第10話 契約
アデルの意識がゆっくりと覚醒していく。目を開く前から、かすかに感じていた違和感がある。
そこに見慣れた天井はないだろう、そんな確信があった。
重い瞼をようやく持ち上げると、そこはなるほど見知らぬ空間だった。首を回して見渡す。薄暗い室内、古びた木製の天井、見慣れぬ色のカーテン、不思議な薬草の香り。ぼやけた脳が少しずつ情報を分析してゆく。
「気づいたみたいね」
不意に視界に飛び込んできた、ノーラの顔。綺麗なブロンドの髪が垂れ、透き通った碧眼がアデルを心配そうにのぞき込んでいる。
アデルは思わず身体を起こそうとするが、思うように体が言うことを聞かない。脳への命令にタイムラグがある感じだ。
「まだ駄目よ、無茶しちゃ」
「ノーラさん……ここは……?」
アデルが小さな掠れた声で尋ねた。ノーラは胸を張り、自慢げに微笑んだ。
「私の部屋兼事務所といったところかしら。まだ引っ越したばかりで散らかってるけど」
部屋の隅には、古めかしい木製の机が置かれている。その上には分厚い本や、見慣れない道具が所狭しと並べられていた。壁際には大きな本棚が鎮座し、そこには見知らぬ文字の書物や巻物が詰まっている。部屋のあちこちに、乾燥させたハーブの束がぶら下がっているのが、独特の香りの原因だ。
これらの運搬を可能にしたのはノーラが人間界に来たため、悪魔界と人間界の間に細い通路が開き、小さな荷物なら往来させることが可能になったためだ。ゴメスのような闇の業者に高額を支払い、運んでもらった。
「お父様は!あの後……」
「残念だけど、お亡くなりになったわ」
アデルは最後の父の言葉だけは覚えていた。わたしのことを愛していた、と。その間のことを思い出そうとするが、まるで濃い霧に阻まれているかのようだった。父から逃げたいと思ったが、このような形ではなかった。それを想像した自分の罪が、現実を歪めたのだろうか。
「気絶していたのよ、二日も」ノーラが言葉を継いだ。「あれだけのことがあれば、無理もないわ。でも安心して。ここは安全な場所だから。まあ、魔法のようなものかしら、この部屋のドアは発見できないように認識阻害されているのよ」
(魔法?認識阻害?)アデルは首をかしげた。時々、ノーラは意味のわからない不思議な単語を使う。(なにかの例えかしら?)
ノーラはアデルの手をそっと握った。その暖かさにアデルはようやくこれが現実であると実感した。
「もう少し寝てなさい。食事を作るわ、食べたくないだろうけど、少しでも食べなきゃ」
アデルは安心感に包まれ、再び眠りに落ちた。
アデルが起きると、食欲をそそる匂いがする。ノーラとへレーネが暖炉のポットハンガーに鍋を吊るして、協力して粥を作っている。オーツ麦の塩粥だ。
「さあ、食べて。料理は得意じゃないのよ。おいしいかわからないけど、へレーネに教わって作ったの」
あつあつの湯気がたつお皿が、アデルのベッドに運ばれた。最悪な気分なのに粥の香りに思わずお腹が鳴って、アデルは赤面した。スプーンいっぱいのオーツ麦の塩粥が、少女の唇に触れた。最初の一口は、まろやかな温かさと共に広がる。舌の上でゆっくりと溶けていく粥は、なめらかでクリーミーな食感。塩の控えめな存在感が、オーツ麦本来の優しい甘みを引き立てる。シンプルな味わいの中に、微かな粒々した食感が時折顔を覗かせ、飽きのこない味わいを生み出す。口の中に残る塩味は、不思議と安心感をもたらし、次の一口を誘う。素朴でありながら、どこか懐かしさを感じさせる味。それは胃に優しく、心まで温めてくれるような不思議な力を持っていた。
無言で食べるアデルを見ながら、ノーラはとても満足げだ。
「いい食欲ね。人間の基本だものね」
アデルはふと思う、ノーラはまるで自分が人間ではないような言い回しをする。そして、その言葉は自然に口に出た。
「ノーラさん、あなたは人間ですか」
「え、え、えーと、どうゆう意味かしら?なんでそんなこと聞くの」ノーラはもじもじとスカートの裾を握る。「これから言おうと思っていたのに……」
「鋭いんですね、アデルハイト嬢」
へレーネが感心した。記憶の忘却を施していたにもかかわらず、あの戦闘でのノーラの能力を朧げに覚えていたのだろう。そしてノーラと目配せをする。ノーラは真剣な声色になった。
「いろいろなことがあって混乱してるでしょう。これから言うことはさらにあなたを混乱させると思う。でもわたしにもあなたが必要なの。だから聞いてほしい」
ノーラは深呼吸をして、アデルの肩に手を置いて、まっすぐ見つめた。
「アデル、私は……悪魔なの」
アデルの目が大きく見開かれた。彼女は言葉を失い、ただノーラを見つめ返すだけだった。
「信じられないと思うわ。でも、これが真実なの。私は悪魔界からやって来たの」
「……でも人間と同じに見える」
ノーラとへレーネが頷き合うと、身体が淡く発光し、羊のような角と赤い瞳、黒い羽があらわになった。
「あなたたち人間が描く悪魔は異形の化け物だけど、わたしたち上級悪魔はほとんど人間似の姿なの。上級とか下級とか、そうゆう差別は好きじゃないけどね。進化の過程で悪魔から人間が生まれたという説もあるくらいよ」
「……きれい」アデルは見惚れた。「なんでだろ、ずっと悪魔を忌み嫌うように教わってきたのに」
「そ、そう?ありがと」ノーラは初心な乙女のように赤面した。「でね、私たち悪魔は、人間界で長く存在するには魔力供給が必要なの。その魔力を得るには、人間との契約が必要なのよ。アデル、あなたと契約を結びたい。その代わり、あなたに魔法を使える力を与えるわ」
アデルは混乱した様子で尋ねた。
「契約って……私の魂を食べるってこと?」
ノーラは首を振った。
「それは教会が怖がらせるために考えた教訓なのよ。もっとシンプルよ。あなたの魔力源、つまり生命力の一部を私が受け取る」
「でも、私には魔力なんてないわ」
アデルは反論した。
「いいえ、契約によって、あなたは魔女になる。魔女の魔力が私をこの異世界、人間界に固定させるの。これは悪魔界のシステム、そうゆうものと考えて」
「なんで、私なんですか。何の取り柄もない……どんくさい私が」
アデルはうつむく。今だ父の言葉の呪縛から逃れられないでいるらしい。
「そんな悲しいこと言わないで。昔ね、私のお祖母ちゃんが、アデルのお母さんと契約してたの、だから、これも運命、神の思し召しね、って私が神に感謝なんて冗談になるわね」
「お母さんが!!」
「じゃあ、こうしましょう。あなたはお母さんを探したい、私はアデルのお父さんを狂わせた悪魔を見つけたい。もしかしたら、実家が関係してるかもしれないから。協力しましょ」
アデルはどう答えていいのかわからず、答えに窮した。
「それに取り柄ならあるじゃない、天才的な数学的才能が!」
アデルは黙って考え込んだ。もう父はいない。帰りが遅くなっても、叱る人はもういない。静まり返った屋敷の空気の中、自分の呼吸音だけがやけに響いた。
すべての決定権は、いまやこの小さな手に委ねられている。ベッドの中、アデルの拳がぎゅっと握られ、シーツがしわくちゃに潰れた。
「……どうすれば、契約できるの?」
声は掠れていた。けれど、迷いはなかった。
ノーラは静かに微笑んだ。同じ年頃とは思えない、どこか永遠を知っているような大人びた笑みだった。
「目をつむって、力を抜いて」
囁くような声。
アデルの肩がすっと下がる。まつげが震え、唇がわずかに開く。
次の瞬間——
ノーラの唇が、優しく、しかし確かな意志をもって重ねられた。柔らかく、少し冷たい感触。アデルの体がびくんと震える。目を閉じていてもわかる、唇から全身に走る熱。
キスは長かった。まるで時間ごと閉じ込められたように、音も息も奪われる。
その時、頭上に淡く紫がかった魔方陣が輝きだし、静かに回転する。円形の光が、二人の身体を上から下へとゆっくりと落下し、互いの気の流れをスキャンしてゆく。
唇が離れると、アデルの頬がかっと紅潮した。目を開けるのが怖くて、少しだけまぶたを開ける。ノーラの顔が、目の前にある。
ノーラは自らの指先を、するりと牙で噛んだ。ぷくりと浮かぶ血の珠が、まるで赤い宝石のように輝く。
「ちょっとだけ我慢して」
今度はアデルの指先を、悪魔の爪がチクリと刺した。ほんのわずかな痛み。でも、それすらも儀式の一部のように、どこか心地よかった。もう少し痛くてもいい、そんなことを考えてしまった。
ノーラが彼女の血を口に含み、アデルもそれに応じるようにノーラの指先を口に咥えた。
互いの血が混じり合う瞬間、空間の気配が一変した。
アデルの手の甲に、白百合の紋章が浮かび上がる。淡く、優雅に、光をまといながら——
「わたしの家の家紋だわ。契約は、成功よ!」
「大司教の娘が魔女だなんて……神様、お許しください」アデルは囁くように言った。「私、いい魔女になれますか……ノーラさん」
「ノーラよ」
「……ノーラ」
二人の視線が絡み合い、時が止まる。二人の唇が再び__
……と、静寂を破るように、へレーネが咳払いをひとつ。「お嬢様」
「さ、さあ、今夜はお祝いね。ご馳走を買わなきゃ、もちろんワインも!」
ノーラは照れを隠すように、買い物の準備をし始めた。
アデルは白ユリの紋章を指でそっとなぞっていた。
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