プロローグ

 悪女と呼ばれることはある。

 けれどその言葉に心が折れないのは、すでに大切なものを手放し、もうこれ以上折れることがないからだ。


「──いいですか。だん様はあなたを愛することはありません。これはけいやくけつこんですので」


 王都でも指折りのごうしやなタウンハウス。

 そのきらびやかな外観からは想像できないほどに簡素な応接室で、ニネットは契約書を前にこの家の家令から説明を受けていた。

 そこに書かれている文言がどれも自分にとって好都合なことをかくにんすると、目を数度しばたたく。

「かしこまりました。この契約書によると、これは初夜をむかえない『白い結婚』なのですね。私としてもありがたいことです」

 白い結婚とは、こんいんを結んで三年間、実質的な夫婦関係になければ結婚をなかったことにできる制度のことだ。

 かつて、としもいかないれいじようが政略結婚の道具として使われることが多かった古い時代の名残なごりで、その証明には特別な契約書が用いられるのだという。

「ご理解いただけて何よりです。ではさっそく署名をお願いします。せいれいによる契約が済むまでは、旦那様──ベルリオーズこうしやくはあなたの前に現れませんので」

 家令の説明に、ニネットは躊躇ためらうことなくサインをする。

 すると、家令は眼鏡を人差し指でクイとあげつつ、ひとりごとのようにつぶやいた。

「可能であれば保証人としてご家族の署名もいただきたかったのですがね」

「私に家族はおりません」

 そう告げても彼の表情は変わらない。調査済みなのか、それともてんがいどくな仮のはなよめの身上に興味はないのか。おそらく、どちらもなのだろう。

 自分にも家族はいた。けれどとうに失われ、見つけるかりすらない。

 幼いころは手を引いてやり、少し大きくなってからは生意気な口もくようになっていたなつかしい弟分の姿が胸にせまる。身勝手な別れの思い出に心が痛んだのを、ました表情でごまかした。

 ところで、ニネットはとあるとくしゆな体質を持っていて、そのせいで『悪女』と誤解されることが多い。

 家令の言葉のはしばしからはまさにそういったたぐいかんが伝わってくるが、特には気にならなかった。

 なぜなら、この契約結婚は存外に幸運なものだったからだ。

れいこくと悪名高いベルリオーズ公爵のところにとつげと言われたときには、どうなることかと思ったけれど……妻としての役割を求められないなんて、とても幸運な気がする……!)

 ぼんやりとしている間に契約書が白く光りはじめたことに気がつき、ニネットはあわてて意識を呼びもどした。

 契約書の上には、かわいらしい女の子の姿をして白銀の衣をまとった精霊がっている。

「あなたには見えないかもしれませんが、ここには特別な精霊がです。今から『白い結婚』を証明するための精霊による契約を行いますが、この契約は私のほかには旦那様しか知りません。他人には絶対に口外なさいませんように」

「はい、承知しました」

 その精霊がをしながら、ニネットは微笑ほほえうなずいた。契約書に精霊がキスをすると、キンッというかんだかい音がひびく。

 無事に『白い結婚』の契約が結ばれたあかしだった。



 契約が終わると、夫となる男がいるしよさいへと案内された。

 今まさに開けられようとしているその扉の前で、ニネットはゆっくり深呼吸をする。

 このえんだんが持ち込まれたとき、ニネットの友人の一人はこう言って止めた。

『ベルリオーズ公爵、あれは無理よ。後ろだてのない令嬢ではどんな目にうか。精霊によって成り立つこの国のためにいけにえになるようなものだわ』

 その言葉がこわくないわけではない。

 けれど、ニネットは意外と人生経験が豊富なのだ。こんなところでくじけるようなせんさいな心のつくりをしてはいない。

(心配されながらここへ来たけれどだいじよう。だって、私は一度生贄になったんだもの。で、私の命は終わったようなものだし……!)

 気合いを入れ直して息をいたところで、家令が告げてくる。

「いいですか。入ったら名乗って、旦那様が話しかけてくるまでお待ちください」

「…………はい」

(仮にも自分からきゆうこんした相手なのに、名乗れとおっしゃるのね)

 これでは、妻となる人間の名前すら覚えていないと言っているようなものだ。

 いくら契約結婚とはいえ、この家の主人は本当にうわさ通りすぎるのではないか。

 ついうっかりにじみ出てしまったあきれた表情を引っ込め終わらないうちに、書斎の扉が開く。

 一気に光が差し込んだ先には一人の男性が立っていた。

 ニネットの位置からは逆光で顔が見えないが、彼はこちらを見たしゆんかんに手に持っていた何かを落としたらしい。

 ガシャンという、グラスが割れるような音がしたあと、ぽつりと低い声が届いた。


「ニネット……?」


 ──自分の名を呼ぶ、この響きには覚えがある。

 部屋の明るさに目が慣れたその先の景色に、ニネットは息をむ。

 何かを考えるよりも早く、ニネットはついさっき回想したばかりの少年のおもかげを残す男のもとへ、じゆうたんゆかったのだった。

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