第一章 初恋、交流、それから別離①

 知らせを受けた父親が、仰天して王都からこちらに駆けつけてくるまで、三日かかった。

 その間、彼はただ身を揉みしだくように心配していただけではないらしい。そこは有能な商人として、あちこちに人を遣り、それなりの金銭も使って、事実の調査と今後の采配のために手を回していたようだ。

 自分の力で商会を立ち上げ、一代で大きくしたという父は、素早く回る頭と幅広い人脈を持っているのである。少しふくよかな身体と、いかにも人の好さそうな顔つきから、大抵の人たちは勝手に彼を「温厚な人」と判断するのだが、それだけでは平民の身でここまでやってこられないだろう。

 そういうわけで、屋敷に到着して妻子の無事を確認し泣いて喜んだ時には、もう父のもとには必要な情報がほぼ揃っている状態だった。

 いつ、どのように馬車が襲われたか。捕縛された強盗たちがその後どうなったか。そしてこれが最も重要なのだが、ラヴィたち一行を助けてくれたあの少年が、どこの誰なのかということも。

「隣の領地はオルコット伯爵という方が治めておられるんだけれど、彼はそのご長男で、シリルさまとおっしゃるらしい」

 屋敷の居間で父親からそれを聞き、ラヴィは非常に悔しい思いをした。

 できるなら、その名は本人の口から直接教えてもらいたかった。いや、あそこで気絶するなんて醜態をさらしていなければ、それは十分可能だったはずなのだ。

 名前を聞いたら当然礼儀として自分も名乗ることになるから、絶好のアピール機会だったのに! ラヴィだってその気になればいくらでも可愛らしく礼を取って、「ラヴィ・ニコルソンです、これから末永くよろしくお願いします」とご挨拶できたのに!

 でも、そうか、あの人はシリルさまとおっしゃるのね。シリル、シリル、なんて良い名前でしょう。シリルとラヴィ、悪くない響きだわ。いえ、この上なく納まりがいいわ。

 ラヴィはぽうっと夢心地になって、胸の中でその名を繰り返した。

「普段は王都の寄宿学校にいるんだけど、たまたま長期休みで領地に戻っていたんだそうだ。それで護衛たちと馬の遠乗りをした帰りに、うちの馬車が襲われている場面を見つけて、助けてくれたらしいよ。いやあ、その偶然がなければ、今頃どうなっていたことか、考えるだけで恐ろしいね」

 十代、二十代としゃかりきに商売の手を広げ、三十を過ぎてからようやく得た妻と子どもたちを深く愛している父は、ぶるっと身を震わせた。

 彼自身は金色の目と髪を持っているのに、生まれた子たちが母親の栗色を引き継いだことをなにより喜んだという話だけでも、妻への傾倒ぶりが窺える。

「しかしアンディもミリーも傷一つなくてなによりだ。ラヴィも怖い思いをしただろう。大丈夫かい?」

「わたしは平気です。でもお母さまはまだ大変そうなので、しばらくこちらにいてもらえますか?」

 弟のアンディはもう元気に遊んでいるが、母のミリアムのほうはあれから熱を出して、今も床に伏せっている。

 母はもともと身体の弱い人で、ニコルソン商会の奥方が子どもたちとともにこんな田舎に引っ込んでいるのは、療養のためという理由が大きかった。それなのにあんな恐ろしい目に遭ってしまうとは、なんとも皮肉な話だ。

「ああ、判ってる。ラヴィは何も心配しなくていいよ」

 父も同じようなことを考えているのか、神妙に頷いて請け合った。

「──それで、お父さま」

 ラヴィが真顔になってずいっと身を乗り出すと、その迫力に押されたように父はわずかに上半身を後ろに引いた。

「な、なにかな?」

「シリルさまに、助けていただいたお礼を申し上げるんですよね?」

「もちろん。ただ先方は貴族ということで、いろいろと根回しが必要でね……でも、どっさりとお礼の品物を用意するつもりだから、安心おし」

「そのお品をあちらにお届けする時は、お父さまも行かれるの?」

 ラヴィの問いに、父は首を捻った。

「うーん、できればそうしたいと思っているけど、まずは使者を立てて、あちらに伺ってみないと……貴族の中には、専属の商人しか信用しない、という人も多いしねえ」

「もし行くのでしたら、その時は絶対にわたしも一緒に連れていってください」

「ラヴィを? でも──」

「連れていってください! 必ず、必ず、必ずですよ!」

 強い口調でしつこく念を押すと、父は困惑しながら「う、うん……」と頷いた。



 その後、細々としたやり取りはあったらしいが、父はなんとか伯爵と面会の約束を取りつけて、オルコット邸へ正式に訪問することになった。

 事前に父親から「規模にかかわらず『商人』というだけで見下す態度をとる貴族も多いから、心構えをしておきなさい」と忠告されたので覚悟をしていたのだが、幸いにして伯爵はそういうタイプではなかったらしく、ラヴィと父親はきちんと応接間に通され、客人として遇された。

 オルコット伯爵は押し出しがよく、いかにも貴族然とした雰囲気の男性だった。しかしそれは、こちらを見下したり威張り散らしたりする傲岸さがあるという意味ではなく、誇り高く、品格を滲ませているという意味だ。

 その妻も、優しげではあるが気高さがあり、お茶の入ったカップを持ち上げる指先一つをとっても、見惚れるくらい優雅な動きをする女性だった。貴族として育ったというなら母も同じはずだが、昔から貧乏暮らしだったせいか、彼女は病弱なわりにどこか逞しく、根性が据わっている。それに比べて、まったく苦労をしていなそうなオルコット夫人は、全身から醸し出される空気からして違っていた。

 ……そして、彼らと並んで座っている、シリル少年。

 彼は礼儀正しく、姿勢良く、ソファに腰掛けていた。礼を述べる父に対して、「当然のことをしたまでです」と答えるその顔と態度には、自慢げな素振りもない。父と伯爵が交わす会話に大人しく耳を傾け、求められた時には謙虚に返事をし、そしてたまに、かちんこちんになって固まっているラヴィのほうに視線をやって、微笑みを浮かべる。

 完璧だ。

 こんな、どこもかしこもすべてが優れた少年がいるだろうか。礼節を持ち、勇気があり、正義感が強く、性格が良く、そしておまけに顔もいいなんて。

 そう、十三歳だというシリルは、パッと目を惹くくらい容姿が整っていて、そのくせ愛嬌もある顔立ちをしていた。近寄りがたい美形というわけではないというところもまた、万人に愛されそうな魅力があった。きっと神さまが彼をお造りになった時、ことさらに力を入れたのだろうと思わせる天性のものを備えている。

 改めて彼と向かい合ったラヴィは、その事実を改めて突きつけられ、すっかり取りのぼせてしまった。

 はじめて貴族というものを目の当たりにして、気圧され、萎縮していたというのもあっただろう。精一杯おめかしをし、メイドに頼んで栗色の髪を凝った形に編んでもらった自分が、ひどく場違いな気がして恥ずかしくなるほどに。

 最初に「ラヴィ・ニコルソンです」と挨拶をしてから、それきり一言も出せていない。本当は、助けてもらったことのお礼を言って、自分の宣伝と売り込みをし、この恋心をありったけぶつけるつもりでいたのに。

 最初からずっとそつのない対応をしていたオルコット伯爵夫妻は、ラヴィの母が元は貴族子女で、子どもたちにも下位貴族程度の礼儀と教養を身につけさせていると知ると、「ほう」と目を瞬き、はじめて興味らしきものを覗かせた。

 と同時に、彼らの周囲に張り巡らされていた透明な壁も、少しだけ薄まったような気がした。表情と態度に出さないだけで、やはり初対面の平民の商人に対して、警戒心を抱いていたのだろう。

「では、あなたもお勉強をしているの?」

「は、はい……」

 せっかく夫人が水を向けてくれても、ラヴィは消えそうなくらいの小さな声で返事をするのがやっとだった。

 自分が情けなくて、泣けてきそうだ。俯きがちになり、奥歯を噛みしめる。

「何が得意なのかしら。刺繍? 楽器?」

「あ、あの……計算、とか」

 オルコット夫人は、あら、という顔をした。

 ラヴィはその反応を見て、どうやら貴族女性にとって自分の返答はあまり一般的なものでも、好意的に受け止められるものでもなかったらしい、ということに気づいた。

 ──失敗した。

 一瞬室内に満ちた微妙な沈黙に、顔を青くして身を縮める。

 が、その気まずい空気は、小さく噴き出す音で、さあっと霧散した。

「……そうか、そういうところはやっぱり、名高いニコルソン商会のお父君の血を引いているんだね。僕はどちらかというと、勉強よりも身体を動かすほうが好きだけど」

 にっこりしながらそう言うシリルに、伯爵夫妻の表情もふっと和んだ。

「それは決して大きな声で言えることではないのだがね」

「そうですよ。あなたったら、馬や剣の稽古にばかり夢中になって」

 窘めるような言い方だが、彼らが息子に向ける目は愛情と信頼に溢れている。この二人にとって、シリルはなによりも自慢の宝なのだろう。

 シリルは両親に「努力します」と澄ました顔で答えてから、ラヴィのほうを向いた。

「強盗に遭遇するなんて、大変な経験だったね。あれから、怖い夢を見たりしないかい?」

「は、はい……! あの時は助けていただいて、本当に、ありがとうございました」

 夢に出てくるのはあなたのことばかりです、と内心で続けながら、ラヴィは急いでぴょこんと大きく頭を下げた。何度も家で練習をした、可愛くも淑やかな作法とはかなり違ってしまったが、シリルは優しく目を細めた。

「そんなのいいんだ。強盗を捕まえたのは護衛たちであって、僕ではないしね。残念ながら僕はまだ、稽古の時以外で剣を使うことは許されていないんだ」

「シリルさまは、大人になったら、騎士さまになるのですか?」

 貴族世界のことなどほとんど知らないラヴィがそう問うと、隣の父が「こら、ラヴィ」と慌てて止め、シリルはきょとんとして目を瞬いた。

「──あははっ」

 そして、軽く声を立てて明るく笑った。今まで一貫して「礼儀正しい少年」を通していた彼が、ふと見せた素の顔だった。

「そうだなあ。それもいいかもね」

 伯爵夫妻が何も言わず苦笑しているのは、シリルがあくまで冗談めいた言い方をしたからだろう。オルコット家の一人息子である彼の将来が今の時点ですでに決まっているということを、ラヴィはまだ理解していなかった。

「ねえラヴィ、よかったら僕と友達になってくれる? なにしろこのあたりには同じ年頃の子があまりいなくって。寄宿学校が長期休みに入るたびここに帰ってくるんだけど、いつも何もすることがなくて困っていたんだ」

 ラヴィはびっくりした。

 オルコット邸に着く直前までは、どうやったらシリルともっとお近づきになれるか真剣に考えを巡らせていた。なんなら、プロポーズの言葉まで物語から三つ四つ拝借して、いかに滑らかに口にするか、ひそかに特訓していたくらいだ。

 しかし、実際にここに来たら、そんなものはあっという間に吹っ飛んでしまった。

 シリル一家とラヴィとは、生まれ持った価値観、そもそも土台となっているものが完全に別物なのだ、と気づいたからだ。こればかりはお金のあるなしとは関係ない、ということも。

 貴族と平民との間には、おそろしく深い溝がある。その溝のこちら側からは、手を伸ばすことすら、たぶん容易なことではない。思い込みは激しいが、父に似て頭の回りも速いラヴィは、不幸なことに訪問からわずかな間のうちに、そのことを理解してしまっていた。

 それが、シリルのほうから「友達に」と言われるなんて!

「あ、あの、いいの……よろしいのですか?」

「僕からお願いしているんだよ。もうじき休みが終わって、寄宿学校に戻ることになっているから、まずは僕が手紙を書くね。ラヴィも、周りで何か面白いことが起きたら、僕宛てに手紙をくれるかい?」

 シリルの提案に、オルコット夫妻はどちらも反対しなかった。

 ラヴィがまだ幼い子どもで、「手紙をやり取りするくらいなら」という気持ちがあったかもしれないし、いずれ伯爵家当主となる息子が平民のことを多少知っておくのもいい、という思惑もあったかもしれない。

 しかしどういう事情であれ、これは千載一遇のチャンスだ。

 ラヴィは隣に座る自分の父親のほうを見なかった。もしも父が困った顔をしていようと、この話を断るつもりは毛頭なかったからである。

「はい!」

 ぱあっと喜色満面で、頷いた。

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