空色硝子の宝箱

姫野 藍

第1話

 



 ごくりと息を呑む。緊張で首筋に汗が流れ落ちた。体育館の照明と湧き上がる歓声に軽い眩暈がして、膝の上で握った拳に力を入れる。強烈なスパイクを決め、拳を上げて眩しいほどの輝きを放ち破顔する彼は今この瞬間のヒーローで、嬉しいはずなのに苦しくて。そんな締めつけるような胸の痛みから逃げるようにそっと瞼を閉じて大好きな彼を隠した。



◇◇◇



「————い!! おーい! 早く起きねぇと遅刻すんぞ」

「んっ、ん……」

「学校! 時間! 遅れる!!」

「も〜〜うるさ…………は?」

「お。やっと起きた」


 ニカッと太陽のような明るい笑顔が眼前に現れて、起きたばかりの寝ぼけた頭が処理できずに固まる。「おはよ。あれ? 起きてる?」おーいと顔の前で手を振られハッとして目の前でひらひらと動くごつい手を叩き落とした。


「……なんでいるの」

「今日朝練休みだから、一緒に学校行こうと思って」

「……なんで部屋に入ってきてるの」

「起こさねえと起きねーだろ」


 さもそうすることが当然のような態度に小さく溜め息をこぼす。彼がここにいる理由はわかったけど、だからといって一応女子の部屋にこうも堂々と入ってくるものなのか。今更な気もするけれど幼馴染とはいえ遠慮も何もないなこの男。


「つーかおまえいつもこんなギリギリ? 俺が起こしてなかったら今も爆睡してただろ」

「……まあ。でもなんとかなる」

「だからさぁ、マネージャーやらね?」

「だから、の意味がわからない」

「マネになったら毎朝一緒に学校行けるだろ。そしたら俺が毎日起こしてやるよ」

「マネージャーやったら今より早起きしなきゃいけなくなるじゃない」


 上半身をベッドから起こして、まだ鳴っていないはずの目覚まし時計を一瞥する。うわ、いつもより三十分も早い。もう少し寝られたのに。

 朝は苦手だ。特別夜更かしをしているわけじゃないのになかなか布団から出られない。それでもなんとか遅刻は回避しているし、慌ただしいのは自分で誰にも迷惑はかけていないはずだ。……この時間なら電車までまだ余裕がある。もう一眠り——なんて言ってられないか。わたしだけならともかく、万が一にもこの元気すぎる幼馴染まで巻き添えを食らわせるわけにはいかない。だいたい寝かせてくれないだろう。早くも本日二度目の溜め息と共にもぞもぞとベッドから抜け出した。


「起きる」

「おう。早く起きなさい」

「ちゃんと起きるから下に行ってて」

「ん、わかった」


 ぽんぽんとわたしの頭を撫でて部屋を出ていく幼馴染に、再び吐きかけた溜め息を呑み込んだ。白石夏しらいしなつ、それが幼馴染である彼の名前。親同士が学生時代からの友人で家も近く、一緒にいることが当たり前でわたしたちは兄妹みたいに育った。彼の屈託のない明るさと人懐っこさのおかげで思春期を迎えても気恥ずかしさのひとつも生まれず、関係も小さい頃から何も変わらないまま高校二年生を迎えた。

 別に夏との間に何か変化を求めているわけではないけれど、もう少し恥じらいをもってほしい。親しき仲にも礼儀ありだ。幼い頃から相手の家に行き来するのが当たり前になっていたから、仕方ないと言ったらそこまでだけど。それでもたとえ夏が意識していなくてもわたしだってもう子供じゃないのに。でも変わらないこの距離が心地いい、なんて。


「……矛盾してる」


 結局のところ自分でもよくわからないんだ。わからなくてモヤモヤして苦しくて、可愛くない態度ばっかりとってしまう自分に心底呆れてしまう。バカだな、本当。嘲笑めいた笑みがこぼれて本日三度目の深い深い溜め息を吐いた。



◇◇◇



 支度を終え、最後に少し曲がったリボンを直して部屋を出る。顔を洗いに一階に下りたときお母さんと夏の談笑する声が聞こえていたけど、今もまだ変わらず二人の楽しそうな声が聞こえてくる。

 ガチャッとリビングの扉を開けて入ると会話が途切れ視線が集まった。どうやら父は既に出勤してしまったようで、リビングには母と幼馴染の二人だけ。


「やっと来たわね。おはよう理央りおう、早くご飯食べちゃいなさい」

「おはよう」


 美味しそうな朝ごはんが食卓に並ぶ。朝は特段お腹は空かないけれど、視覚と嗅覚が刺激され食欲を呼び起こす。定位置に座っていただきます、と手を合わせ熱々のお味噌汁に口をつけると身体に沁み入る味にほっとする。それは隣に座る夏も同じようでお味噌汁を飲んでほっとしたような力の抜けた顔をしていた。


「夏、朝ごはん食べてこなかったの?」

「いや、食った」

「そっか」


 いやバレー部の胃袋すごいな。


「本当、夏くんがいつも迎えにきてくれたらいいのにね」


 頬に手を添えて「理央がこんなにゆっくり朝ごはん食べてるなんて、夏くんが迎えにきてくれるときくらいよ」なんて言ってる母を他所に緩慢な動きで朝ごはんを食べ進めていく。


「だからさ、理央がマネージャーやればいいんだって! りおママもそう思うでしょ?」

「思う思う! マネージャーやったらいいのにね」

「ねー」


「…………」


 なんということだ。全く、昔からお母さんは夏のことが好きすぎる。二言目には「夏くんが」なんだから。


「中学の頃から誘ってもらってるのに、何を拒む理由があるの? あなたの為にもいい経験じゃない」

「……それは、まぁ」


 途端に味のしなくなった美味しかったはずの卵焼きをごくん、と飲み込んで居心地の悪さにごちそうさまをして立ち上がる。いつの間にかいつも家を出るくらいの時間になっていた。


「遅刻しちゃうし、もう行くね」


 ぐいぐいと迫ってくる、見えない圧みたいなものに圧し潰されそうだ。


「あら本当ね。早く行かなきゃ! 二人ともいってらっしゃい。気をつけてね」

「いってきまーす。あ、理央学校までお姫様抱っこしてやろうか」

「きゃー!!」

「…………しない。いってきます」


 「きゃー」ってなに。いきなりお姫様抱っこされて登校する娘変でしょ、というツッコミは胸に留めておく。されるつもりも毛頭ないけど。それにしても本当に朝からテンション高いなぁ。どこからその元気が湧いてくるのか疑問だよ。運動部ってみんなこうなのかな? 後ろで抱っこして駅まで走ってやるのに、なんて呟いている夏に聞こえないふりをしてわたしは家を出た。





 


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