変蛹

ウヅキサク

変蛹

「蝶は醜い。芋虫は愛おしい。真に美しいのは蛹の姿」

「相変わらず逆張り好きですね、先輩」

 夕暮れの光が差し込む空き教室。わたしは背もたれに体重を預けて斜め後ろを振り向く。キィと椅子が軋んだ。

「何が逆張りだ。これは私にとっての真実だよ」

 先輩はムッとしたように言う。

「世間一般の感性から外れた態度を敢えて取る事を、逆張りって言うんですよ」

「それならば間違っているのは世間一般の感性とやらだな。蛹ほど美しく完成されたモノはそう無いだろう」

 あまりに堂々とした言いように、思わず確かに、と納得しかけ、わたしはいやいや、と首を横に振る。

「蛹への感想は知りませんけど、蝶が醜いは怒られますよ。蛾ならまだしも蝶が醜いって」

「おっと、蛾への差別はいただけない。蛾も蝶もその実大した違いなど無いのだよ」

 大袈裟なほどに大きな溜息をついて、

「美しい蝶や地味な蛾と同じく、地味な蝶も、美しい蛾も腐るほど居る。蝶は良いが蛾は駄目だというあの感性、私はとても理解出来ないね」

「何だ、やっぱり蝶を美しいと思ってるんじゃないですか」

「下手な揚げ足を取るな。蝶の美しさは見た目の美しさ。蛹の美しさは在り方の美しさだ。意味がまるで違う」

「へぇ。わたしは蝶ってきれーで美しいと思いますけどね」

「どこが」

 先輩は顔を顰める。

「あれは最早死に向かうより道の無い生きた骸だろう。辛うじて生殖という本能が骸を突き動かしているが、あの脆い骸がかそけく羽ばたく姿、とてもではないが見てられんよ」

「脆い骸、ねぇ……。先輩、オオムラサキの動画見ます? 羽でスズメバチばっさばっさしてるやつ」

「さっきから揚げ足取りばかりだな。何事にも例外はある。それに、オオムラサキの寿命はたったの二週間だ」

 露骨に不機嫌な声をした先輩は足を組んで机に載せた。

「お行儀悪いですよ」

「なあ、蛹の美しさは何処にあるか、分かるか?」

「さあ。強いて言うなら見た目とか? でも蛹にそんな綺麗さ感じたことないですけど」

「蛹の美しさはね、その不確定性にあるのだよ」

「不確定性?」

「シュレディンガーの蛹さ。蛹は蛹である限り、中のモノがドロドロの未熟な溶液なのか、羽化間近の蝶か、死した骸かを確定しない。あるいは寄生バチの幼体が眠っているのか、羽化不全の個体か、何か新しい突然変異の可能性すら秘めている。蛹は、蛹であり続ける限り、内に無限の可能性を秘めている。故に蛹は美しいのだ」

「可能性は美しいとか、そういう話ですか? なんかおっさんの説教臭いなぁ」

「分かってないな、君は。この美しさをそんな陳腐な言葉で語らないでくれるか。蛹はね、言わば未知の揺り籠だ。幾つもの可能性が、未来が、夢が重なり合っている。こんな美しいものはないだろう」

「……だから、未来の確定した蝶は醜いと?」

「可能性を失い死へと向かうよりなくなった命は醜いだろう。ただひたすらに老い衰えて行くばかりなのだから」

「生きるってのは、死に向かうことですよ」

 わたしはゆっくり椅子から立ち上がって、先輩の前に立つ。幼い顔立ちで、向かうところに敵も間違いも有りはしない、とでも言いたげな先輩の顔を見下ろした。

「何故蛹が美しいのか。何故未確定の可能性が美しいか、それはね、そんな瞬間は必ずいつか失われるからですよ」

 先輩、――『私』は、痛みを堪えるような顔をして『わたし』を見上げる。

「美しいまま留まれば良いのさ。停滞も立派な選択だ」

「停滞もまた緩やかな死への道程ですよ。蛹のままでは生きられない。生きたければ、死を見据えて真っ直ぐ進むしかないんです」

「蛹が開けば未来は確定する。幾つもの未来の重なりは失われ、ただ一つの確定した未来のみが羽化する。いや、羽化出来るかすらも分からない」

「そうですね」

 私は口を噤んで俯く。わたしは鮮やかな橙に染まる空を見上げる。

「それでも、そろそろ選ばなければ。羽化するか、このまま蛹の中で緩やかに死んでいくか」

「選べば確定してしまう。確定してしまえば、進む先には死しか無い」

「まったく、我ながら往生際が悪い」

 苦笑し、私の肩に手を添える。

「死へと進むが生物の本懐。それは変えられない。けれどあらゆる可能性を削ぎ落とし続けた一本道がどんな道程をしているか、それは死ぬまで永遠に未確定であり続けるでしょう?」

 私の幼い眼差しがわたしを見つめる。わたしは私の目を見返し、僅かに微笑んだ。

「さあ、そろそろ時間みたいです。一緒に行きましょう?」

 頷いて、差し出された手をそっと握れば、私はふわりとわたしに同化する。幼いくせに大人びた、例えるなら芋虫の延長線上に居た蛹の私。昔はとても大きく見えた手は、握るとわたしの手より僅かに小さかった。

 私は窓から空を見上げる。夕暮れだと思っていた鮮やかな橙の空は次第に淡い桃色が混じり、夜明けの空の様にも見えてくる。

 窓に掌を添えて、力を込める。


 ピシ、と窓に、その先に広がる空に亀裂が走った。

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