発生と消滅に関する考察
ルリア
生について
発生、再生、生、生、生、
先日、どこかで見かけた。
「母体から産みだされる胎児についているへその緒は、母体のものなのか、胎児のものなのか」という質問。
この世に存在している人間ならだれしも、例外なく、ただの一歩もたがわずに共通したその発生と過程を経たうえで、きょうもその呼吸を繋いでいる──というのに、わたしはその質問を目にする瞬間まで、ただのいちどもそのことに関して疑問を持ったことがなかった。
ちなみにそれは「胎児のもの」らしい。ついでにいうなれば、胎盤も──わたしはそのメカニズムについてすこし考をめぐらせ、素直に「ああ、なるほど」とちいさくつぶやいた。その言葉をわたし以外のだれかが耳にすることがない空間で。
たしかにそれらは母体となる人間が単身で生きていくうえでは必要とする機会が訪れないものだ。たとえそれをつくる過程が記録されたDNAを持っていたとしても……いや、それをいってしまえば、性別や可能性、ましてや機会に限らず、すべての──正しくこの世に生を受けた──人間のDNAにはそれが記されているということになる。
胎児がその場所で育つためだけに必要とするものなら、それを形成するのは母体ではなく胎児であるべきだと思う。わたしがそう勝手に納得して言い切ってみたところで、それはただの事実であること以外にはありえないのだけれど。
母体のなかで与えられた限られた場所に根を張り、栄養を分け与えてもらうための通路を用意し、そこから送られてくる──もしくは奪う、だろうか──栄養を摂取して、必要となる細胞を培養する。
そうやって与えられたDNA《設計図》の指示のとおりに人体を形成していく。このとき、DNA《設計図》に記載されたとおりにいかに忠実に、間違うことなく──しかしそれは、早すぎても遅すぎてもいけない──それらを形成していくかによって、その胎児の今後の人生がどのようなものになるかのさいしょの一歩が決まる。
たとえその発端が、胎児自身が選択権を持っていない男女の合意の──あるいは、合意は存在しなかったかもしれない──結果、およびその結果をもたらすことになった男女それらが生来それぞれ固有に持っていたDNAに影響を受けていたとしても、人間がこれまで繁殖し続けてきたマニュアル通りに根を張り、いかに指示されるままにそれを再現するかが誕生の成否に関わる。
いずれにせよ、わたしたちは、生物学的な観点で語ればだれひとり例外なく、正しくこの世に発生した、というただひとつの事実として存在している。
*****
わたしが「母体から産みだされる胎児についているへその緒は、母体のものなのか、胎児のものなのか」という質問を目にしたときとはまったく別の機会に、またちがった記事が目に飛び込んできた。
「先天的形成不全のイモリの四肢のひとつ、切断を経た再生により完全回復」
──先天的形成不全が完全回復する、とは?
まっさきにわたしはそう思った。そして、胎児が発生するメカニズムについて思考をめぐらせたときと同様に考え、またしても「ああ、なるほど」とちいさくつぶやいた。
もちろん、そのつぶやきを耳にするだれかは、相変わらずわたしのそばには存在しない空間で。
しかしそれにしても──発生と再生はそれぞれ異なるメカニズムを持っている可能性がある、ということについてわたしは考えをめぐらせる。
もともとイモリやトカゲのような有尾両生類は器官再生能力が特別に高いことは有名だ──だからこそ生物学に限らず人間の医療分野においても有用な情報が得られる可能性が高いため、それらの研究は常に注目を浴びている。
器官再生能力そのものの存在や仕組みを明確に理解してはいなくとも、人々はみな、トカゲのしっぽは切れても再生することを知っている──もちろん再生には個体自体が持っている生命エネルギーの消費が激しいことから、対象個体が生涯のあいだにしっぽを再生できるのはおそらく、一~二回が限度だろう。なかには完全に再生できない個体だっているにちがいない──十分な栄養を得られない環境だったり、わたしたちの想像を絶するような事態が自然界に存在していたっておかしくはない。
再生する──それは甘美な響きを持つ。
失ったものを元通りに取り戻そうとすること、それはふだん、その願望を口にするほどには至らなくても、だれしもいちどは考えたことがある──すくなくともわたしは、考えたことが、ある。
切り傷、擦過傷、挫創、切創、咬傷、裂傷痕、熱傷、変形、脱毛──特にこれらは自身も、自身以外の他人の視点であきらかに目視が可能だ。ほかにも体内における腫瘍や疾病など、目には見えなくても個々が抱える痛みにもなにかしらの原因がある。
人間がその生命活動を存続しつづける限り、だれもがその身体に物理的な傷を負い、失い、劣化していく。
わたし自身はもうすでにこの世界に正しく発生した──生物学的には。
発生した結果、様々な痛みと傷をほかのひとたちと同じように負って生きてきた──はずだ。
基本的に、人間はあきらかに視認する範囲で「再生」には至らない。
皮膚に傷がついた、骨が折れた──その程度は医療を受ける必要はあるが再生、というよりは修復だ。
もちろん、筋肉痛だって、目には見えないながらも、ふだんそこに存在する線維が傷つき、それを元通りに修復されるから起こる。
切断されかけた部位が、ぎりぎり皮膚いちまいだったとしても、その肉体とかろうじて繋がっているのだとしたら、現代の医療技術ではほとんどが修復可能である──なお、完全に切り離された場合はこれに該当せず、それらの状態による、とわたしは考える。
けれど、それに対して「再生」はどうだ?
再生、という言葉からさきほどのイモリの四肢やトカゲのしっぽのように、失われた部位が元通りに戻る、ということを想像する。
けれど人間がそれらの個体とまったくおなじ状況に陥ったとしてもみずから再生することはない──四肢を失ってもおのずと生えてくる、ということはない。
つまり、再生は実現可否に関わらず常に身近に存在してはいるものの、人間が本来持っている発生や修復のメカニズムとはちがい、自然──あるいはプログラムまたはメカニズムとして──ではなく、あくまでもそれらの知識を有する技術者に適切な処置をされなければ実現が不可能なものである、ということになる。
それゆえ、わたしは考える──器官再生機能を宿さなければこれまでの生存戦争のようなものを生き延びることができなかった有尾両生類の過酷さを。そして、先人らの好奇心や探究心、もちろん、それ以外のありとあらゆる個人の信念のさきに積み重ねられてきた知識および技術、研究、他生物の犠牲、それを鑑みず、あたりまえのように過ごしている人間たちの傲慢さを。
発生を、誕生を、人間を、時代を、わたしたちは選んだわけでも、むしろ望んだわけではない。
気がついたらそこに存在し、一定の保護を受けながら言葉を覚え、文化を学び、社会を知り、生かされてきた。
目に映る景色の鮮やかさ、
頬をかすめ、髪をなびかせる風、
花の美しさとその花が咲き乱れる季節、
意識しないまま蓄積されてきた記憶を刺激する香り、
刷り込みのように聞かされ続けた音楽、
これまで口にしてきた数々の生命とその味、
それらが後々、それぞれの基準となって個々の人格を確立するということだけは、だれも教えてくれなかった。
わたしはただそこに立っていた、それらがすでに存在している場所に。
原理や歴史を知らないままだってきっと困らない。
興味もない。
わざわざ知る必要性すら感じない。
そういうものであふれている世界の隙間を縫うように、なぜだかわからない、この人生がどこに向かうのかわからない、けれど明日死んではいけない理由をそれぞれが探して生きている。
ただここで人間として生きている、というだけで生き続けることを強要されている。
人間が傲慢であると考えたところで、それ以外の選択肢を与えられないまま発生してしまったがゆえ、ときには再生──あるいは修復──を経て、生きることを選択し続けなければならない。
わたしは、それを残酷だと感じるこの気持ちの正体、あるいはその答えを、ずっと探し続けるために生きている。
わたし以外のだれもが、似たような気持ちを持っていると信じて生きている。
わたし自身に、そう言い聞かせ続けて生きている。
明日こそ死んでやる、と、決意したように、思い続けながら、願い続けながら、どうやら、このさきも、
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