万年蝋

空野ゆり

本文

 眠りに就く前としては最悪な気分だった。申し訳なさで涙も出ないということもあるのか、と、頭の片隅で酷く冷静な自分が呟いていた。いったいどうしてこんなことになってしまったのだろう。そう自分に問いかけてみるも、答えはとっくに判然としている。私は、よかれと思って余計なことまで言葉にし過ぎたのだ。


 午前二時四十六分。枕元のデジタル時計は淡い緑色の光でそう現在時刻を告げていた。明るい画面を長時間見続けたことによる瞳孔の開かれたような、脳の裏側が干からびたような感覚がまだ抜けず、私は暗い部屋のベッドに腰掛けたまましばし呆然としていた。


 優しさの押し売りだ。そんなことはわかっていたはずだった。私はいつもそうだ。誰かに、周りの人々に、優しい人だと思って貰いたい。そればかりで、本当は中身なんて大してありはしない。それらしく、相手に喜ばれそうな甘い言葉を吐き出すばかりで、何も行動なんて起こしたりはできないのだから。


 ――そんなこと言って、いつも口だけじゃない。


 ――どうせ他人事なんでしょう、だからそんな適当なことが言えるのよ。


 さすがに今夜のは堪えた。返す言葉もなかった。涙だって出るものか。言われた通りだ、私があまりに無責任すぎた。


 深い深い溜息が胸の底から湧いて出て、ぶらさがった二本の足を伝ってそのまま埃っぽいフローリングの上に流れ落ちた。こんなはずじゃなかった、なんて、また自分勝手な思いが頭をよぎる。私はつくづく友達がいのない人間だ。こんなにも他人の立場に立って物事を考えられない人間が、積極的に友人の悩み相談などに乗るべきではなかったのだ。チャットでの相談というのもよくなかったのかもしれない。ともかく、この三時間半で得たものは、どうしようもない罪悪感と自分自身への幻滅であり落胆ばかりとなった。そう確認して、改めて情けなさで胸が詰まる。あぁいっそ、この胸の苦しさでそのまま窒息死できたらいいのに。


 昔から思い続けていたこと。自分は本当に友達がいがない。というか、私と付き合ってくれる周りの人々に対して申し訳ないくらいに釣り合わなくて、価値がないのだ。人は私の長所を優しいところだと言うけれど、そんなの本物の優しさではない。私は周りの本当に優しい人たちに愛想を尽かされてしまわないように、少しでも報いられるようにと、必死なあまりに優しさを押し売りしているだけなのだ。


 何度目かわからない同じ結論に辿り着き、それが裏打ちされたような今夜の出来事を振り返って更にいたたまれなく感じながら、私は横向けに倒れ込むようにして布団に潜り込んだ。もう考えるのも疲れ果てた。胸の苦しみに蓋をするように、ぎゅっと布団を抱き寄せて猫のように丸くなる。そうしている内に、私はいつしか眠りの中へ落ちて行った。


 昨晩は夜更かしをしてしまったはずなのだが、ふっと何かに気が付くように目が覚めた。枕元の時計を引き寄せて見るに、アラームが鳴り響くまであと五分。それならばアラームが鳴るまではこのまま少しまどろんでいよう、と再び布団を引き寄せる。いつの間にか布団からはみ出してしまっていた左半身がほんのりと冷えていた。なんとなく肌寒くて、長袖七分丈ズボンの寝間着から生え出ている素肌の手足をさする。こんなことにどれほどの効果があるのかはわからないが、なんとなく安心できるような気がするのだった。さする程に自分の体が小さく、幼くなっていくような錯覚が一瞬起こっては、また元のサイズの自分を確認する。そうやって長いようで短い五分間は消化される。


 けたたましく鳴り出したアラームをものの数秒で止め、のそのそと体を起こして布団から這い出た。自分の体が重たい。と、階下が朝から妙に賑やかなことに気付いた。内容は聞き取れないが、明るい話し声が居間から階段を伝って響いてきていた。祖父母はそれ程お喋りな性格でもなかったと思うのだが、何かいいニュースでもあったのだろうか? あるいは誰かから電話が? いずれにせよ普段とは様子が違うのを感じ取って、眠気を引き剥がすようにベッドから勢いよく立ち上がる。今日は昨日よりマシな一日であって欲しい。


 階段を下りてドアを開けると、居間では祖父母と、そして私が朝食の並んだダイニングテーブルを囲んで、さも当たり前のように談笑していた。あまりのことに、ドアノブを掴んだままそこに立ち尽くす。もう一人の私がいる……? 私はしばし呆然としてから、何度も瞬きをしたり、あるいは目をこすったり、一度目を逸らして改めて見直したりを繰り返した。しかし、やはりそこには私と瓜二つな誰かが座っているようだった。仕舞いには自分自身の実体を確かめるようにあちこちを触ったり、ベタだと思いながらも頬をつねったり、ドアや壁に触ってみたりもした。それでもどうやら、私は依然として私のまま存在しているようであったし、目の前の出来事もまた変わらないようだった。そうやって私が現状を把握しようと四苦八苦している最中も、爽やかな朝日の似合う一家団欒の風景は変わりなく続行され、私がドアを開いて現れたことには誰一人気付いてはいないと見えた。


 気味の悪い、底冷えのするような怖さをじわじわと味わいながらも、とりあえず居間に入って後ろ手にドアを閉める。もう一人の私は椅子に横向きにかけた姿勢で足を交互にぶらぶらさせながら、生き生きと笑顔で祖母と他愛のない会話をし続けているのだった。今年から大学に通うに当たって大学に比較的近い祖父母の家に居候を始めたわけだが、ここで暮らすようになってまだ半年程しか経っていない私は、目の前の私と瓜二つな彼女のようには祖母と会話を交わしたことなんてなかった。そうなるには、人付き合いの苦手な私にはあともう三か月は少なくともかかるところだろう。それに、私はもう随分と、目の前の彼女のような快活な笑顔を浮かべた覚えはない。心の底から楽しそうな、飾り気のない笑顔。その横顔に、なんだか無性に苛立ちが込み上げてくる。


 そんなふつふつとした思いを抱えたまま、私は思い切ってドラマの一場面のように遠く感じられる三人の空間に向かって歩みを進めた。

「おはよう」

 普段より少し大きな声が出るよう、お腹にぐっと力を込めるようにして祖母に声をかける。いったん台所へ何かを取りに戻ろうとしていた祖母は、驚いたように私を振り返った。

「今頃おはようだなんて……なんでわざわざ席を立っているの?」

 言われて隣の椅子を見下ろすと、いつの間にか先程まで腰かけていたはずのもう一人の私は跡形もなく消えていた。驚いて何も返事をできずにいると、

「変なことね。今日は朝から随分元気におしゃべりしていておばあちゃんは楽しいけれど、そろそろご飯を食べないと冷めてしまうし、遅刻しちゃうわよ?」

 祖母はそう言っておかしそうに笑うと台所へと引っ込んでいった。私はまだほんのりと湯気を立てているベーコンとホウレンソウ付きの目玉焼きとキャベツのお味噌汁、そして祖父好みのおかゆ未満といったぺしゃりとしたご飯のよそられた食卓を見下ろして

「……いただきます」

 とかすれた声で呟いて席についた。祖父はぼんやりとテレビを眺めながら味噌汁の入ったお椀を手に取り、キャベツごと音を立ててすすった。


 クラスに馴染めなかった、と言ってもさすがにこの現状は普通じゃないのかもしれない。私は最寄りのコンビニで買った肉まんの包み紙を剥き、野菜ジュースのパックを片手に質素な昼食を開始した。祖母が毎朝しっかりした朝食を出してくれるおかげで、お昼休みにはまだそれほどお腹が空かないのだった。


 たいてい大学では一人で食事をとる。授業もそう。一人で大学生活の色々をこなすというのは、慣れてしまえば非常に気軽で、つまりはものすごく楽なのだ。けれども、大学にいる間中一言も喋らない日も珍しくないというのは、冷静に考えてみるとやはり好ましくないようにも思える。それ以上に、こうしてお昼を済ませながらぼんやりと、中庭で楽しそうに何か話したり食べたりを思い思いに過ごしている学生たちの集まりを見下ろしていると、今の私の過ごし方って、実は酷くもったいない時間の使い方なんじゃないか、という思いがじんわりと湧いてくる。


 決して大学に友人がいないのではないし、誰かと一緒に授業や食事をとることが皆無なのでもない。それでも、平均的な学生生活から鑑みるに、私の生活はあまりにも御一人様コース一直線過ぎるようには感じていた。クラスの関わりが薄いということや、サークルに同じ学部や学科の人がかなり少なかったという環境は確かにある。しかし根本的に、私が誰かに気を遣うという面倒臭さを避けてここまで来てしまった、ということが一番の要因だろう。大学では先生がお節介に人間関係を取り持とうとしてくれたりはしないのだから、自分から飛び込まなければいくらでも一人の時間を作れてしまうのだ。

 ――気楽と孤独って、ちょっとだけ響きが似てるかも……きらく、と、こどく。

 ふとそんなくだらないことを思いついて、私はその意味のありかを探るように、確かめるように、口の中で二つの単語を転がしてみた。


 帰りの電車に揺られながら、中古で買った大して中身のないライトノベルを読み流していると、ふいにポケットの中で携帯が震えた。メールだ、とバイブの長さから推測しつつ、本に栞を挟み、キーホルダーを掴んで釣り上げるように携帯を取り出す。受信ボックスの中の「友達・知り合い」のフォルダに自動振り分けされているのを確認して、心臓をチクリと針で突かれたように、嫌な予感がした。フォルダを開くと、案の定差出人は昨晩チャットで怒らせてしまった友人。件名は特になし。


 ――昨日は感情的になり過ぎて、ひどいこと言っちゃってごめん。せっかく相談に乗って貰ってたのに、あんなこと言うなんて最低だよね。冷静になってみて、自分がそう言われたらって考えてみて、今はすごく後悔してる。本当にごめん。


 私はそこまで読んで、思わず携帯を閉じた。その先にもまだ謝罪文が続いているようだったが、この四文だけで既に充分過ぎるほどに打ちのめされてしまった。あなたが謝るところじゃない。そう叫びたかった。昨日の言葉こそが正論で、私が謝るべきところなのに。そう携帯を握りしめて思ってみても、届くはずもないのはわかっていた。つくづく私は、何もできない、何も言えない、情けない人間だ。

 いったい何と返せばいいというのだろう? もうこれ以上、軽口は叩きたくない。


「ただい……ま」

 玄関のドアを開けると、途端にピアノの音が流れ込んできた。数年前に転勤でこの家を出て行った叔母が置いて行ったもので、普段は弾き手がおらず、音も立てずに黒いその身にしんしんと埃を積もらせるばかりの憐れな電子ピアノ。電子ピアノといっても鍵盤はタッチレスポンス付きの八十八鍵盤と申し分ないし、ペダルも三つ付いたキャビネット型の大変立派なピアノだった。有名メーカーの製品であることも考慮すれば、決して安くはなかっただろう。埃をかぶるばかりでは可哀想なのだが、如何せん祖父母は楽器に関してはからっきしなのだった。と、いうことは。


 恐る恐る居間へと続くドアを開けると、そこでは今朝と同様に、もう一人の自分が笑顔でピアノに向かっているのだった。祖父母はピアノの横のソファに腰を下ろして、そんな彼女の演奏に微笑んで耳を傾けている。エリーゼのために。私がピアノを始めた時に最初の目標にしていた曲だ。なつかしいと思うと同時に、強烈な違和感が私を襲った。そうか、私は、こんな風には弾けないからか。


 その演奏が私よりも上手い、というのとはまた違った。タッチの差だ。彼女の奏でる音色は、私が引いてみせるよりもずっと明るくて軽やかなのだ。その弾むような、スキップでもしているかのような弾き手の癖によって、エリーゼのためにという曲の持つ独特なもの悲しさは半減されていた。その音色に、昔ピアノの先生が言っていた言葉を思い出す。


 ――演奏にはね、弾く人の性格がどうしても表れるものなの。例えば根っこが明るい人が弾くと、悲しい曲でもなんとなく明るくなっちゃうのよね。だから、そういう自分と違う雰囲気の曲を弾く時には、ちゃんと注意しないとダメなのよ。


 彼女はそんな注意とは無縁に、気の向くままに指を運ばせている。楽しそうというよりは嬉しそうで、まるで体全体を使ってピアノと遊んでいるようだった。そんな彼女の様子に、そして何よりも、温かく微笑んで聞き入っている祖父母の様子に、私はそのまま曲が終わるまでドアを中途半端に開いたところで佇んでいた。


「……ただいま」

 改めてピアノの椅子の横まで来てそう言うと、

「おう、おかえり」

 祖父はいつもより柔らかい表情を浮かべてそう返し、祖母も温かい笑顔で私に応えた。

「おかえり。いきなりピアノを弾き出すなんて珍しくてびっくりしちゃったけど、随分上手になったのね。たまには弾いてあげた方がピアノも喜ぶわ」

「……うん、そうだね」

 私はぎこちなく笑顔を作ってそう答える。彼女はまた空気に溶けたかのように姿を消していた。

「すぐにご飯の準備もできるけど、先にご飯とお風呂、どっちにしたい?」

「じゃあ、先にシャワー浴びちゃう」

「わかった。出てきたらすぐ食べられるように支度しておくわね」

 祖母との会話を通して少しずつ地面に足を付けていく感覚で、私は現実感に引き戻された。しかし、それも束の間、祖母は思い出したように私の耳元で、

「さっきの演奏の途中でね、おじいちゃんたらちょっぴり泣いてたんだから。よっぽど嬉しかったのね」

 囁いて、私の肩を優しく叩くと廊下の方へと歩き去った。


 彼女の音色に気を取られて、そこまでは気付けなかった。祖父は昔から、口下手ではあるが涙もろい、情に厚い人なのだ。それにしても、彼女は私よりもずっと二人を喜ばせている。孝行なことだ。報いたい思いを空回りさせるばかりの私とは大違いで、好きなようにふるまって相手のことも笑顔にしている。それを理不尽と感じて、黙って唇を噛む程度の私はやはりどうしようもないな。そんな惨めさを全身から洗い落としたくて、私はお風呂場へと足を急がせた。

 その日はもう、彼女が現れることはなかった。


 それから暫くの間、彼女は私の前にふっと現れたかと思うと、数日現れなかったりと、気まぐれな幽霊のようにして存在し続けていた。わかったことは、彼女は家の中だけに現れるということ、そしてそれは常に私が家にいる間であるということだった。そして、決まって私に取って代わるようにして祖父母との親交を深めているのだ。


 彼女と私とは、見た目は表情を除けば変わるところがないと言っていいのだが、あまりにも内面がちぐはぐであった。彼女は私よりもずっと社交的で、楽天的で、自分の好きなことに遠慮も躊躇もなく突っ込んでいける、表情豊かな女の子。何もかもが正反対だ。それでいてどこか一般教養に欠けるところがあり、時折とんちんかんで馬鹿な発言をしたりする。私はそれに苛立ちを覚えながらも、彼女に対してどこか幼い印象を受けていた。


 しかし、私は彼女のことを幼いなどと評せる立場にはないのだろう。彼女が現れると私は以前にも増して、繰り広げられる幸福な家庭の図を壊してまで自分が入って行こうとは思えなくなっていた。それこそがあるべき姿であるような気がして。充分にその役をこなせない私には、割り込む資格がないように感じて。だからといって簡単に彼女を肯定することなんてできるはずもない。結果として、意気地のない私はよくピアノを弾くようになった。それはささやかな抵抗のようなもので、会話のBGMを担当するなんてことではなく、単純に自分の存在を確かめるような、知らしめるような、ようは彼女の邪魔をしたい思いが込められていた。我ながらなんという幼稚な行動だろうと思う。けれども、ピアノを弾いているとそういう雑念も忘れて、弾く楽しさだけに身を任せてしまえる時も少なくはなかった。そうなるといつのまにか祖父母が私の傍に来て、じっと聴き入ってくれているのだ。この時ばかりは楽器を弾けてよかったなぁと心から思う。そういえば、彼女がピアノを弾いたのは、あの一度きりだった。彼女にヒントを得て始めたのだと思うと妙な因果を感じる。


 こうしてピアノを一つの心の留まり木としながらも、静かに、コップに水を注がれ続けるのと同じように、私は彼女への淀んだ思いを溜め込んでいった。


 夜中にふと目が覚めた。それはいつかの感覚に非常によく似ていた。そして、異様に喉が渇いていた。このまま気持ちよくまどろんでいたいのはやまやまだったが、眠り直すのを阻むくらいに、喉の中が干からびて引きつる感覚が不愉快に付き纏ってくる。ここで体温の上がった体に飲み物を流し入れたら、今の心地よい眠気も逃げてしまいそうで、正直乗り気はしない。暫くはそうやってぬくぬくと眠りに落ちるのを待ってみたが、やがては喉の発する要求に負け、仕方なくベッドから重い体を引っ張り出すことにする。足を下ろすと、フローリングの床がひんやりと夜の温度に染められていた。


 居間まで来ると、彼女と祖父が二人だけでダイニングテーブルを囲んでいた。祖母と二人でいるところは何度か見かけたことがあったが、祖父と二人というのは初めて見る光景だ。夜中にしぶしぶ起きてきてみれば……とまた心のもやもやを増幅させながら、気付かれないように、というよりは関わらないように、そっと台所へ抜ける。


 大きめのコップになみなみとオレンジジュースを注いで居間に戻ってくると、二人はいなくなるどころか先程よりも話に花を咲かせているところだった。いつもは無口な祖父が、珍しく饒舌に話をしている。

「おじいちゃんもね、子供の頃には自分たちで蝋を作っていたことがあるよ。近くの山から蝋の実を採ってきて」

「え! 蝋って植物から採れるものなの?」

 耳に飛び込んできた話の中身に気を引かれ、私もピアノ脇のソファに陣取ることにする。

「そうだよ。あれはなんていう植物だったかな……たしか漆の仲間の植物だから、かぶれるんだよ。その実をたくさん採ってきたのをすり潰して、それから蒸して、それを絞るとね、黒い液体が出てくるのさ」

「黒い液体? 蝋って最初は黒いんだね!」

「そうさ、黒っていうか焦げ茶っていうかね、最初は白くなかったよ。そいつを暫らくほっておくと固まるからね、もう一度溶かして、今度は水の中にぽたぽた落としていくんだよ。そうすると白い蝋の粒が残るから、それを掬って集めるんだ」

「すごい地道な作業なんだね……今でも蝋って木から作ってたりするのかな?」

「さぁ……さすがにどうだろうねぇ」


 私はまだ半分ほど中身の入ったコップをピアノ脇のビューロにいったん置くと、再び台所に向かった。チャッカマンを持って戻ると、既に彼女の姿は消えていた。私はそれに構わず、ダイニングテーブルの隅で埃をかぶっていたキャンドルホルダーを手に取る。近くにあったティッシュで軽く埃を拭き取って、入れられたまま底が張り付いてしまっていた白く小ぶりなキャンドルに火を灯した。ぼんやりと蜜柑色の光がゆらゆらと動き、ガラスでできたキャンドルホルダーの花模様の影をテーブルの上にキラキラと映し出す。アロマキャンドルではないと思われるが、ほんのりと懐かしい香りが漂ってくる。私はビューロの上からオレンジジュースを取ってくると、先程まで彼女が座っていた、祖父の向かいの席に腰を下ろした。


 何を話すでもなかった。ただ私たちの間で、小さく温かな炎がどこから吹いてくるのかもわからぬ風に揺らめいて、水の影のように淡い花模様が絶え間なく踊っていた。

「おやすみ」

 祖父はやがて湯呑を置くとそう一言残して寝室へゆっくりと歩み去った。湯呑の中ではお茶っ葉の欠片が溜まっていかにも渋そうに濁った飲み残しだけが冷めていく。程なく私もオレンジジュースを飲み干すと、キャンドルホルダーの底で身を縮めて震えるばかりとなった明かりを一息に吹き消した。


 彼女が現れるようになってからもう半月ほど経っただろうか。その翌日、私がお風呂場から廊下へ出ると目の前を彼女が通り抜けて行った。あまりに唐突なことで、ぎょっとして身を引く。近くには祖父母の姿も見えない。そのまま目を離すこともできず行方を見守っていると、薄く開いた祖父母の寝室のドアの中へと吸い込まれるように消えて行った。恐る恐る後を追うようにドアの前へと向かう。


 今までこの寝室の中へは、数えられるぐらいしか足を踏み入れたことはない。それも、祖母に何か取って来るように頼まれた時などだけだ。ドアの向こうを盗み見るように覗いたが、そこには早くも彼女の姿はない。それこそ本物の幽霊でも見た気分になって立ち去ろうとしたところで、私の眼は意外なものを捉えた。


『多重人格とは』『現代人が抱える心の病』『あの人の二面性は病気か、それとも性格か』


 背中からバケツで冷水を浴びせられたかのような衝撃が全身を駆け巡った。祖母のベッド脇に積まれた本のタイトルに刻まれた、刃物みたいに鋭い言葉。そうか、私はこの半月、そんな風に疑われていたのか。それとも、本当は祖母の思っていることが正しくて、気付いていないのは私の方だったのだろうか……?


 足元が崩れ去る気分とはまさにこの感覚を指すのだろう。急激に何もかもが恐ろしくなって、逃げ出すように自分の部屋へと駆け込んだ――それなのに。

 部屋のドアを開けて飛び込むと、彼女が窓辺に佇んで空を見ていた。


「……あなたは私のなんなのよ」

 息が詰まりそうな悪寒を押さえつけ、私はなんとかそんな言葉を絞り出した。彼女は薄灰色の曇り空から目を逸らして私の眼を見た。反射的に、ほとんど本能的といっていい勢いで、私は彼女の足元へと視線をずらす。いつもは明るくて快活な表情ばかりの彼女が、今は何を考えているのか全く読み取れない顔でこちらをじっと見ていた。微笑むでもなく、寂しげでもなく、責めるでもなく、むしろそれら全てを併せ持っていると評すべき表情で。ただ、まるで何かを待っているかのような。そこには切実さとまでは言わないが、何か真剣さが含まれていた。それらを彼女の視線から肌で感じ取ることができた。


「私が消えて、あなたが私の代わりになった方がいいって、そう思ってるんでしょ」

 相変わらず彼女は何も言わない。答えの出ないもどかしさと、不気味な出来事の連続に対する恐ろしさ。そしてこれまで彼女に対して抱き続け、こらえ続けてきた、タールのように黒くどろどろとした感情が、今この瞬間に胸の底から込み上げ強烈に混ざり合う。私は再び顔を上げ、睨むように彼女の眼を見返した。気のせいだろうか、彼女の表情がいくらか曇って見える。彼女は胸の前で何か小さなものを両手で包んで、大切そうにギュッと握り締めた。


「どうせなら、私が死んで、あなたが代わってくれたらいいのにっ!」

 胸が割けて血が噴き出すよう。劣等感も嫉妬も恐怖も何もかも、もう訳がわからなくなって、私はそう叫ぶが早いか手近な物をめちゃくちゃに彼女に向かって投げつけた。色取り取りのペンが入った筆立て、パンパンに膨れた化粧ポーチ、弁当箱を入れる小ぶりのカバン、犬の形をした抱き枕……とにかく色んなものが宙を飛んで、彼女に当たっては床に散乱した。彼女はその場に蹲ったまま、やはり何かを大事そうに抱き締めて動かずにいた。俯いていて表情はわからないが、じっと耐えるように消えないでいる。遂に目覚まし時計が宙を舞ったところで、

「いったい何をしているの!」

 勢いよく扉を開けて祖母が入ってきた。目覚まし時計が盛大な音を立てて壁に当たり、プラスチックの破片がいくつか割れて散らばった。音が鳴りやむのと同じように、彼女もまた空中に霧散していた。


 ――あぁ、遂に本当におかしくなったと思われるんだろうな。


 冷静な考えが脳裏に浮かんだ次の瞬間、理性が決壊したように私はその場に泣き崩れた。


 泣き声を上げるのに疲れ、壊れた蛇口から溢れる水のように流れ続けた涙と鼻水もある程度収まったところで、祖母は「一旦落ち着くために居間へいらっしゃい」と言って私の肩を抱いてくれた。肩に触れた祖母の両手は熱いぐらいに温かみがあって、思わずそれでまた少しすすり泣く。祖母の腕に縋り、その温もりに支えて貰いながらなんとか居間まで辿り着くと、今度は祖父が心配顔で「何事だ」と声を掛けてくる。応えられずにまた喉を詰まらせ、鼻の奥のつんと刺すような痛みと戦っていると、「まぁ話は後にして、ひとまずお茶にしましょう」と祖母が私を祖父の向かいの席に座らせてくれた。それからもまだ、時折思い出したように涙が頬を伝い落ちることがあったが、それも次第に収まり、部屋から持ってきたティッシュが一箱空になった頃、祖母が大きな盆を持って居間に戻ってきた。立ち上る湯気から早くも部屋の中に柔らかい花の香りが移ろいでくる。


「ハーブティーはね、心を落ち着かせる効果があるのよ」

 香りの高い、薄い琥珀色をした紅茶を注がれたティーカップが丁寧に私の前に出された。そっとカップに口を付けると、湯気が泣き腫れた両目にじんわりと沁みて心地よい痛みを生んだ。そのまま目を閉じてゆっくりとカップを傾ける。小さく啜り込んだ一口で、鼻の通らない今でも豊かなハーブの香りを感じ取ることができた。ほんのり渋くて、後味に柔らかい苦みと酸っぱさが残る、それでいて砂糖とはまた違う甘みを含んだ、深くて純粋な花の香り。

「……なんのハーブが入ってるの?」

 やっと口をついて出た言葉はそんなごく日常的なもので、しゃがれてボリュームの上がらないこんな声でなければ、何の変哲もない会話のきっかけに過ぎなかっただろう。

「これはね、ローズマリーを使っているの。貰い物なんだけど、とってもいいお茶よ」

 私は湯気が目にかかる距離にカップを捧げ持ち、飲んで欲しげに揺らめく黄金色のお茶を見つめ続けていたが、祖母の声音にほっとした様子が滲んでいるのがわかった。

「美味しいよ……泣いた喉に染み入る感じ」

「そう、よかった。ゆっくり飲みなさい。まだポットにもたくさん入ってるからね」


 両手でカップを包み込んでいると、ハーブティーに籠った温もりがカップ越しにこの腕を伝って私の中へ染み入り広がって来る思いがした。ふーっと湯気を巻き上げるように息を吹きかけてみる。綿雲の子供のように白くて細やかな湯気は勢いよく私の顔に吹き付けて来たかと思うと、次の瞬間にはしっとりと残り香を漂わせて空中に消えていく。

「……ローズマリーの花言葉って知っている?」

 私が二杯目を注いで貰っていると、祖母はそう切り出した。紅茶やコーヒーよりも緑茶が好きな祖父にはハーブティーが口に合わなかったと見えて、ほんの数口飲んだ後にはお茶菓子にばかり手を伸ばしていた。

「知らんな」

「私も、知らない」

「花言葉って一つの花にいくつかあったりするんだけど、ローズマリーの主な花言葉は、『思い出』とか『記憶』ね」

「へぇ……花言葉って確か、花の色によっても違ったりするんだよね?」

「そうみたいね。おばあちゃんもそこまで詳しくはないんだけど……ローズマリーのもう一つの花言葉は、『私を思って』だそうよ」

「『私を……思って』」

「そう。ちょっぴり切ない感じね」

「ふーん、花言葉にも色んなもんがあるんだな」

 祖父はそう言うと、またお茶菓子の包みを手に取った。


 ――思い出。記憶。私を、思って。


 もう一口ハーブティーを口にした瞬間、パッと閃くように、走馬灯の如く様々な声が頭の中を駆け巡った。

 ――もっと我儘言ってくれていいのにあなたは本当に優しい人だと思うよ絶対自信持ったら今より色んな人と仲良くなれるってなんでそんな変なところで自分にだけ厳しいのちゃんと自分のことも認めてあげないと人と比べないであなたが本当に頑張ったことは頑張ったんだって胸張って思っちゃえばいいんだよありのままのあなた自身でいなよ――


 途端に、胸の奥が熱くなって脈打つように高鳴り出した。それは、昔家族や友達に掛けて貰った言葉の数々だった。もう涙は枯れたと思っていたのに、また目頭に熱いものが湧き上がり、鼻の奥がキュッと引き締められるように痛む。そうか、たったそれだけのことに、どうして今まで気付けなかったのだろう。それならば……彼女は。


 私は慌ててカップをテーブルに置くと自分の部屋へと急ぐ。後ろで祖父母が驚いて私に何か言ったようだったが、それもうまく耳に入らない。


 とても単純なことだった。友達付き合いが苦手なのも、祖父母との距離がなかなか縮まらないのも、本当は別に気遣いが面倒臭かったからじゃない。自分が我儘になること、我儘だと思われることを怖がり過ぎて、飾らない自分を誰かに好いて貰える自信が無くて、有体な言葉と態度しか吐けなくなっていって。そんな自分をまた、否定して、否定して、否定して。そうやって捨てようとして捨て切れなかった、本当はこうでありたかったはずの私の姿がきっとあの彼女なのだ。自分の中身はタールのように黒くて人前に晒せるものではないとずっと思い込んできたが、その中には生れ立ての蝋のように白い私もちゃんといたのだ。皮肉にも彼女の出現を通して、私はそれらを拾い直すことができた。だからきっと、私が自分を肯定した今――彼女は消える。


 部屋のドアを開けると、あらゆる物が巻散らかった床の中で、彼女のしゃがみ込んでいた場所だけがぽっかりと綺麗に空いていた。その真ん中に、彼女が最後まで守ったキャンドルホルダーが一つ、ぽつりと転がっているのだった。


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