オリーブ色の曲線
夏蜜柑
オリーブ色の曲線
1
違いは、簡単な知能テストを行なうと顕著に観察された。
ぼくは計算が全くといっていいほど出来なくなっていた。
四則演算さえも困難で、小学生が行なうような計算、「一+四はいくつかな?」のような、馬鹿にしていると感じたであろう問題にもすぐに答えることは出来なくなっていた。
しかしだからといって論理的な思考ができなくなったか、ミルクの色が判らなくなったとか、そういったことは一切ない。教室の天井に構える蛍光灯スイッチのオンオフに対する因果的な事象の把握から、冷蔵庫の奥に隠されたヴィヴィアンウエストウッドの花柄ドレスを見つけ出すぐらいの嗅覚は未だ備えていた。
ぼくが数について「よくわからない」と発言したことでぼくの脳の欠損を彼らに思わせたが、それが誤りである事には、彼らもまたすぐに気が付いた。
「一+四がどうして五?」
ぼくがそうした疑問を口にすると彼らの内の一人が「どういう意味だい?」とすぐに問い返してきた。彼の怪訝な表情にぼくはハッとして、どうしてあのような発言をしたのか? とぼくのうちに疑念が渦巻いてぼくを圧迫した。けれどぼくは自分の頭が愚鈍になったようには感じられなかった。それでも当初は、ゾンビが自らをゾンビになったことに気付かないように、愚鈍になったことさえ気付かないほどの愚鈍になったのではないか? と思った。すると恐怖が全身を蝕みはじめ、カビの生え出した食パンの気持ちを味わった。
それでも冷静さを取り戻すと試験を再開させて、ぼくは再びがらんどうな面持ちで質問をした。
「二+三の答えは五となっているけど、ねえどうして?」
2
余剰次元が存在する。
なんて言うけれど猫のぼくにはその前提は誤りを感じ、時間における一次元性。
猫になって感知するのは時間という存在が一次元という単独的なものではなく、時間という概念それ自体に広がりがあって三次元としての存在を持つ、ということだった。下手な例えで言うなら、僕にとっての『時間』とは『中身のないマトリョーシカ』で、猫のぼくにとって『時間』とは『一般的な中身の詰まったマトリョーシカ』なのだった。
加えていえば時間は三次元的なのだけど、その三次元内に存在する時間もまた存在しており複数の次元を持っていて、それはおそらく指数関数的な広がりさえも持つのだろう。けれど猫となった頭では巧く計算することもそれを計算式として概念的に浮かび上がらせる事さえも難しい。でもこれが、昨今のぼくの計算能力に対する著しい低下に対する合理的な説明をもたらした。
ぼくは計算を行なうといった論理体系を投げ出したのでもなければ脳の欠損における結果でもない。人の脳として思考する際における時間の概念性の重要さと、猫の世界における時間の概念性における齟齬が生み出した、エラーではなくアーキテクチャの違いだったのだ。そもそも人間がどうして一+一を二であると認識をするのか。根底には時間の概念が、それも一次元的な時間としての概念が油汚れみたいな頑固さをもってこびり付いていたのだ。
例えば部屋に一人の人間が居る。その隣にもう一人の人間。では、ここに人間が何人居る?
答えは二人。でもどうして二人なのか。一人であってはおかしいからだ。
人間は時間の概念としてそれを一次元的に認識し、一方通行として使用する際にはその標識としてエントロピーの概念を用いたのだろう。
物質は乱雑な方向へと傾いていく。それは確率論的なことであり、物質はエネルギーを得るにしても失うにしてもそのエネルギーは対称的であり、エネルギー自体の総量に変化が生じない。とすればエネルギーを与えられたものは動きを活発にして整頓された状態に自ずとならないのは簡単に言ってしまえば興奮しているからだ。
乱雑なる状態に自ずと流されるのも無理はないわけだ。
分子は活発な児童で、エネルギーは美味しいおやつ。だからこそ一+一が二になること以外がどうしておかしいのか?
それはエントロピーが崩壊してしまうから。
これは部屋に居る人間、全部で何人? なんて考えるより、部屋の中に居る人間を粘土みたいに合体させたとき、部屋には何人分の人間が居るか? そう表現した方が分かり易いかもしれない。
部屋の中に居るのは一人であり一+一は一! なんて答えてしまえば、人間一人分の質量、要は人間一人分のエントロピーが消失しちゃう。かなしいね…。
だからさ、エネルギーとしての対称性が崩れることっていうのはエントロピーくんを馬鹿にすることになる。だから一+一を二と考えるっていうのは合理的配慮。美しいやさしさだ。
実際には「一+一は二であるのが正しい」じゃなくて、「一+一は二であるのが合理的」といったほうがスマートだよね。スマートって言い方、かっこよくない?
とにかく猫であり猫になったぼくにとってその考え方は乖離するべくして乖離したのであって、ぼくにとって一+四が五ではないと思うことも不自然ではなったのだ。
時間に対する認知が、一次元的な見方から大きく決別してからは。
3
ぼくの話をじっくり丹念に理解してくれたら嬉しい。
きみは、おそらく最初のほうから順に。この話としての固まりを。最初から順に読んできてくれたはずだ。
そしてその構築された理解における一方通行的な認識もまた、時間の一次元性な性質、パターン化された手順としての理解だといえよう。一次元的な一直線。平行台。
きみがもし不安定に歩こうとするのであれば、ぼくは尻尾をメトロノームのように揺らしてきみを支援しようと思う。だとすれば猫であるぼくには、そこでどのような違いが生じてくるか。
きみは縦の平行台を歩き、横に広がりを持つ平行台を昇り、高さはきみの認識に付随する。
ぼくにとっての時間には”縦”があり、それは時間の流れに乱雑さを纏わせない。
可逆的な状態を指すのではなく、あくまで変化のことを示しながらも、状態の変化を(人が時間の基準に光を飛ばすように)意図せず、『時間』という概念に不可欠としない。つまりこの次元においては、先ほどとは別の形で1+1を瓦解させる。
例えばここに、どんな自然数よりも大きい『n』という数があるとする。しかしここで『n+1』を定義すれば、『n』のより大きい数が出来てしまう。けれど重要なのは『n+1』という形なんだ。
あくまで『+1』であって、『1n』ではないということ。
この違いは『1』が『+の形になっているか』。そしてこの『+』の概念を付け足すには時間ちゃんが寄り添う必要がある。何故って、もし彼女を介さないとすれば二つは既に同化しているからで、『1n』となってしまう。
考えるべきは「どうして『+』が存在するのか?」ということだったんだ。
それは時間の楔なのだ。
1+1を成立するために必要なのは、『+』の概念を成立させる『時間』と呼ばれる因子。
でもぼくに残ったほのかな老婆心から注意喚起をすると、これって人の時間の捉え方だよね? ってことを付け足そう。つまり猫のぼくは猫になることによってようやく、この説を否定できたわけだ。きみにはできまい。くっくっく。
と、まぁ今の言葉を踏まえてさ、単純に言えば、猫のぼくにとって『n+1』と『1n』は同じ意味ということになる。
それこそが時間における一種の『縦』さなんだ。
何故こうなるかとぶーぶーいうなら説明しようか。
時間に対する概念が異なるから。
なんてこれで済ませてしまえばぼくは毛並みを批判されるかもしれない(実際、男なのに三毛猫みたいだなといわれると少し腹が立つこともある)。
じゃあもうちょっとだけ、具体的に説明しようと思う。
例えば、飛び出る絵本ってあるだろ?
そうそう、立体的なやつ。
その絵本を開くと、絵が立体的に立ち上がって見えるでしょ。その飛び出て立体化した絵なんだけど、その立体絵を下から見ることはできる?
できる、と答える場合もあると思うよ。本を掲げて覗き込むようにすれば可能だし、ってね。けどちょっと待ってほしい。じゃあ本を動かさず、飛び出た絵を上から眺める状態で、下から見ることってできる?
できないよね。でも絵本の平面に沿ったカメラを置けば可能。
つまりここで言いたいのは、そのカメラこそが多次元を眺める視線、という事に他ならないんだ。そして人の場合、そのカメラが存在してなくて、猫になったぼくにはたまたまそのカメラが感覚野として備わっていた。
と、こういった次第なのである。
さて次に時間の多次元性について……説明しようと思ったんだけど、どうやら紙面が足りないみたいだ。余白も少ない。ぼくのおでこよりも狭いくらいだ。
最後になるけど、ぼくの夢の話をしよう。夢っていうのはいつだって不思議なものだからね。それに示唆的でもある。
夢の中では喋る鼠が出てきた。そいつは人の言葉を流暢に喋り、猫であるぼくの前に出てきても恐れる様子は全くなく、謙虚さの欠片もなく横柄に話しかけてきた。
「まったく人間ってやつは馬鹿だね」
「どうしてそんなことを言うんだい?」
「やつらはコロリと騙されるからさ」
「そうかな?」
「ああそうだとも。奴さん、俺の同胞を実験に使いやがるんだぜ! 己どもは、同胞を実験に使うのは酷く拒絶するくせによ!」
「そうだね」
ぼくがそう答えると鼠は鼻息を粗くして顔を真っ赤にした。
「悪魔というものがいるなら、まさにあいつらのことだ! 虐殺を繰り返し、勝手に遺伝子を組み替え、あげくのはてに生命を冒涜するかのように生理作用を弄んで結果を楽しみやがる。実験と言えばなんでも許されると思って! 名目があれば鼠の命は軽いというのか? ああそうだろう。そうだろう。クソッ!」
「たいへんだね」
「こっちだって馬鹿じゃない。少しぐらい、一矢報いてやることだって出来るんだ」
「へえ」
「だからな、思わせぶりな態度をするんだ。奴ども、これを与えればこうなる。そう予想する。だから、あえて真逆の行動を取るんだ。不味い飯のほうを好むふりして食い続けたり、押したくもないレバーを押し続けたり。迷路にわざと迷ってやったりする」
そのときぼくは何か言ったのだけど、なんと言ったかは覚えていない。けれどその言葉を聞いて鼠はニヤリと笑い、「そうだな」と頷いた事だけは覚えていた。
オリーブ色の曲線 夏蜜柑 @murabitosan
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