暮方(くれがた)の窓

七迦寧巴

第1話 ソプラノの声

 高校二年の夏休みが始まったものの、最初の一週間は講習がある。希望者だけではあったが、とくに旅行の予定もなし。家でだらだら過ごすよりは学校で講習を受けたあと遊んで帰るほうが楽しいだろうと思い、黒木暁斗あきとは受講することに決めた。


 同じクラスでいつも行動を共にしている親友の小杉文弥ふみやも受講するので気は楽だ。二人は中間試験であまり点数が思わしくなかった古典の講習を受けることにした。


 暁斗たちが通う高校は共学として開校してまだ五年と歴史が浅い。この地域にあった男子校と女子校が合併し、新しい高校として再出発したのだ。校舎は新たに建てられたので、設備などもまだ綺麗で、高校生活を送るには非常に心地良い。


 ただ、偏差値はこの界隈の高校に比べるとまだまだ低く、殆どの生徒は専門学校に進学するか就職している。そこで教師達は、生徒の学力向上に力を入れ始めた。去年から選抜クラスも開設され、成績優秀な生徒は高校二年からこのクラスに振り分けられ、より専門的な授業が行われているようだ。

 暁斗も文弥も二年になったとき、選抜クラスには入れられなかったので、具体的にどんな授業がおこなわれているのかは知らない。


 ふたりは中学からの同級生で、この高校もバスで十五分と近かったので選んだ。

 バス停を下りたところには、ファストフード店と数軒の個人商店がある。そこを通り過ぎるとすぐに学校のグラウンドが見えてきて、その奥に校舎がある。

 講習が終わったあとはお好み焼きでもいいなと話しながらふたりは古典の講習がある教室に向かった。


 他のクラスの生徒たちも当然居るので、席は決められてはいないようだ。来た生徒から好きな席に座っていた。暁斗たちは後ろの席を陣取った。人数にして十五人程か。

 一年の時に同じクラスだったメンツも見つけ、あれこれ話をしていると古典担当の鈴木が教室に入ってきたので、皆着席した。


 鈴木は恰幅の良い男性教諭で、古文を読む声もよく通る。授業でその声を聞いていると、つい眠くなってしまい暁斗は授業に集中出来ないのだ。この講習でも眠くなるんだろうか、そんなことを考えていた。

 講習を受けている生徒の自己紹介はとくになく、鈴木は小冊子を皆に配った。教科書とは違うものを教わるようだ。


「今回は平家物語、能登殿の最期を取り上げるぞー。じゃあ、まず読んでもらうかな。須田すだ、お願いできるか」


 初めて扱う章なのにいきなり読ませる? と、暁斗は驚いたが、須田と呼ばれた女子生徒は何も言わずに席を立つと小冊子を開いて読み始めた。


「およそ能登守教経のりつねの矢先に回る者こそなかりけれ。矢だねのあるほど射尽くして、今日を最後とや思はれけん、赤地の錦の直垂に──」


 教師の鈴木までとは言わないけれど、よどみなく読み進めていく姿に目を奪われた。暁斗の席からは後ろ姿しか見えないけれど、ストレートの黒髪が肩甲骨のあたりで切り揃えられている。細身の体から聞こえてくるソプラノ調の声が可愛らしいと思った。すごく通る声だ。


「──我と思はん者どもは、寄つて教経に組んで生け捕りにせよ。鎌倉へ下つて、頼朝に会うて、もの一言言はんと思ふぞ──」


 抑揚のある語りを聞いていると、教経のそのときの情景が浮かんでくるような気がした。鈴木は小冊子に目を落としながら席の間をのんびり歩いている。小冊子を見ずに彼女の後ろ姿に気を取られている暁斗のそばに来ると、頭を軽くトンと人差し指で叩いて「聞き惚れたか? 続き読んでみるか?」と声を掛けた。


「あ、すみません」

 咄嗟に暁斗が口にしたので、朗読はそこで止まり、須田と呼ばれた生徒が振り返った。暁斗と目が合う。大きな目が暁斗を見ていた。前髪は短く、利発そうな眉が見えた。色白の肌からは、運動よりも室内で勉強するのが好きそうなタイプだと感じた。


「須田、ありがとう。座っていいぞ。この章は壇ノ浦の合戦の様子を描いたものだ。まずは──」


 鈴木は暁斗から離れると、教壇に向かいながら解説を始めた。

 須田と呼ばれた生徒が席に着くと、隣に座っていた女子生徒が振り返り暁斗を見て、彼女に楽しそうに何かを囁いている。何を話しているのだろう。


「古文って、あんなにスラスラ読めるものなのか?」

 文弥も驚きながら暁斗に声を掛けた。

「オレたち、受ける科目を間違えたかもな」と暁斗が言うと、

「これ、補習じゃなくて講習だったよな。ついていける気がしねえ」

 そう言って文弥は首をすくめた。


 講習のあと、鈴木は数人の生徒に別の小冊子を渡した。暁斗や文弥が受け取ったところから察するに、この小冊子をもらった生徒はさらに努力が必要な生徒のようだ。ぺらぺらと中を確認すると、分かりやすい解説が書かれていた。


「このページの課題をやって、明日見せてみろ」と言われ、内心げんなりする。

「あの須田って子、もしかしてA組?」と、暁斗が一年の時に同じクラスだった及川に声を掛けた。彼も選抜クラスのA組に入っているからだ。


「ああそうだよ。あいつ、どの科目もトップなんだ。特に古典は群を抜いてるよ」

 やはり受ける科目を間違えた。というより、講習に出ること自体が間違いだったのかもしれないと暁斗は小さく溜息をついた。それにしても、あの澄んだ声は聞き惚れる。


「じゃ、図書室で待っててネ。終わったら迎えに行くね」

 可愛いソプラノの声が暁斗の耳に入ってきた。見ると須田が隣に座っていた女子生徒にノートを渡している。


「うん。唯花ゆいかのノート見ながら勉強してるー。あとでね。頑張って」

 須田は笑顔を女子生徒に見せると教室を出て行った。どうやら次の講習を受けるのだろう。


 須田唯花というのか。暁斗は名前を記憶する。唯花のノートを受け取った女子生徒は鞄にしまうと席を立った。暁斗の視線に気づきクスっと笑って教室をあとにした。唯花に比べて背も高く、少しふくよかで、目尻が垂れた表情。色気のある生徒だと思った。


「あの子もA組?」

 暁斗の問いかけに及川は頷いた。

「土屋真琴まこと。須田といつも一緒にいるよ。あいつはクラスの中では下の方かな」

「ふぅん」と返事はしたものの、暁斗の頭の中には可愛いソプラノの朗読が残っていた。



 翌日。古典の講習のあと、暁斗たちは昨日出された課題の採点を受けていた。唯花は既に次の講習場所に向かったあとで、唯花の友人、真琴は暁斗たちと同様に課題の採点を受けている。


 真琴は鈴木にアドバイスを受けると教室を出て行った。図書室で昨日のように唯花を待つのかもしれない。


「黒木の場合は、まず単語を覚えることからだな。これはもう暗記しかないから頑張れ」

 鈴木が暁斗の小冊子に目を通しながら言う。

「単語覚えると、スラスラ読めるようになるんですか?」

「ん? まあそうだな。あとは活用形が頭に入っていれば読み間違えることはないな。ああ、須田か?」

「今日も読ませてましたよね。先生以外であんなにスラスラ読む人、初めてですよ」

 それを聞いた鈴木は楽しそうな顔をした。

「聞いていて、頭に入ってくるだろう」

 その言葉に暁斗は素直に頷く。


「須田は子供の頃から音読するのが好きだったらしい。とにかく古典は音読するそうだ。そうしているとリズムが分かってくる。リズムが分かると自然と長い文章も暗記出来る。もちろん単語や文法が理解出来ているから、聞き取りやすいように抑揚をつけられるんだけどな。黒木は黒木で出来る範囲をまずは頑張ってみろ」と言って小冊子を返してくれた。


 見た目は凜としている顔つきなのに、平家物語を読む唯花の声は澄んでいて可愛らしい。そのギャップにどこか惹かれるものを暁斗は感じていた。


「暁斗、おまえ、須田さんのことが気になってきたわけ?」

 文弥が冷やかし顔で聞いてきた。

「まだ分からないけど……」

 そうお茶を濁すと、文弥は暁斗の背中をポンと叩いた。

「須田さんが他になんの講習受けてるのか探しにいこうぜ」


 暁斗も文弥も女子生徒に告白されることは多い。文弥は気に入った子がいれば気軽に付き合うが、暁斗はそれが出来ないでいる。付き合うならその子を長く大事にしたいと思ってしまい、結局踏み出せない。自分から誰かを好きになり付き合ったことも今のところない。中学三年のとき気になった子はいたが、告白できないまま卒業した。


「あ、居た」

 文弥の声で我に返る。教室のドアのガラス越しに見慣れた後ろ姿を発見した。教壇に立っているのは日本史の先生だ。遠目にも唯花がマメにノートを取っているのが分かった。

「オレたちの周りには居ないタイプだな」

 文弥の言葉に暁斗も頷いた。

「なんでこの高校にしたんだろうな。もっとレベルの高い高校にもいけたんじゃないか?」

「オレたちと同じで、家から近いから選んだとか?」

「いや、それなら中学の頃に知ってるだろ」

「そりゃそうか」

 文弥はそう言ってから暁斗を見た。

「やっぱり好きになってるみたいだな」

「──まだ分からないって」

「イケメンなのに奥手だなあ」

 そう言って文弥は楽しそうに笑った。

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