第10話 契約

 アデルの意識がゆっくりと覚醒していく。目を開く前から、かすかに感じていた違和感。

 そこに見慣れた天井はない、そんな確信があった。

 重い瞼をようやく持ち上げると、そこはなるほど見知らぬ空間だった。首を回して見渡す。薄暗い室内、古びた木製の天井、見慣れぬ色のカーテン、不思議な薬草の香り。ぼやけた脳が少しずつ情報を分析してゆく。

「気づいたみたいね」

 不意に視界に飛び込んできた、ノーラの顔。

 アデルは思わず身体を起こそうとするが、思うように体が言うことを聞かない。脳への命令にタイムラグがある感じだ。

「まだ駄目よ、無茶しちゃ」

「ノーラさん……ここは……?」

 アデルの掠れた声に、ノーラは小さく微笑んだ。

「私の部屋兼事務所といったところかしら。まだ引っ越したばかりで散らかってるけど」

 そう言って、ノーラはアデルの視界から少し離れ、室内を指し示した。

 部屋の隅には、古めかしい木製の机が置かれている。その上には分厚い本や、見慣れない道具が所狭しと並べられていた。壁際には大きな本棚が鎮座し、そこには見知らぬ文字の書物や巻物が詰まっている。部屋のあちこちに、乾燥させたハーブの束がぶら下がっているのが、独特の香りの原因だ。

「お父様は!あの後……そうだ、死んだのね……」

 アデルは最後の父の言葉を反芻した。愛していると、そして母親が生きているかもしれないこと。その後のことを思い出そうとするが、まるで濃い霧に阻まれているかのようだった。すべてが夢のようだった。

「気絶してしまったのよ、二日も」ノーラが言葉を継いだ。「あれだけのことがあれば、無理もないわ。でも安心して。ここは安全な場所だから。まあ、魔法のようなものかしら、この部屋のドアは発見できないように認識阻害されているのよ」

 アデルは首をかしげた。時々、ノーラは意味のわからない不思議な単語を使う。そう言って、ノーラはアデルの手をそっと握った。その温かさに、アデルは得も言われぬ暖かさを感じた。

「もう少し寝てなさい。食事を作るわ、食べたくないだろうけど、少しでも食べなきゃ」

 アデルは安心感に包まれ、再び眠りに落ちた。


 アデルが起きると、食欲をそそる匂いがする。ノーラとへレーネが暖炉のポットハンガーに鍋を吊るして、協力して粥を作っている。オーツ麦の塩粥だ。

「さあ、食べて。料理は得意じゃないのよ。おいしいかわからないけど、へレーネに教わって作ったの」

 あつあつの湯気がたつお皿が、アデルのベッドに運ばれた。最悪な気分なのに粥の香りに思わずお腹が鳴って、アデルは赤面した。スプーンいっぱいのオーツ麦の塩粥が、少女の唇に触れた。最初の一口は、まろやかな温かさと共に広がる。舌の上でゆっくりと溶けていく粥は、なめらかでクリーミーな食感。塩の控えめな存在感が、オーツ麦本来の優しい甘みを引き立てる。シンプルな味わいの中に、微かな粒々した食感が時折顔を覗かせ、飽きのこない味わいを生み出す。口の中に残る塩味は、不思議と安心感をもたらし、次の一口を誘う。素朴でありながら、どこか懐かしさを感じさせる味。それは胃に優しく、心まで温めてくれるような不思議な力を持っていた。

 無言で食べるアデルを見ながら、ノーラは満足げだ。

「いい食欲ね。人間の基本だものね」

 アデルはふと思う、ノーラはまるで自分が人間ではないような言い回しをする。その言葉は自然に出た。

「ノーラさん、あなたは人間ですか」

「え、え、えーと、どうゆう意味かしら?なんでそんなこと聞くの」ノーラはもじもじとスカートの裾を握る。「これから言おうと思っていたのに……」

「するどいんですね、アデルハイト嬢」

 へレーネが感心した。そしてノーラと目配せをする。ノーラは真剣な声色になった。

「いろいろなことがあって混乱してるでしょう。これから言うことはさらにあなたを混乱させると思う。でもわたしにもあなたが必要なの。だから聞いてほしい」

ノーラは深呼吸をして、アデルの肩に手を置いて、まっすぐ見つめた。

「アデル、私は……悪魔なの」

 アデルの目が大きく見開かれた。彼女は言葉を失い、ただノーラを見つめ返すだけだった。

「信じられないと思うわ。でも、これが真実なの。私は悪魔界からやって来たの」

「……でも人間と同じに見える」

 ノーラとへレーネが頷き合うと、身体が淡く発光し、赤い角と黒い羽があらわになった。

「あなたたち人間が描く悪魔は異形の化け物だけど、わたしたち上級悪魔はほとんど人間似の姿なの。上級とか下級とか、そうゆう差別は好きじゃないけどね。進化の過程で悪魔から人間が生まれたという説もあるわ」

「……きれい」アデルは見惚れた。「なんでだろ、ずっと悪魔を忌み嫌うように教わってきたのに」

「そ、そう?ありがと。でね、私たち悪魔は、人間界で長く存在するには魔力供給が必要なの。その魔力を得るには、人間との契約が必要なのよ。アデル、あなたと契約を結びたい。その代わり、あなたに魔法を使える力を与えるわ」

 アデルは混乱した様子で尋ねた。

「契約って……私の魂を食べるってこと?」

 ノーラは首を振った。

「それは教会が怖がらせるために考えたもの。もっとシンプルよ。あなたの魔力、つまり生命力の一部を私が受け取る」

「でも、私には魔力なんてないわ」

 アデルは反論した。

「いいえ、契約によって、あなたは魔女になる。これは悪魔界のシステムなの、そうゆうものと考えて」

「なんで、私なんですか。何の取り柄もない……どんくさい」

 アデルはうつむく。今だ父の呪縛から逃れられないでいる。

「そんな悲しいこと言わないで。昔ね、私のお祖母ちゃんが、アデルのお母さんと契約してたの、だから、これも運命、神の思し召しね、って神は冗談だけど」

「お母さんが!!」

「じゃあ、こうしましょう。あなたはお母さんを探したい、私はアデルのお父さんを狂わせた悪魔を見つけたい。もしかしたら、実家が関係してるかもしれないから。協力しましょ」

 アデルはどう答えていいのかわからず、答えに窮した。

「それに取り柄ならあるじゃない、天才的な数学的才能が!」

 アデルは黙って考え込んだ。しかし、もう父はいない、帰らなくても怒る人はいないのだ。すべての決定権は自分にある。

「どうすれば……契約できるの?」

 アデルは小さな声で尋ねた。

 ノーラは優しく微笑んだ。

「目をつむって、力を抜いて」

 ノーラの唇がアデルの唇に重なる。ぴくんとアデルが反応する。長いキス。頭上に魔方陣が発動し、二人の体内の気の流れをスキャンするように通過した。唇が離れると、頬を上気させたアデルがゆっくりと目を開けた。

 そして、ノーラは自らの指先を牙で噛み、血が隆起する。「ちょっとだけ我慢して」と、今度はアデルの指先を悪魔の爪でチクッと刺した。互いの血を飲む。 

 アデルの手の甲に、白ユリの模様の痣が浮き出た。

「わたしの家の家紋だわ。成功よ!」

「大司教の娘が魔女だなんて、おかしいです。私、いい魔女になれますか、ノーラさん」

「ノーラよ」

「ノーラ……」

 見つめ合うふたりに、へレーネが咳ばらいをする。

「さ、さあ、今夜はお祝いね。ご馳走を買わなきゃ、もちろんワインも!」

 ノーラは照れを隠すように、買い物の準備をし始めた。

 アデルは白ユリの紋章を指でなぞっていた。

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