プロローグ

 けたたましい音を立てて、馬車が疾走している。

 内臓がすべて外に飛び出てしまいそうなほどの激しい振動で、小さな身体をガクガクと揺さぶられながら、ラヴィは隣に座る母親に強くしがみついた。

「儚げな美人」と評判の高い母は今、その整った顔を恐怖で引き攣らせ、ラヴィの肩に片手を回し、もう片手で幼い弟をしっかりと抱き込んでいる。ラヴィたち姉弟は彼女とそっくりな栗色の瞳と髪を受け継いだので、そうして三人でくっついていると、どれが誰の頭なのかよく判らないくらいだ。

 二人の子は顔立ちもそれぞれ母親似だが、儚げなところだけは似なかったらしく、ラヴィは「陽気で活発そう」と言われ、弟のアンディは「静かで理知的」などと言われる。

 その印象どおり、まだ二歳ながら賢い性質の弟は、ぱっちりと目を開けてはいるがこの大きな揺れと音に泣きもせず、母の腕の中でじっと身を固くしていた。

「お母さま、気を強く持ってくださいね」

 八歳のラヴィとて、今の状態が非常によくないということは判る。

 ガラガラと全速で回り続ける車輪の音にまぎれて聞こえてくるのは、なんとも野蛮で粗暴な、男たちの大音声だ。

 歓声にも似た猛々しい雄叫びは、興奮と愉悦を隠してもいなかった。そこに緊張がほとんど混じっていないのは、それだけこちらを侮っているということでもある。

 無理もない。ラヴィたちが乗っている馬車は個人所有のもので、つまりそれは裕福さの象徴だ。そして車体に家紋がついていないから、乗っているのは貴族ではないと判る。

 制圧が楽な上に儲けも大きいとなったら、馬車強盗にとってこんなに嬉しい獲物はないだろう。

「ええ、ええ、ラヴィ、判っていますとも」

 蒼白になった母親は、震える手で我が子二人を引き寄せて、悲壮な表情で頷いた。

「あのような卑しい賊どもに、私にもあなたたちにも、指一本触れさせやしません。追いつかれる前に、親子三人で神の御許へ参りましょう」

 ──あらら。お母さまったら、もうすっかり自害するつもりでいるわ。

 怯えつつも毅然とした母の態度を見て、ラヴィは眉を寄せた。

「気を強く持って」と言ったのは、捕まった後しかるべき対応をするための心の準備を、という意味だったのだが、彼女は捕まる前にすべてを終わらせる決意をしているらしい。

「あのねお母さま、強盗といっても人間なのだから、対話くらいはできると思うの。この場合、まずは交渉や取り引きをしてみるのが最善──」

「いいえ、あのような連中、人の言葉も通じないような、けだものにも劣る畜生に決まっています。私の可愛い子どもたちが、狼藉者どもに手足をちぎられ臓物を引きずり出されるようなやり方で嬲り殺されるなんて耐えられない。その前にこの母が、綺麗に死なせてあげます」

「なにもわざわざそんな物騒な想像をしなくても……だってお母さま、この馬車の中にある金目のものといったら、せいぜいお洋服とか装飾品とか、それくらいよ? それなら、わたしたちを人質にして身代金を取ったほうがいいと、あちらだって考えるのではないかしら」

 なにしろラヴィの父は、今を時めく「ニコルソン商会」の会長である。このディルトニア王国で、数年前から一気に名を広めたその商会の羽振りの良さについては、王都の子どもでも知っているほどだ。

 強盗たちにそれを話せば、さすがにすぐ殺されるということはないだろう。仕事の都合で王都にいることのほうが多い父親だが、妻子を溺愛している彼が自分たちを見捨てるはずもない。

 きっと、身代金を用意するなり、あらゆる手を使って捜索するなりしてくれるはず。

 そうやって時間を稼いで機会を窺い、できれば相手の隙をついて逃げ出す算段を考えましょう──とラヴィとしては言いたかったのだが、母はますます青くなって短い悲鳴を上げた。

「服と装飾品……! 身ぐるみ剥がされて辱めを受けるくらいなら、今すぐにでも母は喉を突いて死にます! それが貴族女性の誇りというもの」

「今のお母さまは、まったき平民ではないですか」

 母は「元・貴族子女」である。彼女の実家は一応爵位持ちだったが、困窮して没落した挙げ句、領地も貴族籍もすべて手放すことになった。そうして生きる道を必死に模索していたところを父に見初められ、結婚したのだ。

 暮らしぶりは以前よりも豊かになったくらいだろうが、平民であることには違いない。

 しかし幼い時から身についたものというのはそうそう変わらないのか、母はたまに面倒くさい自尊心というものに固執する。しかも、こういう「とりあえずそれは脇に置いておこう」という事態に直面した時に限ってだ。

「そんなことを言ったら、お父さまが涙の海に溺れてしまいますよ。ね、お母さま、ここはなんとしても、三人で生きましょう」

「ええ、ラヴィ。三人で仲良く天国へ逝きましょうね!」

「そっちじゃないです」

 強盗たちの声と蹄の音がどんどん近づいてくる。御者はなりふり構わず馬を走らせているが、追いつかれるのは時間の問題だろう。

 しかしこの調子だと、それ以前に実の母の手によって強制的に人生を終了させられそうだ。天国というのがどんなに素晴らしいところでも、ラヴィはまだそちらへ行きたいとは思っていなかった。

 母親はぼろぼろ泣きながら、聖句を唱え始めている。その腕の中で、幼い弟が目を大きく開けてラヴィをじっと見つめていた。おまえがどうにかしろ、と訴えるように。

 もちろんだ。まだたった二年しか生きていない彼の命のともしびを、こんなところで消させるわけにはいかない。ラヴィがなんとかしなければ。

 考えろ、考えろ、どうすれば──

 その時だ。

 ヒヒーン! という馬の甲高いいななきが響き渡った。

 笑い含みだった下品な大声が、一転して、驚きと焦りに占められた喚き声に変わった。

 それとともに、剣を打ち鳴らす金属音と、複数の蹄の音が入り乱れて聞こえた。馬車の中にいても緊迫した雰囲気が伝わり、ラヴィたちは三人でくっついて身を縮めた。

 母がおそるおそる手を伸ばし、窓にかかっていたカーテンをそっとめくる。しかし馬車はまだ猛スピードで走っている上、外はもうもうと砂煙が流れているので、ほとんど視界がきかない。

 耳を澄ますと、強盗たちの荒々しい罵声だけでなく、「あちらに回れ」「逃がすな!」と命令を下す張りのある大声も耳に届いた。

「助けが来たんだわ……」

 ラヴィはそう呟いて、両手を強く握り合わせた。

 その手はぶるぶると小さく震えている。いいや本当は、最初からずっと全身が震えていたのだ。

 この絶体絶命の状況で、少女であるラヴィが恐ろしくないわけがない。一生懸命冷静でいようとしたけれど、実際は今にも泣き出しそうなのをこらえるので精一杯だった。

 しばらくして、馬車が徐々にスピードを落とし、ギッという音とともに停止した。いつの間にか、外の怒鳴り声も止んでいる。

 固唾を呑んで息をひそめていると、馬車の扉がコンコンと軽く叩かれた。

「……大丈夫ですか?」

 扉を開けたのは、人相の悪い荒くれ者ではなく、厳つい屈強な兵士でもなかった。

 ラヴィより少し年上くらいの、少年だった。

 まだ華奢と言ってもいい細い体躯は、一目で上等と判る洋服に包まれている。その身なりと品の良さ、洗練された仕草は、明らかに彼が貴族の子息であることを示していた。

 シルバーグレーの髪を柔らかく風になびかせ、心配そうにこちらを覗き込む青い目は、頭上にある空のように美しく澄んでいる。

「賊は取り押さえましたので、ご安心ください。お怪我はありませんか」

 家紋のない馬車に乗っているのだからラヴィたちが平民であることは判っているだろうに、非常に丁寧な口調で、しかも相手を慮る優しげな響きがあった。

 もちろん強盗たちを捕らえたのはこの少年ではなく、彼に従う大人たちだったのだろうが、それでも先頭を切って扉を開け、安否を訊ねてくるところに、彼の責任感の強さと誠実さが垣間見える。

「あ……ありがとうございます。本当に、なんとお礼を申し上げていいか」

 母は涙ながらに少年に向かって礼を述べ、娘にもそうするよう促したが、ぽかんと口を丸く開けたラヴィは、両手を胸の前で握り合わせたまま、頭を下げるどころか動くこともできないでいた。

 実を言うと、少年の言葉も、母の声も、ほとんど耳に入っていなかった。

 だってその時、ラヴィの頭の中では盛大に鐘の音が鳴り響いていたからだ。リンゴンリンゴンと痺れるくらいの大音量にかき消されて、そりゃ他の声や音なんて、何も聞こえるはずがない。

 これは始まりの鐘だ。

 なんてこと、なんてこと。

 ……ラヴィは八歳にして、自分の運命に巡り合ってしまった。

 これが恋というものか。しかも最初で最後の恋だ。そうに決まっている。だってこんなにも頭と心臓がバクバクして、くらくらと目が回って、世界中が光り輝いているのだから。

 だとしたら、そうよ、だとしたら。

 わたし、なんとしてもこの人と結婚しなくっちゃ……!

 思い込みの激しい性格のラヴィは、そう決心すると同時に気を失った。

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