8/3 その二

 その後、泰輝くんの絵を知らないというふたりに、わたしは泰輝くんの絵の素晴らしさを十分くらいかけてみっちりと説いた。

 同い年なのに、自分のことをまったく知らない相手。そんな相手と話す機会なんて普段は滅多にないから、そこからまず新鮮で、自分がどう思われているのか気にしなくていいから、ものすごく気が楽だった。

 そして素晴らしいことに、泰輝くんの絵の素晴らしさが伝わったみたいで、ふたりは終始圧倒されていた。

 わたしはふたりと別れて、誇らしい気持ちで家の中に戻ってくると、一直線に泰輝くんのもとへ向かった。泰輝くんは、茜色に染まった縁側にいた。そこに干されている今日の絵を、そばでじっくりと見ていた。


「ねえ、泰輝くん、聞いてっ。今、面白いこと聞いちゃったんだ」

「ふうん」


 泰輝くんは絵を見たまま、興味なさそうに返事をした。わたしはこっちを見てほしいので、泰輝くんと絵の間に割り込んで、ぐいっと彼の顔を覗き込む。


「ねえ、今、面白いこと聞いちゃったんだ」


 泰輝くんは鬱陶しそうに、顔を逸らす。わたしはもっと顔を近づける。

 すると、泰輝くんはのけぞりながらも、「わかった、わかった」と、ようやくわたしのほうを見た。そして諦めたように溜息をつく。


「で、何だ、その面白いことって」

「知りたい?」

「別に」

「知りたいって言って」

「知りたい知りたい」

「どうしようかなー。知りたいなら教えてあげようかなー」


 泰輝くんはめちゃくちゃ腹が立ってそうだった。けれど、そんなことも気にならないくらい、わたしの胸は期待の気持ちでいっぱいだ。

 うしししっ……! これを言ったら、泰輝くんはどんな反応をしてくれるんだろう。

 わたしは言った。


「キング」


 ぱちぱちと、泰輝くんは目を瞬いた。


「わっ! 泰輝くんが瞬きした! ねえ、びっくりした? びっくりした?」


 わたしは顔を近づける。泰輝くんは狼狽したようにのけぞる。


「俺を珍獣みたいに見んな。びっくりしたっていうか、いや、それより、まじで、どこでそのあだ名を知ったんだ?」

「さっき家の前で、泰輝くんの同級生だっていう人と会ったんだよっ!」

「同級生? って、具体的に誰?」

「あ。……話すのに夢中になって、名前聞くの忘れてた。けど、なんかお調子者っぽい男の子と、そのお付きの人みたいな男の子の二人組だったよ」

「うわ、よりによってあいつらかよ……」


 その二人組に心当たりがあるようで、泰輝くんは苦々しい顔をした。


「あいつらだと何かあるの?」

「いや、まあ別に何もないけどさ……つーか、『話すのに夢中になって』って、あいつらと何を話すことがあるんだよ」

「そう、そうそう、そうだよ!」


 よくぞ聞いてくれた。わたしがこの話を泰輝くんに持ちかけたのは、キングって呼んでみたかったのも確かにあるけれど、これが一番聞きたかったからだ。


「泰輝くんの絵のことを話したら、ふたりともぽかんとしたけど、あれはどういうことなの? どうして友達は知らなかったの?」


 泰輝くんは固まった。意表を突かれたみたいに。


「てっきり泰輝くんは美術部にでも入ってて、絵そのものは見たことなくても、みんな当たり前に泰輝くんが絵を描くことを知ってるものだと、わたしは勝手に思い込んでたけど。そもそも泰輝くんの高校に美術部はなかったらしいね。聞いたよ。だけど、そうだとしても、学校で軽く絵を描いたりとかしないの? 休憩時間とか、暇な授業中とかに」

「お前、いい加減にしろよ」

「えっ……?」


 突然の強い言葉に、わたしはびっくりする。

 泰輝くんは怒っているみたいだった。それはわかるけれど、どうして怒っているのかわからない。


「ど、どうしたの……?」

「なんで、あいつらに話すんだよ」

「話すって……泰輝くんが絵を描いてるってことを?」

「それ以外に何があんだよ。マジでさ、なんで話すんだよ。意味わかんねえ」

「なんでって言われても……話しちゃだめって言われてないし……」

「言わなくてもわかるだろ、そんくらい。暗黙の了解だろ」

「いや、わかんないよ。わたしとしてはむしろ、どうして泰輝くんが今まで友達に話してなかったのかがわからない」

「そんなの、恥ずいからに決まってるだろ。絵を描いてるなんて知られたら、どんな笑いものにされることか。ああ、もう今から新学期が憂鬱だ。学校行きたくねえ……」


 泰輝くんは帽子を目深に被り直す。泰輝くんが絵のことを知られるのを嫌がっているのはわかるけれど、やっぱりわたしはわからない。


「でも、この間言ってたじゃん。恥ずかしくても絵を描くって」

「それは……! それは、そうだけど、そういうことじゃなくて……」


 泰輝くんは説明しようとするけれど、言葉が見つからないような感じで、前のめりになる。


「確かに恥ずかしくても描くけど、それを知り合いに見せるのは、また別の問題で……なんというか、俺が言いたいのは、だから……」


 泰輝くんは身振り手振りを加えるけれど、やっぱり言葉にならない。やがて、顔を伏せると、もどかしそうに頭を抱えた。

 そのときに起きたことは、きっと、泰輝くんの意図しないことだった。

 頭を抱えた拍子に帽子がずれ上がり、泰輝くんの表情が露わになったのだ。わたしはちょうどその瞬間を見てしまった。

 泰輝くんはゆっくりと顔をあげる。目を逸らさないといけないと、わたしは頭のどこかで思った。目を逸らして、何も見なかったふりをしないと。けれど、視線が釘付けになって動かない。

 ばっちりと、目が合った。その瞬間、世界が止まった。わたしは一生、この泰輝くんの表情を忘れることはないだろう。

 目に涙が浮かぶ、痛いほど悔しい表情だった。


「――見るな」


 泰輝くんは弾かれたように、わたしに背を向けた。そしてそのまま逃げるように家の中に戻る。わたしは打ちのめされて、世界が動き出してもまだ動けなかった。何も考えられなかった。

 わたしはふと、泰輝くんが行ったほうを見る。夕方の薄暗い家の中、泰輝くんの背中が遠く、壁の向こうに消えていく。見失ったその小さな背中に、わたしは本当にしてはいけないことをして、泰輝くんを傷つけてしまったのだと初めて気づいた。

 空っぽだった胸が、一気に罪悪感でいっぱいになった。

 謝らなきゃ――!

 わたしは勢いよく息を吸って、走り出した。食卓を駆け抜け、階段を登り、二階の廊下に差し掛かったところで、泰輝くんを発見した。泰輝くんは自分の部屋に戻るところだった。


「泰輝くん、ごめんなさい!」


 泰輝くんはドアノブに手をかけた体勢で、ぴたりと止まった。


「泰輝くんの気持ちも確認せずに、勝手に絵のことを話して――ごめんなさい」


 泰輝くんはその場で止まって、何も答えない。気づけばわたしは心臓がはち切れそうなほど、ばくばくと鳴っていた。

 許してくれるだろうか。何も言ってくれないってことは、わたしは許されないことを、してしまったんだろうか。悪い妖精さんがまとわりついてきて不安を膨らませる。

 やがて、泰輝くんは帽子を目深に被り直しながら、こちらに向き直った。


「いや、いいんだ。話してしまったことはどうにもならないんだし、これから二度と同じことをしなければ」

「うん。もうしない」


 しばし沈黙が、流れた。


「俺のほうこそ、いきなり逃げ出してびっくりさせたよな。悪かった。色んなことが恥ずかしすぎて、すべて一気に受け止めきれなかっただけなんだ。もう怒ってないから、大丈夫だ」


 その言葉通り、泰輝くんの声はもう怒っていなかった。


「そう、なんだ。……よかった。嫌われちゃったらどうしようかと思った」


 わたしはほっとした笑みを浮かべる。


「そんなことじゃ嫌わねえよ。俺を安く見んな」


 泰輝くんは目を隠して、悪態をつく。


「そうだよね。泰輝くん、なんだかんだ言いつつ毎日絵を描くところを見せてくれるし、優しいよねっ」

「今頃気づいたのか? 俺の寛大さに」

「前から知ってましたよもちろん! 泰輝くんの心は海より広いって! そんな寛大な泰輝くんは、もちろんわたしが一人で屋根裏部屋の楽園に登るのを許して――」

「それはだめだよ?」

「むう」

「ここぞとばかりに禁止令を解こうとすんな。おだてれば許可を出してもらえると思ってるのが、俺を安く見てる一番の証拠じゃねえか」


 いつも通りの、わたしたちのやり取りだ。何気ない、何もおかしなことはない、やり取りだ。

 けれど、わたしたちは廊下の端と端から動かない。この大したことない距離が、どうしようもなく遠く感じた。やがて千和さんに夕食に呼ばれて、一階に降りても、この距離が縮まることはなかった。

 お互いに謝って、お互いにそれを受け入れたはずなのに、どうしてかわたしの胸には消化不良な気持ちが残ってしまった。この日を境に、わたしの中にほんの小さな、気まずさの種のようなものが居着くようになってしまった。

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