夢の中の天使

とうふとねぎの味噌汁

第1話

いつもの病室。世間は夏休みで、海だ花火だと浮かれているが、僕はベットから天井を見上げることしかできない。三日月の細い明かりが、僕のベットをか弱く照らす。やけに鼻に刺さる消毒液の匂いと、清潔すぎる病室の白さにはもう慣れてしまった。僕は昔から体が弱く、重度の喘息持ちだった。最近は体の調子がよく、今年の夏は家族で過ごせると思っていたのに。僕の呼吸が苦しくなるたび、必死に介抱してくれた母さん父さんの顔が浮かぶ。

「迷惑、かけちゃったな……」

 点滴がぽたりと落ちた。

 ドアが静かに開き、看護師さんが様子を見に来る。

「優弥くん、調子はどう?」

「大丈夫です」

「そう、良かった〜!なにかあったらすぐに呼んでね。おやすみ」

 看護師さんが電気を消して病室から出ていく。昨日は苦しくてあまり寝ることができなかった。薬で楽になっているとはいえ、体調はあまりよくない。疲れと薬から、眠気が襲ってくる。僕はそのまま寝てしまった。

 ふと、目が覚める。月明かりがおかしいくらい明るかった。いつもの病室だが、酷く静かで、誰の気配もない。白い腕に沢山刺さっていたはずの点滴もなく、呼吸のしにくさもない。

「また、この夢か……」

 僕は逃げる準備をする。いつからか、体調が悪くなってから病院で寝ると、同じ夢を見るようになった。自分の体は思い通りに動き、走っても苦しくならない。虚弱な僕でも普通の人と同じになれる。でも、この世界には人間が誰もいない。いくら走り回れたって、一人ぼっちは寂しい。いつものように時間が来るまで、本でも読んでいようと思ったその時、カーテンが激しく揺らめいた。

「やぁ、こんばんは!」

 窓辺に一人の少女が立っていた。肩まである黒髪は鮮やかに艶めき、真っ白なワンピースを着ていた。なんだか少し懐かしさを感じる。月明かりが彼女を照らして、白く輝いていた。

「え、誰?」

「もう、失礼だなぁ。挨拶されたら挨拶を返さないと!」

「あ、ごめん。こんばんは」

 おかしい。ここには僕以外の人間はいないはずなのに。僕は少し少女から距離を取る。

「よし! それで、私が誰かっていう質問に対してなんだけど、実は私もわからないんだよね。なんか記憶がなくって、気づいたらここにいたの」

 少女は元気に困ったように笑う。

「ここは僕の夢だから、君は僕が作り出した何かになるんだけど」

「え、じゃあ君が私のお母さんなの? んー、でもなんかしっくりこない……」

 少女は腕を組み、眉間に皺を寄せた。表情が豊かで、見ていて飽きない。

「わかった! 私、宇宙人なんだ! 今までの記憶がないのは、地球に着陸する時に失敗したからで、その時に宇宙人パワーで君とリンクしちゃったんだよ! それで君の夢の中にきちゃったんだ!」

 少女はうんうん頷きながら一人で納得している。そしてこちらに手を差し出して言う。

「私の名前は澪! 私が何者かという問題も解決したし、ここには君と私くらいしかいなさそうだし、そろそろ君の名前を教えてくれないかな?」

 澪という名前に不思議と親しみを感じた。敵ではなさそうなので、僕は素直に教えることにした。

「優弥だよ。よろしく。いきなりなんだけど、澪さん、もうそろそろ時間が来るから、逃げなくちゃ」

「え?時間ってなんの——」

 突如、放送がかかる。

「コードホワイト、コードホワイト。関係者は一階の受付に来てください」

「一回の受付か。なら屋上が一番遠いかな」

 もう始まってしまった。僕は彼女の手をとって、屋上に向かって駆け出す。

「え、ちょっ、わけわかんないんだけど!」

「ごめん、もう説明する暇がないから」

 ここから屋上に行くには非常階段から行くのが一番近い。彼女は戸惑いながらも一緒に走って逃げてくれた。非常階段を駆け上がる。

「やっとついたー! 階段駆け上がるの疲れたあ!」

 彼女は、息を整えながら背伸びをする。僕は急いで屋上のドアの鍵を閉めた。

「で、どうしてこんなに急いで屋上に来たの?」

「いきなりごめんね。口で説明してもいいんだけど、見てもらったほうが早いと思う。今回は一階の受付……。だから、この病院の玄関のあたりを見てほしい」

 彼女は不思議そうに、フェンスから玄関を覗き込んだ。

「え、何あれ!あの、ぐちゃあっとしてるやつ!」

 正面玄関の前にはスライムのような化け物が大量にいて、病院に侵入してきていた。

「あれはね、夢が覚めそうになったら出てくる化け物だよ。あれに捕まって、殺されてしまったら現実でも死んでしまう。だから、僕らは僕が起きるまであれから逃げなきゃいけないんだ」

正確には死んでしまうかはわからない。でも実際死にかけたから、死ぬのだと思う。

「それは大変だ! どうしよ、何すればいい?」

 彼女は慌てていたが、そこまで怖がってはいない。

「強いね。怖くないの?普通は頭真っ白になると思うんだけど」

 思わず聞いてしまった。何も変わらないのに。

「んーそりゃ怖いけど。でも怖がってたって何にもなんないし。それに、私は宇宙人だから、慣れてるんだよね!」

 彼女が笑いながら振り返り、驚いた顔になる。

「え、ちょ、なんか、ドアから漏れてるんですけど!」

 ドアを見ると、ドアの隙間から怪物が滲み出でいた。

「うわ……」

「やばい! やばいよ! ってここ屋上だ! 逃げ場ないじゃん!」

 今回はギリギリかもしれない。ひとまず屋上のドアに寄りかかって押さえておく。

「こうやって押さえておくから、澪さんは遠くに行って。多分もうすぐ終わるから、大丈夫だと思う。それでも、もしダメだったら竪樋伝って逃げて」

「え、私だけ逃げるわけにはいかないよ! 後、さん付けじゃなくていいよ!」

 彼女は僕の隣に来て、ドアを一緒に押さえる。

「あ、わかった! ここは優弥の夢なんでしょ?病院も、あの化け物も優弥が作り出したんでしょ? じゃあ、頑張れば消せるんじゃない?」

 首を傾げて彼女は言った。

「それは何度もやったけど、無理だった。一度出てきてしまったものは消せないみたいなんだ。」

 背中から押されているのがわかる。このドアが吹き飛ばされるのも時間の問題だ。

「そっかあー。あ、じゃあさ、私を飛ぶようにすることってできない?」

「え?」

「羽とかつけてもいいから! ほら、早く!」

「無理だよ!そんな……」

「無理じゃない! ほら、さっさと考える! やってないのに無理とか言わない!」

 無理だと思うが、彼女の勢いに押されて想像してみる。彼女が逃げられますように。彼女の真っ白なワンピースに似合うように真っ白な羽をイメージする。飛びやすいように大きめの、天使のような翼を彼女に描いた。

「わぁ! 羽が生えてる! すごい! すごいよ!」

 信じられないことに、彼女の背中から、本当に羽が生えていた。頭に冠をつけたら、完璧な天使に見えるだろう。

「本当にできた……」

 彼女は僕の手を取って走る。ドアがこじ開けられて、怪物がドロドロと僕たちを狙う。

「せーのっ!」

 彼女が両手で僕の手を持ち、地面を蹴る。彼女の羽が大きく広がり、空に向かって羽ばたいた。

「やった! 飛べた!」

 彼女は嬉しそうに空を舞う。僕をぶら下げたまま。

「すごい、飛んでる……」

「出来たでしょ。ちゃんと信じたらできるんだよ!」 

 彼女はドヤ顔で得意げに言う。なんだか彼女が言うと、本当になんでも出来てしまいそうだ。

「あれ、なんか外ぼやけてない?」

 外がぼやけて、紺碧が近づいてくる。

「ああ、もう終わりだね」

「おお、もう終わりかあ」

 なぜか彼女は少しつまらなそうな顔をしていた。

「なんで命の危険があったのに、名残惜しそうなの……」

「だって、楽しかったんだもん! 人と話すの久しぶりな気がするし。空も飛べたし! なんでも楽しまなきゃ!」

 色々巻き込んでしまって、少し申し訳ないと思っていたのに。そんなこと関係ないというように、彼女は笑う。彼女からこぼれ落ちてきた白い羽が、月明かりを反射して、この世のものとは思えないくらい綺麗だった。

 眩しい朝日が、僕を起こす。急に体がだるくなる。何にも出来ない現実に戻ったのか。いつもは安心するはずなのに、今は少し虚しかった。

 ドアが開き、看護師さんが入ってくる。

「優弥くん、おはよう。体調はどう?」

「おはようございます。大丈夫です」

「何か困ったことがあったら、言ってね」

「はい、ありがとうございます」

 僕が一番初めにあの夢を見た時。化け物からうまく逃げられず、死ぬ間際で目が覚めた。いつも以上に息ができず、起きてすぐ気を失った。目を開けると、沢山の看護師と医師に囲まれていて、ICU室にいた。本当に瀕死だったらしい。それ以来、僕の看病はより丁寧になってしまった。迷惑ばかりかけてしまっている。生きているだけなのに。

「今日優弥くんのお母さんが、お見舞いに来てくださるそうよ」

 僕の点滴などをチェックしながら、にこにこと看護師さんが言う。

「……。そうですか。嬉しいです」

 看護師さんが、少し痛そうな、寂しそうな顔で言う。

「優弥くん、子どもは親に迷惑をかけるものなの。だから、そんなに気にしなくていいのよ。元気になることを一番に考えましょう」

 そんなに顔に出てしまったのだろうか。

「はい。ありがとうございます」

「じゃあ、また朝食の時に来ますね」

 看護師さんが部屋から出ていく。一気に病室が白くなる。何もない、僕みたいだ。生きているだけで迷惑をかけるが、死ぬ勇気もない。死ぬのが怖いというより、あんなに必死に看病してくれた親、病院の方々の想いを踏みにじってまで死ぬ勇気がない。自分の意思がなく、流されるままに生きている。息が苦しくても、自分一人で生活ができなくても、生きている。その意味がわからない。見慣れている天井に向かって右手を伸ばす。握ったり開いたりする。運気が上がる気がする。生きている気がする。

 小さい頃は、車椅子に乗り、外に出るのが好きだった。どこにいても僕のことを見守っている太陽と、永遠に続く空を見るのが好きだった。自由だったから。いつか、空を飛べたらいいなと思っていた。元気に駆け回る同い年くらいの子どもでも、車椅子の僕でも、空は平等だったから。

「……」

 そうか、僕は夢が叶ったのか。あまり実感がない。彼女にぶら下がってたからかな。でも、確かに飛んだ。気持ちがよかった。空が近くて、地面が遠くて、月に行けそうだった。手を伸ばせば、届きそうだった。初めて夜と月が綺麗だと思った。

 ドアがノックされ、母さんが入ってくる。

「優弥、体調はどう? 苦しくない?」

「大丈夫だよ、母さん」

 少しほっとしたようだが、僕の腕に繋がっているたくさんの管を見て、辛そうな、申し訳なさそうな顔をした。罪悪感が腹の底に積もっていく。

「優弥が元気でよかったわ。父さんも来たかったようだけど、会社休めなかったみたい。お見舞いに、パイナップル買ってきたわよ」

カットされたパイナップルが艶々と光っている。

「ありがとう……。そんな、来なくていいよ。退院したらまた会えるんだから。迷惑かけちゃってごめんね。今回は保った方だったんだけどな」

「いいのよ、優弥が無事なら。また元気になったら、お父さんも一緒におばあちゃんの家でも行って、ゆっくりしましょう」

「うん」

「本当はもう少しいたいのだけれど、職場他の人に任せて抜けてきちゃってるし、優弥もゆっくりしたいだろうから、もうお暇するわね」

「うん。気をつけてね。本当にありがとう」

「こちらこそ、優弥の元気な姿を見れて安心したわ。じゃあね」

 ドアが閉まり、母さんが出て行く。本当にいい親だと思う。僕のことを看病して、僕の病院代も稼いで、ゆっくりする暇もないはずなのに。倒れて病院に入院するたび、どちらかが絶対に来てくれる。こんな僕の為に。小さい頃、熱を出し寝ていたらドアがうっすら空いていて、話し声が聞こえたことがある。子どもを寝かしつけた後、大人たちが夜に話しているのが羨ましくて、耳を澄ましてしまった。話し声ではなく、母さんの啜り泣く声だった。

「どうしましょう、優弥がまた熱を出したの。喘息も酷くて。毎回毎回辛そうなの。優弥の体が弱いのは、産み方が下手だった私のせいだわ!」

「そんなことないだろう。優弥の体が弱いのは、誰のせいでもない」

「でも、どうしたらいいのかわからないの……」

「どうするも何も、あんなに小さな体で生きようと頑張っているんだ。僕たちは一生懸命支えるしかないじゃないか」

 熱で朦朧とした状態だったから、完璧には覚えていないけれど、自分のせいで母さんは泣いているんだということだけはわかった。熱の辛さなのか、喘息の辛さなのかわからないが、涙が溢れて、止まらなかった。しばらく経ち小学校高学年に上がった時、ずっと車で二時間かけて大学病院に行っていたが、不便なので大学病院の近くに引っ越すことになった。大きくなったらそれなりに体力もつき、健康になるかもしれないという両親の期待を、僕は見事に打ち砕いた。新しく通うことになった学校では、転校生というだけで目立つのに、更に病弱設定も加わり、好奇の視線に晒されるようになってしまった。しかも、「あいつだけ体育免除されてるのは親が先生と親しいからだ」「あいつに近づいたら、菌がうつって病気になる」という噂まで流れてしまい、本当に肩身の狭い思いをした。親にバレないように、友達ができたと話していたが、そんなもの、生まれてから僕にはできた試しが無かった。

 そこから、化け物の夢を見るようになってしまった。化け物の夢は、僕の精神が不安定な時に見てしまうらしい。喘息が悪化して、倒れてしまった時や学校で嫌なことがあった時、嘘をついてまで親を安心させた時。死ねない僕には逃げ場所がない。全て放り投げて楽になりたいのに、そんな覚悟もない。フォークに刺されたカットパインの黄色い果汁が、罪のない血に見えた。

 僕は、無事退院した。相変わらず走れ回れはしないけれど。そして、入院中に怪物の夢も沢山見た。何故か必ず彼女も夢の中にいて、背中に羽根を描くのはもうプロレベルになってしまった。飛び続けるのは疲れるだろうから、次はペガサスでも作ろうと計画している。最近体調が良く、久しぶりに家に帰ることができた。家で夢は見ないだろうと考えたが、何故だか寂しくなった。命の危機に晒されているのにおかしいと、気のせいだと思うことにした。

 家に着いた安心からか、どっと疲れが押し寄せてきた。親も心配しているし、自分のベットに横になった。儚い蝉の鳴き声と、家の匂いがする。ベットの横から見る窓越しの外は珍しく空色だった。

「おーい、起きてー!」

 なんだかうるさい。目を開けると、誰もおらず、声だけが聞こえる。と、思ったら彼女が目の前に浮かび上がってきた。

「うわっ」

 慌てて飛び上がる。体が浮きそうなくらい軽かった。

「せっかく起こしてあげたのに、うわって失礼だな!」

「ごめん、でもいきなり出てきたよね。びっくりしたよ」

「え、さっきからいたけど?」

 彼女はきょとんとしてから、少し苦そうな顔をしたように見えた。

「あれ、そうだっけ」

 寝ぼけていたのかもしれない。

「あっ、そんなことより、外見て!」

 部屋の窓から外を見る。いつもは深い紺色なのに、透き通った空色だった。おかしいくらい大きい満月が、晴天に浮かんでいた。

「え、夜じゃない……」

「しかも〜! 場所がいつもと違います!」

「あっ、病院じゃない、ここ部屋だ」

 彼女は楽しそうにくるくる回りながら笑う。

「正解〜! 何故だかわからないけれど、今日はいつもの病院じゃなかったんだよね。なんでだろ?」

「何故だろうね。でも、一つ困ったことがある。いつもの病院のコールが無いと、どこから怪物がやってくるかわからない」

「それやばいじゃん! え、外出て見張っとく?」

「いや、見えないよね。高い所からじゃ無いと」

「そっか! あ、羽くれたら見張れるよ!」

「確かに」

 僕は彼女の背中に羽を描いた。

「おおー! もうお手のものだね」

 彼女は窓から空に羽ばたいていった。

「ドアから出ればいいのに……」

 僕は一階に降り、玄関から庭に出た。彼女に羽を生やすことができるなら、ペガサスも作れるだろうと。イメージをするんだ。きめ細かな毛がしっとりと艶めいている。頭にはドリルのような硬いツノ。大きく、ふわふわの白い羽。出来るだけ鮮明にイメージしたのだが、作れなかった。命を創り出すことはできないようだ。次に置き物に羽を生やそうとすると

「おーい、優弥ー、きてるよ、怪物がー」

 と大声で叫ぶ彼女の声がだんだん近づいてきて、手を差し出された。手を取ろうとして、空を切ったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。怪物が動く時のぐちゃっとした音がする。

 僕は慌てて彼女の手を取り、空に向かった。

 下を見ると、いつもの倍以上のスライムが僕たちを狙って円形に近づいてきていた。

「量やばくない!? なんで!」

「地上にいたら逃げ場がなくなって、死んでたね」

 僕を手で運びながら、器用に彼女は胸を張る。

「私に感謝してね!」

「羽生やしたの僕なんだけど」

「そういう細かいことは気にしないの! ところで、どこまで行けばいい?」

「うーん、高いところに行きたい。ここら辺で一番近い建物は……病院だね」

「了解。結局病院に行くんだね……」

 先程から彼女の笑顔が少し曇っている気がする。

 飛び続けること五分。僕らはいつもの病院の屋上に着いた。

「着いたあ」

「お疲れ、ありがとう」

 彼女は伸びをして、羽を畳んだ。

「ねえ、何かあったの?」

「え! 何もないよー! やっぱ飛ぶのって気持ちいいけど、疲れるねー」

「そうじゃなくて! うまく笑えていると思っているの? それに僕が気づかないとでも?」

「あははは……。やっぱり優弥は変わらないね」

 まるで僕のことを昔から知っているかのような話し方。懐かしむように細められた目。辛いはずなのに、我慢して笑おうとする。僕はこの顔を知っている。  

「澪姉ちゃん……?」

 驚いたような顔をしてから、破顔した。

「覚えてくれているとは思わなかったな!」

「覚えているに決まってるでしょう。成長していたから、すぐには気づかなかったけど……」

 澪姉ちゃんは、僕が保育園児だった頃、よく病院にいたニ歳くらい歳の離れた、お姉ちゃんだった。年が近いことや、二人ともずっと病院にいたこともあり、仲良しだった。

「こんなに、優弥はおっきくなって! 私は感動しました!」

「聞きたいことは沢山あるけど、どうして、どうして、ここにいるの。澪姉ちゃんは、もう……」

 暗い顔をする。

「そうだね、私は死んじゃった。先天性の心疾患で」

「じゃあなんで!」

「それは、優弥が助けを求めたからだよ」

そんなはずはない。誰かに助けを求めた覚えなんて……。

「私、しばらく私の大好きな人達を見守ってから成仏しようと決めたの。その人達が私の短い人生を幸せでいっぱいにしてくれたから、恩返しがしたくて」

 静かに話し始める。

「でも、見守っていたら、本当に優弥が辛そうで。話しかけに行きたいけど、もう死んでるから話せないし。そこで、あなたが見る悪夢に干渉したの。夢の中だったら、会えそうだったから。まあ、少し失敗して、自分の記憶が無くなっちゃてたんだけどね」

「そうだったんだ……」

「でも、もうそろそろ時間だね。たまに透明になるし。もうすぐしたら消えちゃうな」

彼女は自分の手足を見る。手を握ったり閉じたりする。

「時間って何だよ。ずっとここにいてよ。現実に戻りたくないんだよ。なんで死んじゃったんだよ。僕より生きたかったはずなのに。澪姉ちゃんが退院したって、元気になって聞いたから、生きようと思ったのに。それなのに、手術に見落としがあって死んじゃったってなんだよ!」

 泣き崩れた僕を、澪姉ちゃんは駄々っ子をあやすみたいに、頭を撫でる。

「そんなこと言わないの。お医者さんも頑張ってくれてたし、きっとそういう運命だったのよ」

「運命って何? そんな人間の命って軽くないだろ!」

澪姉ちゃんはニヤッといたずらをする時みたいに笑う。

「あら、わかってるじゃない。あなたの命も、そんなに軽くないのよ。そして、これからは楽しんで人生を生きることね! 私は確かに短い命だった。でも、短い人生の何が悪いの? 重要なのは、どれだけ充実したか、密度が濃いかだよ」

「でも、でも、そんなこと言ったって……」

「そんなに深く考えなくていいの。今日のご飯は好物のハンバーグだったなとか、天気が良くて、空が綺麗でもいいし、なんでもいいの。何か楽しいことを少しずつ見つければいいだけ。宇宙人の澪といるのは、楽しかったでしょう?」

「楽しかったけど、でも、また澪姉ちゃんと別れたくない……。もう、あんな思いはしたくない……」

 彼女は、嬉しそうに、少し寂しそうに笑う。手足がもう透けてきている。

「大丈夫! 今は、生きることが辛いかもしれない! でも、絶対生きてて良かったって思える日が来るから!」

「待って、行かないで……」

僕の手をぎゅっと握って目を合わせてくれる。

「辛くなったら誰でもいいから相談するんだよ。誰にも言えなかったら、私のことを思い出して。話せはしないけど、見守ってるから」

 もう肩までしかない。

「うん……」

「今まで本当にありがとう、楽しかったよ。笑って生きてね!」

 彼女は消えた。綺麗にきらきら消えていった。

 外でぐちゃぐちゃ生きていた化け物も消えた。

 世界が崩れていく。

 病院の屋上から世界が壊れていく様を見るしかない。空が崩れて、絵の具のついた筆を洗うバケツのように色が混ざっていく。病院の周りの建物も空に吸い込まれていく。病院も少しづつブラックホールに巻き込まれるみたいに砕けていく。自分ももうそろそろ巻き込まれる。

 もう、この夢を見ることはないだろう。夢でも彼女に会えたことは、生きていてよかったと本当に思う。彼女はいつも僕を支えてくれる。彼女の分まで生きようとは思わない。自分で、精一杯生きてみようと思う。

 涙が空にのみこまれそうになった時、意識が途絶えた。

 夢が覚め、体が重くても、息がしにくくても、僕は空目がけて大声で笑った。

 

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