闇の支配者と失われた光
坂本てんし
第1話 当たり前の日常
「青いなあ」
この世界は今、魔の王によって危機に瀕している。
日々力を増していく魔物。激化していく戦い。巻き込まれていく町や村。
大陸のどこへ行っても血と涙が降り注ぐ死地と化していた。しかし、まるでそれが遠い世界の出来事かのように、ドルフ村に住む一人の少年カイ・フリーデは村から少し外れた森の空き地で、雲一つない空を見上げてそんなことを呟いていた。
「……」
涼しい風が吹き抜けて木々がバサバサと音を鳴らす。黒い髪が風に揺らされ、今日は良い昼寝日和だとなんとなくそう考えていた。
いつもと同じゆっくりとした時間。代わり映えのしない平和な日々。
きっとこの先も――、
「なーにやってるの?」
ふと、カイの背後からそんな声が聞こえた。
鈴の音のような高い声。それでも耳障りなんかじゃなく心地のいい音色。振り返らずともそれが誰なのかカイにはわかる。
「エマ」
幼馴染のエマ。同い年の十七歳。彼女の親はドルフ村の村長を務めていて、村の衛兵隊長であるカイの親とは昔から仲が良かった。だからか、物心ついた時からカイとエマはずっと一緒にこの村で過ごしていた。
「ふふん、そうだよ。あなたの可愛い幼馴染のエマです」
年齢より幼い顔立ちで、明るい笑顔を浮かべる。農作業でもしていたのか、亜麻色の長い髪を後ろで一つに結っていた。
浮かべていた笑顔から一転、エマはムッとした表情でカイを見つめる。
「ところでカイくん。あなたに一つ悪いお知らせです」
頬を膨らませて人差し指をピシッと立てる。
「えぇ……何?」
悪いお知らせと言われ不安にならないやつはいない。カイは嫌そうな顔をして話を促す。
「こーんなに可愛い幼馴染がいるのに、いつまで経っても手を出さないおバカさんがこの村にはいます。それは誰でしょう」
「……ははっ。さあ、誰でしょうね」
思いのほかしょうもない内容で乾いた笑いが溢れ出る。
てっきりもっと重大な問題なのかと思っていたから無駄に身構えてしまい損した気分だ。
「もー。またそうやって誤魔化して……。まあいいや。いつものことだし。じゃ、行こ! アドルフおじさんが呼んでたよ!」
「父さんが? なんだろ。今日何かあったかな」
記憶を振り返ってみるが思い当たる節はない。
とはいえご指名とあらば行かないわけにはいかないだろう。村の衛兵隊長の父が呼ぶということはエマの繰り出した悪いお知らせとは違いそれなりに重大なことのはずだ。
重い腰を上げて、カイは立ち上がった。
「よっこらせっと」
「それ、うちのおじいちゃんも言ってたよ」
「はいはい。俺は年寄りですよっと」
「もー、そんなこと言ってないじゃろー」
「うっわ、馬鹿にしてるなこんにゃろ」
そんなふうに二人は笑い合う。
代わり映えのない日常。平和な日々。
きっとこの先もこんな時間がずっと続いていくのだろうと、ぼんやりとそんな未来予想図を思い描いていた。
※※※※****
「そういえば、ヘルトくんは元気?」
村への道を歩く途中、エマは不意にそんなことを聞いてきた。
ヘルト――ひとつ年下のカイの弟。
「ああ、元気してるよ。昨日なんか人喰い熊を倒したーってすげえ自慢してきたもん」
「ふふ。昔から危なげない子だったし、お兄ちゃんとしては心配なんじゃない?」
エマの言うことはごもっともだ。
実際、ヘルトは小さい頃からヤンチャでいつもどこかしらを怪我して帰ってきていたから当時は確かに不安とか心配の気持ちが積み重なってはいた。しかしそれが何年も続けば当たり前の日常だと受け入れ自然と心配する気も失せるもの。
それに――、
「あいつは強い。俺がそれを一番理解してる。だからあんまり心配はしていないかな」
ヘルトはカイよりも戦いの才がある。剣の腕も、腕力も、センスも。カイが勝っているところは何一つない。だから長男のカイではなく、ヘルトが衛兵隊の副隊長を務めているのだ。
しかし、カイはそのことで劣等感を抱いたことなど一度もない。むしろ誇らしいくらいだ。口には出したことはないが、自慢の弟だといつも思っている。
「それより俺が心配なのは妹のミアだよ」
「ミアちゃん? あの子はしっかりしていて大丈夫そうに思えるけど?」
「だからだよ。あの子可愛いじゃん? しっかり者じゃん? モテるじゃん」
「どういうこと……?」
カイが抱く不安。それは妹のミアの将来について。
ミアは可愛いからいつか必ず王都に行って幸せで裕福な生活を送るだろう。優秀な男……それこそ王国聖騎士やもしかしたら勇者様との結婚だってあり得る。そう思えるくらい、カイからしたらミアは愛おしくて可愛いたった一人の妹なのだ。
だからこそ、可愛すぎるが故に悪い男に捕まってしまうんじゃないか、騙されてしまうんじゃないかと心配で仕方ない。しっかりもののあの子に限ってそんなことは万に一つもあるわけがないとはいえ可能性はゼロじゃない。ミリにも満たない僅かな不安が、カイの中で暴れ回っているのだ。
「まあ妹への愛が強い兄の戯言だ。気にすんな」
「シスコン」
「うっせ」
そんないつも通りのやりとりで二人は笑い合う。楽しい時間が過ぎるのはあっという間で、気づけばカイの家に到着していた。
扉を開け中に入る。
すると、カイの腹部に軽い衝撃が走った。
「お兄ちゃんおかえり!」
カイに勢いよく抱きついたのは妹のミアだ。力強く抱き締めているミアの頭を優しく撫でる。
「ただいまミア。今日も可愛いぞ」
「えへへ。お兄ちゃんもかっこいいよ」
「ありがとう。ところで、父さんいる?」
「うんっ! お父さーん! お兄ちゃん帰ってきたー!」
元気よく頷いたミアは力強く腕を引っ張り奥へと進む。
広間の椅子に腰掛けている父アドルフの姿があった。
「おお、帰ったか。エマちゃんも。まあ座ってくれ」
促された二人はテーブルを挟んだアドルフの正面の椅子に腰を下ろす。
アドルフの顔を見ると、神妙な面持ちで何やら只事ではない雰囲気だった。自然とカイとエマの背筋も伸びる。
これから大事な話があるのだと察したミアはそっと別の部屋へと移動していた。できた妹だ。兄として誇らしい。
「それで、話ってのは?」
「ああ。……二人はもう十七になるんだったか」
「今年で十八ですね」
「ああ、そうか。……あんなに小さかった二人がもうそんなに大きくなったのか」
「父さん。さっさと本題に入ろう。日が暮れちゃうよ」
言い出しづらいのか前置きばかりをするアドルフにカイは言った。
それでようやく踏ん切りがついたのか、アドルフはふうっと息を吐いて言葉を継いだ。
「……俺と村長とで話し合ったんだ。お前たちもそろそろいい年だしその……村の未来を担う若者として、大きな役割を持たせるべきなんじゃないかと」
「その役割って、つまりどういう?」
カイからの問いを受け取ったアドルフは再び大きく息を吐き出し、意を決したように口を開いた。
「川に沿って北上して行った先に村があるのは知ってるな?」
「うん。そりゃね」
「エマちゃんを、その村の村長の息子さんと結婚させようという話が出ている」
「……え?」
エマが、結婚……?
実の父が言っている言葉だというのに、カイは何一つ理解ができなかった。
「あ、あの、私そんなこと一言も聞いていないんですが」
「勝手に話を進めてしまい申し訳ないと思ってる。本当はこの場にグスタフさんも同席して欲しかったんだが、生憎重要な仕事があったみたいでな」
だめだ。思考がまとまらない。それでも必死に頭を回し、口を動かす。
「と、父さん。なんでそんなことに? それに、俺がここに呼ばれた理由も、いまいちわかんないんだけど」
「村の発展のため、というのがまず第一だそうだ。お前を呼んだ理由はグスタフさん直々に頼まれたんだ。カイにもこの件は伝えておいて欲しいとな」
そうして一つ咳払いをしてアドルフは立ち上がる。
「まあその、今回はあまりにも急すぎたし考える時間も必要だろう。答えは急がなくていい。しっかり考えて、決めるんだ」
それで話は終わりだとでもいうように、アドルフはその場を後にした。
居心地の悪い沈黙が二人の間に流れる。
そこからの記憶はもうあまり残っていない。気づけばエマは帰っていて、ここにはもう、カイだけしか残っていなかった。
※※※※****
その日の夜。
相変わらず雲一つない空にはくっきりとした綺麗な満月が浮かび上がっていた。その周りには、輝くたくさんの星々が点滅を繰り返していて、自然豊かなこの土地だからこそ為せる幻想的で美しい景色が広がっていた。
「――――」
カイはこの時間が一番好きだ。みんなが寝静まり、虫のさざめきが風に乗って耳に届く。そんな穏やかな世界。
優しく吹く涼しい風が、湖にやってきたカイを迎えいれた。
「やっぱり、この場所が落ち着くな」
何か考え事や悩み事があると、カイはよくこの場所に足を運ぶ。
まるでこの世界に自分しかいないかのような錯覚を覚えるこの場所は、何かを考えるときにはぴったりなのだ。
「……あ」
いつもの場所に座ろうと歩を進めると、そこに先客がいたことに気づいた。思わず声が出てしまい、慌てて口を塞ぐ。しかし、もう遅かった。
「……カイくん?」
エマだ。
思い返せば、元はエマがカイに教えてくれた場所。ここにいてもなんら不思議ではない。
カイとエマの関係性とはいえ昼間のアレのせいで顔を合わせづらくなっていたカイは踵を返し、もと来た道を戻ろうとした。
「あ、悪いエマ。場所変え……」
「ううん。いいよ。ここ、座って?」
そうしてエマは自分の隣をポンポンと叩く。そう引き止められてしまっては帰る方がおかしいだろう。カイは仕方なさそうに身を翻しエマの隣まで歩いて腰を下ろした。
「……」
「……」
沈黙がこの空間を支配している。
先に口を開いたのは、エマからだった。
「あ、あはは! な、なんだかすごいことになっちゃったね」
引き止めたはいいもののどうやらその先は特に考えていなかったらしく、その場しのぎの言葉で間を潰していた。
それを察したカイはその流れに乗ることにする。
「あ、ああ。そうだな……結婚、か」
結婚という単語を口にして頭の中で何度も咀嚼する。
幼馴染で同い年のエマと結婚した未来の自分を想像する。
それはきっと、今と同じ楽しい日々が延長線上に続いていて。でも今よりももっと重い責任がカイには課せられていることだろう。子供ができて、その子供が大人になって孫ができて。大家族で人生の幕を閉じる。
もちろんそれまでにいろんな出来事が起きるのだろうけど、きっと最後にはそんな素敵な未来になるのだと、不思議と頭の中に浮かんでくる。
「ちょっと急すぎて実感が湧かないな」
それでも、結局これは都合のいい夢。あるかもわからない、ただの妄想。
現実では、エマはカイの知らない誰かと結婚して、夢想した幸せな家庭を築くことになる。
「そう、だね。……でも、そっか。結婚、するんだもんね。いつかは」
しかし、俯いていた顔から一転、立ち上がったエマは歩き出し、まるで空に絵を描くかのように人差し指をくるくると滑らかに動かした。
「多分ね。私が結婚した家庭は、孫の代まで続く大家族になっていくの。それで、たくさんの人に囲まれて幸せな終わりを迎えられるのかなって」
一歩一歩、一つ一つ。湖の淵を弧を描くように歩くエマの口から語られる未来の姿は、先ほどカイが夢想したものとほとんど同じで。
「そうなるまでにきっとたっくさんの辛いこととか悲しいことがあると思う。大切な人との別れとか、色々ね。それで、心の弱い私はその度に挫けて、立ち直れなくなっちゃうと思うんだ」
「昔からなにかと泣いてばかりだったもんな」
「でもその度にずっと隣にいてくれたのは、カイくんだよ」
クルンとこちらに振り向いて、エマが咲かせた笑顔の花。それを一目みて、カイの心臓はドキンと跳ねる。
「だからさ、そんな弱くて泣き虫で、どうしようもない私と一緒にいられるのなんて、この世界で一人しか考えられないんだ」
カイも、きっと自分の隣にいるのはエマで、エマの隣にいるのは自分であるのだとどこかでそう思っていた。
「私、顔も知らない人と結婚なんてしたくない。だって、だって……」
ここから先の言葉は馬鹿でも分かる。でも、それを彼女に言わせて良いのか? その想いは、自分で言うべきなんじゃないのか?
そう思った時には、自然と体が動いていた。
「あなたのことが好――」
言いかけたエマの口を閉ざす。自らの唇を重ねて。
驚いて見開くエマの瞳。
離れるのが惜しい程に柔らかな唇からそっと離す。そして、カイはしっかりと彼女の瞳を見つめて、エマが言おうとした、カイが言わなければならない言葉を口にする。
「エマ。愛してます。俺と、結婚してください」
ずっと言わなきゃいけないと心のどこかで思っていた。
でもなんだかんだ自分に言い訳して、彼女から好意を寄せられる度に逃げて逃げてを繰り返してて。
こうして逃げられないところまで来なきゃ、こんな簡単な言葉一つも言えないほどにカイは臆病者だった。
でも、そんな男を好いてくれるのなら。隣にいて欲しいと言ってくれるのなら――いいや、違う。カイが隣にいたいのだ。
隣で同じ景色を見たい。幸せを分かち合いたい。生涯を添い遂げたい。
「……俺だって、エマが他の誰かと結婚するなんて耐えられない。絶対に嫌なんだ。だからさ、返事……もらってもいい?」
じっと彼女の顔を見つめて返事を待つ。
これまで見たことないほどに紅潮したエマの顔は、耳まで真っ赤に染まっていて。多分、見えないけどカイ自身も顔が真っ赤になっているだろう。でも、そんなのは気にならないほどに、エマのことが愛おしく思えていた。
そうして、月の光に照らされ、彼女はゆっくりと答えを口にした。
「……おそいよ。ばーか」
恥ずかしそうに、でも嬉しそうに、カイの胸にエマは顔をうずめた。
ずっとずっと、待たせてしまって申し訳ない。でもやっと言えた。
カイとエマはようやく、一緒になったんだ。
※※※※****
それから、アドルフとグスタフを呼びつけて、答えを出した。
そうしたら、二人から帰ってきた言葉はあまりにも衝撃で。
「え、うそ⁉︎」
どうやら他村との縁談は完全な嘘っぱちだったらしい。二人が言うには、いつまで経ってもくっつかないカイとエマを見ていてもどかしくなり、もう無理矢理にでもくっつけてしまおうという意図があったとのこと。側から見ても完全なる両片思いみたいな、そんな感じだったらしい。それを聞いたカイとエマはもはや拷問を受けているような気分でさえいた。
翌日結婚祝いの宴が開かれた。
村中のみんなが二人の結婚を祝福してくれて、その日は一日中、大騒ぎだった。
昼夜関係なく歌って踊って。美味しいご馳走を食べて、また歌って。
そんなことをしていると時が過ぎるのはあっという間で、気付けばもう陽が完全に落ちて夜になっていた。
みんなが疲れて眠ってしまったため、ようやく一段落できたカイは一息つくために家の外に出て夜風に当たった。
「ふう……」
まだ顔が熱い。あれだけみんなで盛り上がって楽しんだのだから当然といえば当然だが、それ以上にあの時した感覚がいつまで経っても忘れられない。勢い任せ、後先考えずに行動に移してしまったツケが今になって回ってきたのだ。
恥ずかしさで一人顔を俯かせていると、後ろの扉がゆっくりと開かれた。目だけを向けて誰かを確認すると、そこにいたのは村長だった。
「やあ、カイくん」
「あっ、村長。こんばんは」
無意識的に背筋が伸びる。昔はもっと喋りやすかったのに、こう変に年を重ねて大人になり、立場とか上下関係とかを理解してしまうとやりづらいところも出てきてしまう。
しかし、当の村長本人はあまりそういうのは望んでいないらしく――、
「そう畏まらないでくれ。昔みたいにグスタフおじさんって呼んでくれていいんだよ?」
「……わかったよ、グスタフおじさん」
カイがそう呼ぶとグスタフは嬉しそうに優しい笑みを浮かべて、カイの隣にやってきた。
それからしばらく、お互い喋らない時間が続く。でも不思議と、緊張感や気まずさと言ったものは感じなかった。
カイ自身、これから起こることに、それなりに覚悟を決めていたからなのだろう。
そうしてゆっくりと、グスタフは優しい声音で話し始めた。
「知っての通り、私の妻はエマが幼い頃に亡くなってしまったんだ」
「たしか、魔物に襲われてしまって……ですよね」
「ああ、そうだ。私が村長としての役割に追われ、他の村に出向いていた時のことだった。その時エマは酷い風邪を患っていてね。薬草を取りに行くため、一人で森に出て行ったらしいんだ」
その時のことは幼かったから明確に覚えているというわけではない。
それでも、エマが後にも先にもないほど泣いていたということだけは鮮明に覚えている。
「私が村に戻ったときにはもう何もかも手遅れだったよ。妻の遺体は見るも無残で酷い有様だった。あの時ほど、自分を殺したくなった瞬間はない。……いいや、本当は今でも、自分が憎たらしくて仕方がないんだ」
その声には、言葉には。悔恨の念がこれ以上にないほど込められていて。自分を殺してしまいたいという言葉が本心なのだと、伝わってくる。
カイは何も言えず、黙っていることしかできなかった。
「カイ・フリーデ」
「はい」
「エマのことは、好きか?」
「世界中の何よりも」
「幸せにしてくれると、約束できるか?」
「来世でだって笑わせて見せます」
「……そうか」
どちらもお互いの顔は見ず、この問答の間ずっと外の景色だけを眺めていて。
だからカイの視界の隅で、俯いたグスタフの頬を伝って透明な雫が落ちたことなんてカイは気づかなかった。気づかないことにした。
「私は、あの子にとって最低の父親だった。寂しい思いをさせてしまったことは数えきれないほどにあるだろう。でもカイくん。君がその寂しさを埋めてくれていたんだ。心の底から、感謝してるよ」
そうして、グスタフはカイの方へと体ごと向く。カイも同様に、グスタフの方へ顔を向けた。
「娘を……よろしく頼む」
「この命に変えても、必ず」
グスタフがエマのことをどれだけ大切に想っているのか、どれだけ愛しているのかをカイは知っている。幼い頃から近くで見てきて、それは嫌というほどに伝わってきた。
だから、カイはその想いも責任も背負わなければならない。
その覚悟を目の当たりにしたグスタフはふうっと満足したように息を吐いて、
「さあてと。言いたいことは言えたし、もういいか」
「?」
「エマ、そこにいるんだろう? 出てきなさい」
「え?」
困惑するカイをよそに扉は開かれる。入ってきたのはエマだった。
「な、なんで……」
「エマ。彼は本当に良いやつだ。絶対に手放すなよ」
本人が目の前にいるというのにそんな恥ずかしいことをグスタフは言う。居心地悪そうに頭をかいていると、言われたエマはプイッと顔を背けて言った。
「そんなの、言われなくてもわかってましたよーだ」
「ふっ、それもそうか。……それじゃ、老人は去るよ。後は若人の時間だ」
そうしてこの場を後にしようとグスタフがドアノブに手を掛けた時だった。
「お父さん!」
「ん?」
「私、お父さんのこと大好きだよ! 私を一人で育ててくれたんだもん。恨んだことなんて一度もない。世界一のお父さんだから!」
声を大にして掛けられたその言葉。こちらからは背中しか見えないが、グスタフの肩がわずかに震えているのがわかる。そしてグスタフは、
「ありがとう、エマ。心からおめでとう」
そう言い残して、この場を後にした。
「いつからあそこに?」
「うーん、お母さんが亡くなった話から?」
「もう最初からじゃん……」
つまり、カイが口にしたあの言葉の数々も一つ残らず聞かれていたわけだ。せっかく落ち着いてきた顔の熱もまた再熱してしまう。
「来世でも笑わせてくれるんだって? 楽しみだなぁ」
「言っとけこのやろ」
「……あっ! ねえ見てあれ! 流れ星!」
「え?」
エマが指差す方に視線を移す。
一筋の黒線が星々が輝く夜空により暗い漆黒の軌跡を生み出していた。その姿はカイが知っている流れ星のものではない。
「いや、あれは流れ星じゃないんじゃ」
「いーの! そういうことにして、早くお願い事しよ?」
半ば強引に押し通され、カイは渋々エマに従う。
手を合わせ、目を閉じ、祈りを込める。エマを守れるように強くなりたい。これからも二人でずっと、生きていきたい。そう、願う。
そっと瞼を開け隣のエマを横目で見つめる。すると、どうやら同じことを考えていたらしく彼女と目があった。
「何お願いしたの?」
「言ったら叶わないって聞くぞ」
「それもそっか」
そう言ってエマは「えへへ」とどこか嬉しそうにはにかむ。
それを見たカイは不思議そうに首を傾げた。
「なんで嬉しそうなんだよ」
「んー? だって、これから先もずっと一緒にいられるんだもん。嬉しいに決まってるじゃん」
「……そっか」
満天の星空のもとこうして二人で会話する時間が心地いい。幸せが胸の内に込み上げてくるのを感じていた。でも、それは決して口に出さない。言ったら調子に乗りそうだし、何より気恥ずかしいから。
もう一度、あの星々に願う。
この幸せが、ずっと続きますように。
――その願いが叶うことはない。
「⁉︎」
どこかから聞こえた声が頭の中で反響する。
かと思えば突如、世界が一変した。
視界に捉えたのは、不気味に赤黒く染まった空。輝いていた星々は一つ残らず消え失せて、血の色に染まった空が世界を覆う。
こんなもの村の誰一人として見たことがない。いや、世界の誰も見たことがないほどの異様な光景だった。
まるで不吉の前兆。何か悪いことが起こる前触れなんじゃないかと、頭の中で不安が警報音を鳴らしていた。
「カイくん……」
それは隣にいるエマも同じようで。不安を顔に浮かべながらカイの服の袖を弱々しく引っ張っていた。そんなエマを少しでも安心させるべく、カイは彼女の肩を掴み、
「大丈夫。心配するな。俺がついて――」
その時だった。
大地が大きく揺れ、世界に凄まじい衝撃が走ったと同時に、黒い波動が空を駆けた。
「や……っ」
黒い衝撃が世界に走った直後、そばにいたエマが力無く崩れ落ちた。倒れそうになるのを慌てて支える。意識がない。気絶、とも違う状態だった。
「おい、どうしたエマ!」
頬を軽く叩き、体を揺する。それでも、エマは目覚めない。
何が起きているのかカイには理解が追いつかなかった。ただこの現状だけが手の中にはあって。
「……くっそ!」
考えていても埒が開かない。
とにかく、頼れる大人達の力を借りるため、エマを背負い急いで家の中に入る。
「父さん! グスタフさん! エマが……っ!」
目の前に広がる光景に言葉を失った。
「アアッ、ウウウアア」
うめき声を吐き出し、グスタフさんが地面に倒れて悶えていた。
瞳孔は大きく開き、瞳は血の色に染まって、とても正常な状態とは言えない。
「ァァ、ゥァアアアア!」
「おい、しっかりしろ!」
アドルフがグスタフさんの身体を揺すり声をかけ続ける。
ダメだ。ここだけじゃない。外からも同じ呻き声が響き渡っている。村中で同じことが起きているのだ。どうしてこんなことになっているのかなんてカイが知るわけない。ただ逃げなければ――そう、カイの魂が叫んでいた。
その時だった。
「っ!」
苦しそうにしていたグスタフさんが突如爆発的に肥大化した。その大きさは家の屋根を一気に突き破るほどのもので。
「うああっ!」
黒く変色した血と肉の塊、もはや怪物と化したそれに飲まれたアドルフが悲鳴をあげる。
「父さん!」
「くっ……許せ」
刹那――彼が振り抜いた銀閃が、身に食らいついていた肉塊を一瞬にして削ぎ落とした。支えがなくなり落下したアドルフは空中で姿勢を整えてカイのもとで着地する。
「大丈夫⁉︎」
「はぁ、はぁ……ああ、平気だ。それより、なにかよくないことが起きている。まるでこの世の終わりだ」
「うん。俺もそう思う」
「おそらくこれと同じことが村中で始まってる。生き残ってる人を探し出して連れていく。お前はミアを連れて逃げるんだ。ヘルトはどうせ生き残る。あいつの心配はしなくていい」
ヘルトに関してはカイも同感だ。この意味のわからない状況でも、きっとあいつはなんとかしている。
要点だけを告げたアドルフの指示にカイは頷いた。
「わかった。……必ず生きてくれよ。父さん」
「最善は尽くす。お前も頼んだぞ」
後のことはカイに託して、家の外へと駆け出した。その背を見送ったカイは、ミアが寝ている部屋へと移動する。
「ミア!」
「お、にいちゃん……?」
ベッドから体を起こし、眠い目を擦ってミアは目覚めた。
急いで駆け寄り、簡潔にことを伝える。
「ミア。まずい状況になった。逃げるぞ」
「えっ? わ、わかった」
きっと眠くて思考がまとまっていないだろうに、ミアは頷きベッドから飛び降りた。本当にできた妹だと思う。
ミアを連れて急いで外に出る。
目の前に広がる光景はまさに地獄絵図だった。
「くそ! マジでどうなってんだよ!」
先ほどのグスタフ同様の奇怪な肉塊へと成り果てた人たちが、悲鳴を上げて逃げ惑うものを無慈悲にも握り潰し、殺している。家々には火が回っていて、目もあてられない惨劇が広がっていた。
「ミア。とりあえず俺たちは村の外に出る。まずは命最優先だ」
「お、お父さんたちは?」
不安を表情に浮かべてカイに問う。
目線を合わせて安心させるべく言葉を綴った。
「父さんとヘルトなら心配いらない。あの二人が強いのは、ミアも知ってるだろ? だから俺たちはあの二人を信じて逃げるんだ。いいな?」
「う、うん。わかった。しんじる」
きっとその言葉ひとつじゃ不安とか恐怖は拭いきれない。カイだってなにが起きてるのかわからず怖いのだ。でも、グスタフさんにエマを命に変えても守り抜くと誓った。ミアを連れてここから逃げると、グスタフと約束した。その責任を果たせずして、なにが夫だ。なにが長男だ。
「ついてこい! 絶対離れるなよ!」
そう覚悟のこめた叫びを吐き出し、ミアを連れて、炎が立ち上る地獄を走り抜けた。
※※※※****
戦火を抜けて、ようやく村の出入り口が見えてきた。
「ねえ……おにい、ちゃん」
手を引くミアがカイの背に声をかける。だが、ゴールを目の前にしたカイには余裕がなかった。怪物たちに見つからないよう隠れながら進み、背負っているエマを守りながら、神経をすり減らしてここまでやってきたのだ。
「頑張れ! あと少しだ!」
だから気づかなかった。
ミアの状態に気づかないほど、余裕がなかった。
手を引いていたミアの体は突如、その場に倒れ込んだ。
「大丈夫か⁉︎」
慌てて引き返し、ミアの元に駆け寄る。
「どうした⁉︎ どこか怪我でも……っ!」
ミアを見た瞬間息を呑んだ。
首元から顔にかけて、黒ずんだ血管のようなものがミアを侵食していた。それはまるで、グスタフさんの身に起きたことと全く同じで。
思考がまとまらない。妹が、ミアが化け物に……? どうにかして、なんとかしなければ。でもどうすれば助けられるのかなんてカイにわかるわけがない。打つ手がないのだ。
「は……っ、は……っ」
呼吸が荒くなり、脈が速くなるのを感じる。心臓がやけにうるさい。この世でたった一人の妹を失うなんて考えられない。いやだ。いやだ。だめだ。こんなことあってはならない。
「お兄ちゃ、ん」
か細い声で、ミアはその小さい手を頬に添える。
ミアももう感じ取ってしまったんだろう。わかってしまったんだろう。カイにはどうすることもできないことに。自分が助からないことに。
カイはその手を優しく包み込み、そして――、
「ごめん、ね」
そう言って、カイの胸を強く押す。直後、ミアの小さな体は一気に膨れ上がり人としての形は完全に消え失せてしまった。あの子は肉塊の化け物になってしまったのだ。
「ああ、あぁ……」
化け物となった自分から逃げられるように押したのだろう。でも、カイの意志はもう壊れかけていた。
バケモノと化した妹が、じわじわとカイの元へと歩を進める。
人間をいとも簡単に握りつぶす程の握力を秘めた魔の手が眼前に迫る。
頭上から、大声が降り注いだ。
「ばっかやろう!」
カイの視界には、ミアを蹴り飛ばす小さな人影があった。それはよく知る人物で。カイの血を分けた弟――ヘルトだった。
蹴り飛ばされたミアはそのまま民家に激突し、派手に崩れた瓦礫の下敷きになった。着地したヘルトは迷わずカイのところへ歩いて行き、思い切り頬を引っ叩いた。
「なにやってんだバカ兄貴!」
ぶつけられたその言葉でカイの意識はようやく現実世界へと引き戻される。
「いや……だってあれは、ミアで」
「ああ、知ってるよ。変身する瞬間、俺も遠くから見えてた。でも、わかってるだろ⁉︎ こうなったらもうどうすることもできない! 助けたくても、俺たちにはなにもできないんだ!」
そう叫ぶヘルトの目には涙が溜まっていた。
「辛いのは、兄貴だけじゃない。俺だって、助けられるもんなら助けたいさ。……でも、無理なんだよ。俺たちは勇者じゃない。死んでいった家族の分まで生きなきゃいけないんだ」
「……! ま、まってくれ。じゃあ、父さんは」
「俺を庇って死んだ。急いで兄貴のとこに行けって、それを最後に言い残してな」
「そ、んな……」
崩れ落ちてしまいそうな思いだった。
妹は目の前で怪物になり、父も命を落とした。
おそらく村の人たちもほとんどがこの騒ぎで死に絶えている。もうこの世に希望なんてないんじゃないかと思うほどだった。
ガラガラと音を立てて、煙の向こうから怪物となったミアが姿を現す。それに気づいたヘルトはゆっくりとその方向へと歩き出した。
「兄貴。兄貴はすげえ男だよ。俺にないものをたっくさん持ってる」
「急に、なにを……」
ミアとカイの間で足を止め背中から剣を抜いたヘルト。
その言葉の真意がカイにはよくわからなかった。この状況で突然なにを言い出すのだろうと、そう思うことしかできなかった。
「エマ姉ちゃんが起きたらさ、伝えてくれよ。あんたの旦那さんは世界で一番優しい人だ。そんで、その弟もめちゃくちゃかっこいい人生の幕引きをしたんだぞってさ」
「……お前、まさか」
ようやく、カイの思考がその結論に辿り着いた。
おそらく、いや間違いない。ヘルトはここで死ぬつもりだ。
「だめだ! お前も一緒に逃げるんだ!」
もう誰も失いたくない。これ以上誰かが欠けるのは、きっともう耐えられない。今度こそ、心が壊れてしまう。
それがわからないほど、ヘルトは馬鹿じゃない。しかし、それをわかっていながら、彼は叫んだ。
「うるせえ馬鹿兄貴!」
背を向けて放たれた怒号がカイの言葉を掻き消す。
「兄貴はエマ姉ちゃんを守らなきゃいけないんだろ。だったら、兄貴を守るのは俺の役目だ。最期くらい、いい弟でいさせてくれよ?」
「……!」
覚悟を決めた人間の意志がそう簡単に揺らがないことはカイはよく知っている。
もうなにを言ってもこいつは動かない。
だからせめて、これだけは言っておきたい。
「……なに言ってんだよ馬鹿野郎。お前はずっと、自慢の弟だったよ」
「それが聞けたらもうなにもいらないよ。……さあ行け!」
肩越しに見えた弟の表情は、今から死にに行く人間お者とは思えないくらいに、清々しいほどの笑顔で。
エマを背負って駆け出したカイの目から溢れるほどの涙が延々とこぼれ落ちていった。
村を出て、どれくらいの時間が経っただろうか。
立っているのですらやっとというくらい疲弊し切った足を、気合と根性で無理やり動かす。倒れそうになる度に、彼らの顔がよぎり背を押してくれる。
ドルフ村から遠く離れた丘の上から、炎に包まれた村を見下ろす。住んでいた故郷、知っている人はもう二度と帰ってこない。失ったものは二度と戻らない。
知り合いも、家族も。今そばにいるエマでさえも。カイは全てを失った。
夜はまだ開けない。きっともう夜明けなんてやってこない。
世界は、闇に包まれてしまった。
そして時は過ぎ去り、十年という月日が流れた。
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