鬼の本望

土井ヒイダ

第1話

〈こうすることでゆるされるのでしょうか……あなたたちを護れなかった我々が……〉

 瞑目めいもくし、鬼は胸の中で呟いた。

 彼のからだは香煙に霞む薄暗い空間に浮かんでいた。人々が『鬼念院』と名付けた石造建築物の中心部。円蓋を冠する壮麗な大講堂だ。壁面には等間隔で燭台が穿うがたれ、蝋燭のが堂内を琥珀色に染めている。

 全身を包む違和感が去った――そう彼が意識した瞬間、巨体が落下した。

 地響きが鳴る。足の爪が床を咬み石片と火花が散った。広大な空間が重い反響音をはらみ、程無くして静黙した。

 大講堂の床は堅固な岩盤が剥き出しになっている。彼が降り立ったのはそこから一段高い、祭壇が設けられた場所だった。

 屈めていた腰をゆっくりと伸ばし、顔を起こす。目蓋は閉じたままだ。静かに声を発する。ここに来るのは初めてだったが、言うべき言葉は心得ていた。

「お前は何を望む」

 ひび割れたしゃがれ声は正面下方に立つ青年に向けられていた。

 細身だが健康そうな青年は、ゆったりとした黒装束に身を包んでいた。その背後では数百もの人間が同じ姿で石床に坐している。皆、円頭に汗を滲ませ、青年とは対照的に疲労の色が濃い。負傷者や体の一部を失っている者もいる。ここに仕える僧職者たちだ。

「共に戦ってくれ」

 硬い声だった。青年の顔はやや蒼白く、隠せない緊張に引き攣っている。眼前に現れた巨大な鬼に気圧されていた。黒い瞳が畏怖と畏敬に見開かれている。

 無理もない。初めて間近に見る鬼の姿は恐ろしかった。身の丈は人の四倍以上。全身が岩石じみた筋肉でよろわれ、年輪のような褐色の縞模様が灰色の皮膚を隈無く覆っている。繊細でか弱い人間など、鉤爪の植わった指先でひとひねりだろう。

「何と戦う」

 鬼が再び問いかけた。青年の答えが気に入らなかったからだ。

 人間の求めに応じ、異界の鬼たちはこの世界に来る。人間の望みが鬼の望みでもあるという、その共通点が互いを引き合うからだ。しかし、この世界の人々は彼ら鬼の知る人間とは異なっていた。ひと言で表すなら。鬼を率い、敵を殲滅せんとする熾烈な闘志に欠けているのだった。だから鬼は確かめようとする。自分を呼んだ人間の、意志と覚悟の固さを。

「天から……天から現れた魔物だ」

 喉がひりつき、青年は無理やり唾を呑み込んだ。右手の甲で額に浮く汗を拭う。

 鬼にとっては頼り無いとしか評せない声音だった。彼が人間なら溜息をついただろう。目蓋を閉じたまま、身じろぎもせず黙り込む。彼はもっと強い言葉が欲しかったのだ。それを得られると信じて、ここに来た。

 この世界に呼ばれるようになってから、鬼たちは自身が変化していることに気づいていた。以前とは異なり、徹頭徹尾戦いのみに専念することが無くなったのだ。平穏と調和を求めるこの世界の人間たちの共闘者でありながら、庇護者でもある、という新しい立場に身を置くことを受け容れていた。

 とはいえ、やはり彼らは鬼だ。死力を尽くして戦うために生まれた。そのために対価を――闘争心を奮い立たせる言葉と意志を求める。人々の肉声を聞き、その生身の心の丈を感じたいのだ。頼もしく力強い激励に応え、生きる甲斐を噛み締めたいのだ。それは彼ら鬼が持つ鋼の心に芽生えた、初めてのと言えた。千年を経て生じた最大の変化だった。

 鬼が再び口を開く。青年の気骨と覚悟に期待し、敢えてきつい言葉を吐き、突き放す。

「俺には関係の無い話だ」

 青年が唇を噛んだ。鬼の言葉を否定できない。それでも巨体を見上げ、懸命に言葉を練る。魔物は今にも襲ってくるかもしれない。つまずくことはできない。退くわけにはいかないのだ。

「わたしたちには戦う術が無い。人の肉体はあまりに脆く、あの魔物たちには念が通用しないからだ。このままでは人は滅びる。だから……わたしたちはお前を召喚した。鬼の力が必要なのだ。お前たち鬼――」

 青年の言葉を遮り、鬼が猛虎の如き唸りを漏らした。

「召喚と言ったな! 人間、お前はその言葉の意味を知っているのか? お前はなんのために俺を呼んだ! 俺に泣き言を聞かせるためか!」

 轟く怒声に堂内が震撼した。壁に並ぶ蝋燭の炎が怯えたように揺れる。

 鬼は後方に反った巨大な双角を振ると片足を上げ、踏み下ろした。足の爪が床を抉り、硬い化粧石が弾ける。青年の冗長で腰弱な言動に苛立っていた。激しく顔を突き出し、目蓋を閉じたまま足元の人間を睨みつける。閉じていても見えるのだ。

 歯を食い縛った青年が言葉に詰まる。吹き出る汗がこめかみを伝い顎先から落ちる。左手の念珠を握り締め、引き結んだ口元を歪める。鬼の気魄に圧倒されていた。だが、恐ろしい巨体に威嚇されても後ずさることだけはしなかった。

 その時、集団の中から声が上がった。老いてはいるが力強い声だ。

「鬼よ、お主がここに現れたのは求めに応じる意志があったからだ。心がそれを欲したからだ。違うかな?」

 鬼は青年から顔を逸らさない。彼は角の力によって堂内すべての人間の顔と居所を把握している。今声を発したのは、太い白眉が老熟を思わせる隻腕の男だった。皺に覆われた口元に柔らかな笑みを浮かべている。

 その老人の言う通りだった。鬼の心と鬼を呼ぶ人の心が調和することで、召喚の仕儀は完遂となる。求め合うからこそ、それが成される。そうでなければ、存在する世界を異にする鬼と人間、互いの道行きが交わることなどあり得ないのだ。

 そう、鬼には青年の想いを拒否するつもりなど毛頭無い。自分の力を必要とする人間の言葉を求めるあまりに、気が急いていただけだったのだ。召喚に伴う儀礼的応答にこだわり過ぎていたのかもしれなかった。

 無言の鬼に老僧がつづける。

「その者はまだ若い。召喚主として鬼を呼ぶのは、これが初めてだ。経験を積んだ年長者のようにはいかん。ここは練達のお主が折れて、汗だくのはな垂れ小僧に言葉をくれてやっては貰えんかな?」

 鬼に異論は無かった。魔物の群れに対し、鬼の数はまだまだ少ない。世事に疎い若者であろうと、念ずる力を認められれば召喚を任されるのだ。覇気に欠ける印象も心根の優しさから来るものだと、鬼も理解していた。

 猛々しく身を乗り出していた鬼は、口上手な老人によって会話を再開する切っかけを与えられた。静かに姿勢を正すことで、劫を経た人間に敬意を表する。そのまま軽く顔を伏せ、束の間沈黙を保つ。

 蝋燭の油が燃える音、そして人々の息遣いと鼓動が鬼の耳を心地好くくすぐる――そこに生きていた。彼ら鬼を必要とする人間たちが。彼ら鬼が護るべき人間たちが。

 やがて顔を起こし、凄まじいほど分厚い胸を張った。期待を懸け、促すように青年に問う。

「人間よ、お前は俺にうのか? それとも命ずるのか? お前は何を望む」

 青年の口元がわずかに震えた。また汗を拭う。

 鬼の助けは絶対に必要だった。魔物を包む黒く禍々しい甲殻は矢も槍も受けつけない。人の精神攻撃すら通用しない魔物には、鬼の揮う超絶の力でしか対抗できない。だからこそ人は召喚の業を編み出した。大勢の精神をり合わせ、祈った。

 意を決した双眸に力が宿る。挑むように鬼を見つめる。真っ直ぐに。望みを懸けて。

「鬼よ、お前に命ずる。わたしと共に戦い――」

 青年は両の拳を握り締めていた。大きく息を吸う。頬に赤みが射す。下腹に力を籠める。

「魔物を討ち破れ!」

 吶喊とっかんの声が円蓋を叩き、堂内に凛然と響き渡った。

 鬼が呼応する。両腕を胸の前に掲げ、青年と同様に拳を固める。上体の筋肉が隆々と膨れ上がる。

「人間よ、俺の心にお前の心を重ねろ。俺に命令しろ。敵を殲滅しろと。人類を護れと。俺を鼓舞しろ。俺に期待しろ。それが俺の力となる。お前の声と心が、俺に力を与える」

 そして、ついに鬼は目蓋を開いた。彼はこの瞬間を待っていた。焦がれていた。

 滑らかな黒い眼球を剥き、青年の顔を真っ向から覗き込む。

 鬼の眼に青年が映る。その青年の眼に鬼が映る。その鬼の眼にまた――彼らは互いの瞳の中に結ばれた無限の連なりに見入り、魅入られた。

 鬼の双眼に真っ赤な炎が燃え上がる。鋼の巨躯に力がたぎる。不可視の闘気がみなぎり、揺らめき立つ。

 そして。

 割れ鐘のような快哉がほとばしった。

「俺は、この躯が砕けるまで戦おう!」

 歓喜の念が鬼の全身を駆け巡る。足の先から角の先まで汪溢おういつする。かつえていた犬馬けんばの心に、生きる甲斐が深々と刻み込まれる。それは彼が一度失い、この世界で再び手に入れたものだった。


 青天をかける鬼が腕を振りかざした。鉤爪が唸りを生じて陽炎を纏う。魔物の甲殻を貫き、掻き裂いた脇腹を蒸発させる。次々と掴みかかる触手をつづけざまに斬り払い、棘の密集した頭部を消し飛ばす。その背後から複数の魔物が迫る。察知した鬼が落下する魔物の死骸を掴み止めた。音立てて剥ぎ取った背甲を突き出し、吐きかけられる瘴気を退けて反撃に転じる。

 鬼と契りを交わした人間は遠隔地に身を置き、鬼の眼で物を見、鬼の耳で音を聞く。自らの心を燃え立たせ、戦う意志を鬼に託す。戦場の鬼は、常に人間の存在を感じることで力を得る。護るべき存在と繋がることで闘志を高ぶらせる。これが強靭な精神力を持つこの世界の人間と、鋼の躯を持つ異界の鬼による戦い方だった。

 だが彼らも無敵ではない。魔物の放つ地獄よりも熱い炎で灼かれ、死神の鎌よりも鋭利な刃で切り裂かれる。鬼は、文字通り満身創痍だった。

 鬼の苦痛を感じながら青年の心が問いかける。

〈鬼よ、どうすればお前を助けられる。わたしはどうすればいいのだ?〉

 鬼の心が不敵に笑う。この世界に来るまで、彼は肉体的苦痛というものを体験したことが無かった。この世界の人間と心を重ねることで知ったそれを、彼は楽しんでさえいた。生を実感していた。

〈そうか、俺が心配か。そのいたわりも俺の力になる。いいか人間、この躯を失っても終わりではない。俺たち種族の不滅の魂を求めろ。お前の羨望の念が俺の意気を揚げる。お前の感謝の念が俺の心をはやらせる〉

 体内圧の急上昇を感じ取り、鬼が口調を早める。

〈お前たちを蹂躙する奴らから護ってやる。必ず。何度でも俺を呼べ。何度でも俺は来る。何度でも!〉

 直後、鬼は青年との繋がりを断ち切った。あれほど渇望した心の交わりを、一瞬の躊躇いも無く。それも無論のことだった。互いの心を重ねたまま鬼の躯が滅べば、人間の心が闇の彼方に失われる恐れがあるからだ。彼ら鬼にとって、それは絶対に避けなければならないことなのだった。

 一瞬後、鋭い閃光が炸裂した。

 鬼の躯が爆炎の槍と化し宙を裂く。身をかわそうとする数体の魔物を捉え、黒い外殻を容易たやすく貫き砕く。眩い白光が魔物の全身を覆い、灼く。やがて光は赤い炎の花となって散り、深く青い空に溶け、消えていった――。



「召還プロセス完了。元体の意識復帰を確認。時空間リンク切断。鬼体データを改体セクションへ送致。転送チェンバーに次鬼体を配備」

 白いバケットシートに身を埋めた女が、正面のホロスクリーンに視線を据えて単調に呟いた。軽く膝を曲げた長い脚を綺麗に揃え、両腕をアームレストに預けている。柔らかな白色光に満たされたフロアのあちこちから、同じような呟きが時折り生まれている。

 女の前に追加のホロスクリーンが浮かび、男の顔が映し出された。

「リアクター崩壊線の指向性付加はどうだった?」

「実行が確認されています。遠距離ですが別鬼体が見ていたので映像があります」

 女の指がアームレスト上をわずかに動き、スクリーンの男が視線を移した。送られた映像データを確認しているのだ。

「いいじゃないか。ちゃんとを仕留めてる。使えるな」

「向こうの敵の身体構造解析は順調でしたからね」

 女が口の端を持ち上げた。男も同様に硬い笑みを返す。手本として示されているにはまだ遠い。それでも、以前よりはましな表情かおになったと互いに感じていた。

「同じ人間が呼んでいたら俺を専属にしてくれ。彼も初めてだったせいか第一印象は今ひとつだったけど、いい闘志だった。やる気が上がった。もっと引き出して感じてみたい」

「わかりました」

「あと、エナジーコンバーターは?」

「変換過程を見直さないと、まだ向こうでは動作しないそうです」

 男が大袈裟なしかめっ面を見せた。

飛道具とびどうぐが使えればなあ……まあ、しょうがない」

「リアクターの応用を検討しているそうです」

「そうか、ありがとう。期待しよう。それじゃ、新しい鬼体を見てくる。耐熱コートは強化されてるかな……」

 ホロスクリーンが消えた。

 女の周囲はバケットシートで埋め尽くされている。フロアの床面積は大型スタジアムほどもあり、そのすべてに人の姿があった。

 いや、彼らは人ではない。不自然な表情を見せる人型の姿、それは仕えるべき対象を失った彼らが、自らを創造者に近づけようとした名残だ。

 彼らは人に創られた存在だった。科学技術によって生み出された無機生命体だ。外宇宙からの敵を退しりぞけ、人類を護ることが彼らの義務だった。当初与えられた体――駆動体――と精神構造は戦闘に特化されたシンプルなものだったが、のちに戦う動機と意義を与えるために精神構造のグレードが引き上げられ、心を持つに至った。

 彼らの意識は攻撃と防御の機能を高効率で運用し敵を殲滅することだけに集中していたが、その使命を全うすることはできなかった。敵の使用した抗生物兵器によって人類は絶滅してしまったのだ。

 敵は有機生命体を検知し、あらゆる場所に現れた。母星の生物は数種の原核生物とウイルスを残して死滅し、支配宙域の戦闘ベースは元より、星外コロニーのすべてもが無人と化した。

 残された彼らはひとつ所に身を寄せ、悲嘆と自責の念にまみれて生きるしかなかった。行動原理を失い、やがて変化を始めた。人間を模倣しようとしたのだ。人型の駆動体に精神を転移させた際に視覚や聴覚、触覚を活用して物理的に機械操作を行うのも、それ故だった。

 しかし、遺された電子データだけでは精神と肉体の相互作用を解明し応用するまでには至らなかった。有機生命体の精緻な挙動や表情は、精妙な化学変化を起こす肉体が繊細な心の変遷に鋭敏に反応したものだ。無機物で構成される彼らの躯で有機生命体の心身システムを再現することなど、到底不可能だったのだ。

 人間との心的交流が深かったなら、自分たちも人間のように振舞うことができたかもしれないと思いもしたが、それは彼らの出自故に望むべくも無い幻想でしかなかった。元の姿は機動力と火力のみを追求した、人型とは懸け離れた戦闘用駆動体だったのだから。

 何よりも、有機生命体と無機生命体では成長過程が異なる。人は生まれながらに肌の温もりを知り、それを求め与えながら育つが、彼らにはそれが無い。心の有様ありさまそのものが異質であろうことは、彼ら自身も感じていることだった。

 やがて千年も時が流れただろうか。涙を流せない彼らが永劫とも思える苦痛に耐える中、転機は唐突に訪れた。別時空の人類による微かな接触の兆しを感知したのだ。

 凍りつきそうだった彼らの心に炎が燃え上がった。ともすれば消えてしまいそうな人類の手がかりを死に物狂いで繋ぎ止め、辛うじて連絡の安定を確立した。抽出したサイオニック・ウェーブを同期信号として時空間リンクを構築し、量子転送技術による戦闘用人型駆動体の送致と精神転移操作を実現させたのだ。

 自分たちの力を必要とする人間が存在することを知り、彼らの心は救われた。あの時に失った価値あるものを、再びその手に掴んだのだった。

 彼らは今一度己の存在意義を取り戻し、その使命を果たすべく戦う。鬼と呼ばれて。


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