手伝ってもらう。アデルも汗を流して、土を外に持ち出した。マリアは今だ現実を受け入れられずにいた。
リサの遺体をそっと横たえ、丘の周囲に生えている名も知らぬ花を顔の周りに一人ずつ、添えた。その時になってようやくマリアは現実に帰り、大粒の涙を流した。
「ごめんね、お姉ちゃんのせいで……天国ではりっぱな家でおいしいものを食べさせてあげてください、神様」
土をシャベルでかけ、木の板を十字に組んで、十字架の代わりとした。アデルは追悼の祈りを捧げた。目を閉じ、両手を胸の前で合わせると、優しく語りかけた。
「天の神様、そして私たちの知らない全ての善なる力よ、
今、あなたの御許に召されたリサの魂をお守りください。
彼女は短い人生の中で、多くの苦難を経験しました。
しかし、その純真な心は決して曇ることはありませんでした。
どうか、リサに永遠の安らぎをお与えください。
彼女が夢見た、愛と希望に満ちた世界へと導いてください。
そして、私たちに力をお与えください。
この世界の闇と戦い、リサのような無垢なの魂が二度と犠牲にならないよう、
正義と慈愛の道を歩む勇気をお与えください。
悪魔も天使も、全ての存在が平和に共存できる世界の実現のために、
私たちの心を導き、知恵をお授けください。さようなら」
祈りを終え、振り返ると、ノーラも跪いてアデルの言葉を復唱していた。アデルは驚き、それを意外そうな目で見るストロスがいる。
「たしかに無関心な悪魔でも、こんな子供が犠牲になると、心が動かされるものね。私の領分である、薬学でこんなひどいことをする悪魔は放っておけないわ。よし、犯人を捕まえるまで私もあなたたちと行動を共にする」
ストロスは埃が舞う墓地で、眼鏡をハンカチで拭きながら、そう言った。
「ストロス……ありがとう」
ノーラが少しだけ綻んだ。
「いいえ、何度も呼ばれるよりいいわ」
埃を叩いて、人間界の愚痴を言うストロスは置いておいて、アデルはマリアを見て、力になりたいと思ったが、今の私にはそんな力はないと思い直し、口をつぐんだ。それよりも犯人にたどり着くことが先決だ。今回の事件はアデルの甘い冒険心を打ち砕き、正義の鉄槌を下すための行動へと駆り立てたのだった。
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