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「あっちい……」


 太陽に頭のてっぺんを焼かれる、午後の一番暑い時間。家の裏庭に面する、縁側のようになっているところに腰掛けて、わたしは棒アイスをシャキシャキと食べる。冷たすぎて歯茎にしみるけれど、それでも止まらない。


「昨日はありがとう、夏美ちゃん」


 すると、そう言ったのは、わたしと並んで座る千和さんだ。


「いえいえっ。わたしは何もしてませんよ」

「謙遜はやめてちょうだい。夏美ちゃんが大切なことを思い出させてくれなかったら、私はたいちゃんの夢を潰してしまうところだったわ。本当に、感謝してる」


 真剣な千和さんの言葉が、わたしの胸にぐっとくる。


「わたしのほうこそ、ありがとうございます。千和さんのおかげでこれからも泰輝くんの絵を見続けることが叶いますからっ」


 そう言って、わたしは裏庭の中を見やる。そこでは泰輝くんが、ひらひらと飛び回るアゲハチョウを、一生懸命目で追って、小さなキャンバスにその姿を描いていた。普段だったら、絵を描くのはどこか外に行ってすることだ。なのに、どうして今日は家の裏庭で描いているのかというと。


「ねえ、泰輝くんー。今日暑すぎるから、外出たくないよー。動きたくないよー」


 昼食後。いつものように外に行く準備を始めた泰輝くんに、わたしがそんな風にゴネたら、


「じゃあ、俺一人で行ってくるから、お前は家の冷房と戯れとけ」

「ひどいっ! 冷たいっ!」


 言いつつも、わたしはあわてて、何か泰輝くんを止める方法を探した。すると、裏庭にちょうどいいものを発見した。


「ねえ、見てっ! ほら、裏庭にちょうちょが飛んでるでしょ! あのちょうちょ描いてよ!」


 泰輝くんは準備の手を止めて、しばし考えた。けれど、泰輝くんのことだからどうせすぐに「描かない」と言って、準備に戻るんだろうな、と思っていた。


「まあ、いいか。今日はそれにしよう」


 だから、泰輝くんがそう言った時、わたしは喜びよりも驚きが先に来た。

 そんなわけで、裏庭で絵を描いているのだった。

 そして、泰輝くんが絵を描く場に、千和さんがいる。この新鮮な状況からわかるように、めでたいことに、千和さんから泰輝くんに絵を描く許可が降りたのだ。勉強を頑張るなら、という条件付きだけれど。ふたりで協議した結果、そこが落とし所だったらしい。

 何にせよ、泰輝くんはこれからも絵を描き続けられるわけだ。これで一歩、泰輝くんの新作を一生見続けられるプランが盤石なものになった。わたしとしては喜びと感謝しかない。


「許可を出してくれた千和さんに、感謝を込めてハグしたいくらい嬉しいですっ!」


 千和さんはちょっと驚いたような顔をする。と思ったら、にやりと目を細めた。


「じゃあ、ハグする?」


 えっ、と今度はわたしが不意を突かれる。自分が主導権を握っているときは、のびのびと振る舞えるわたしだけれど、相手に握られてしまうと、途端にたじたじしてしまう。そうして決めかねているうちに、千和さんのほうから何も言わずに、そっと抱きついてきた。

 収まるべきところにぴったりと収まった安心感。素晴らしい包容力ならぬ抱擁力だった。わたしは千和さんに身を預ける。率直に、赤ちゃんになりたい、と思った。

 よくわからないハグを終えても、頭にぽわーんと、その余韻が残ってしまった。ハグっていいものだなあ。


「ねえ、泰輝くんもハグしよっ!」

「しない」

「ええ、いいじゃん、しようよー」

「しない」

「むう。泰輝くんは相変わらず泰輝くんだなー」

「俺の名前を『冷たい』の代名詞として使うな」


 閑話休題。

 ところで、と千和さんは言う。


「ところで、夏美ちゃん。前から気になってたんだけど、聞いていいかしら?」

「なんですか?」

「夏美ちゃんは旅の出先としてここにいるわけじゃない? だけどそもそもの話、どうして一人旅に出ようと思ったの? きっかけは何かあるの?」


 旅に出ようと思ったきっかけ。うーん、とわたしは考えてみる。けれど――


「きっかけは、特にありません。具体的に行きたい場所があったわけでもないですし、逃げ出したくなるほど嫌なことがあったわけでもありません。だから、強いて言えば……」


 日常に疲れちゃった、んだと思います――と、わたしは言う。


「変わらない日常を繰り返してるうちに、だんだん疲れも積み重なってきて。その疲れがわたしも気づかないうちに、どこかのラインを超えてしまった――みたいな感じです。それで、ふと、ここじゃないどこかに行きたいって、そう思い立ったんです」


 抽象的ですみません。自分でもよくわかんないんです。

 そう付け加えて、最後に苦笑いする。自分でもよくわからないから、てっきり千和さんも微妙な反応をするかと思った。けれど、千和さんは親身になってわたしの話を聞いてくれただけでなく、「いえ、その気持ち、よくわかるわ」と、言った。


「私もときたま旅行に行くけど、それも日々の疲れを癒やすためだもの」

「え、そうなんですか?」

「そうよ。仕事ばっかりしてると、ああ、旅行にでも行ってゆっくりしたいって思い始めてくるのよ。自然なことだわ」


 そっか。千和さんも日々に疲れて、旅に出たいと思うことがあるんだ。そんなことを思うのはわたしだけじゃないんだということに、わたしはちょっと安心した。


「夏美ちゃん。あんまり休んでいるようには見えないけど、うちで疲れを癒やすことはできてる?」

「はいっ! わたしは楽しいことをするのが、一番の休養ですからっ。ここでの生活は新鮮なことばかりで、毎日が冒険みたいです!」

「ほんと、若いねえ。まあ、休めているんだったらよかったわ」


 千和さんは微笑んだ。

 夏の光が眩しい。わたしたちは揃って目を細めて、庭のほうを見る。泰輝くんはやはり、夢中になってキャンバスに色をつけていた。絵の中でもこの眩しい光が弾けている。

 泰輝くんにも、日常の外に出たいような気持ちはあるんだろうか。そもそも泰輝くんにとって絵を描くことは、日常なんだろうか。それとも日常を越えたものなんだろうか。

 わからない。

 ただ、これが日常だったとしても、非日常だったとしても――わたしはこの時間が、いつまでも続いてほしいと思った。



   ◆



 その夜。わたしが部屋のベッドで寛いで、次は何を泰輝くんに描いてもらおうか妄想にふけって、にやにやしているときだった。コンコン、とドアがノックされた。なので、千和さんかと思って「どうぞー」と答えると、


「よ」

「え、泰輝くん?」


 扉を開けて入ってきたのは、寝間着姿の泰輝くんだった。帽子は健在である。


「泰輝くんからわたしの部屋に来るなんて、珍しいねっ。というか、たぶん初めてなんじゃない?」

「そうだな」

「それで、どうしたの? 夜這い?」

「冗談を言うならもっと冗談っぽく言え。返答に困るわ」


 そんなことより、と切り替えて。泰輝くんは要件を言った。


「お前、ここに来て一週間経つけど――家に帰らなくていいのか?」

「んー? そんなこと? 大丈夫大丈夫。ここがわたしの新しい家だからっ」

「俺は真面目に聞いてるんだ。お前、いつまでここにいるつもりだ?」

「いつまでもきみのそばにいるよ。きゃー! かっこいい台詞決まった! きゅんときた? ねえ、きゅんときちゃった?」

「…………」


 泰輝くんはぴくりとも笑わず、わたしを見ていた。


「何~? 急にそんな怖い顔して。似合わないぞっ」


 おどけたように言ってウインクしてみせても、泰輝くんはじっとこちらを見るばかり。そしてわたしが何も言わないと、冷たい沈黙が流れる。その沈黙が、まるでわたしから逃げ場を奪うように、迫ってくるように感じた。

 真っ白になった頭で、わたしはどうやって誤魔化すか必死に考えていると、見かねた泰輝くんが言った。


「お前、ここに来た初日に、親から外泊の許可は取ってあるとか言ってたけど――ここに来てから親に連絡なんて、一度もしてないだろ」


 ぎく、とわたしは誤魔化しようもないくらい大きく、肩が跳ね上がるのがわかった。


「いやいや、そんなことはないよ? 泰輝くんの見てないところで連絡してるよ? 証拠はって? ごめんね、見せたい気持ちは山々なんだけどちょうど今日スマホが壊れちゃって、見せられないの。修理代を出してもらうのは申し訳ないしスマホがなくても旅に支障はないしこれから親と連絡取る時は公衆電話を使うことにするよあはは」


 あはは、あはは……。わたしは笑顔をなんとか保ち続けた。

 けれど、もうそんなことをしても無駄だ。無意味だ。ふと、それに気づいてしまうと、わたしは急に空虚な気持ちになった。

 わたし、何してるんだろう。すっと、自分の顔から笑顔が消えるのがわかった。


「連絡、してないよ……旅に出てから、一回も」

「やっぱりな。どうして連絡してないんだ?」

「何? 連絡しろって言うの?」


 嫌な気持ちだ。触れられたくない、心のプライベートスペースに土足で踏み入れられて、不愉快だ。


「連絡しろ、とまでは言わない。お前も理由があって旅に出てるんだろうし、理由があって連絡を取ってないんだろうからな。だけど、連絡くらいはしたらどうなんだ、とは思うぞ。連絡がなかったら、親はきっと心配してる」

「知らない。心配してるかなんて。それに、連絡したってどうせ戻れって言われるだけだし。だったらいちいち連絡したくない」

「その気持ちもわかるけど……だとしても、連絡しないのはよくねえよ」

「あっそ」

「連絡くらいしな」

「しない」

「したほうがいい」

「しない」


 あまり人を説得するのに慣れていないのだろう、泰輝くんはここで困ったように黙ってしまった。その隙をついて、わたしは、


 「はい、この話終わり!」


 と元気に言って、ぱんっ、と手を合わせた。


「はいはい、もう寝る時間だから自分の部屋に帰ってねー、泰輝くん」


 わたしは立ち上がって、泰輝くんを手で押して部屋から追い出す。泰輝くんはされるがまま、扉の外まで出てくれた。わたしはさっさと電気を消して、ベッドに寝転がる。

 それでも扉を開けたまま、泰輝くんは部屋の前に立っていた。しばらくそうしていると、やがて、


「もし俺たちの助けが必要なら言ってほしい。力になるからさ。言いたかったのは、ただそれだけだ。おやすみ」


 それだけ言って、泰輝くんは扉を閉めた。廊下から差し込む光が途絶える。

 助けが必要なら言ってほしい……? 力になるから……? 目を瞑って、その言葉の意味をしばらく考えたけれど、さっぱりわからない。

 いつまでここにいるつもりなんだ、なんて最初に泰輝くんは聞いてきた。だから、わたしはてっきり、「早く帰ってくれ」って言われたのかと思っていた。しかし、違ったのだろうか。

 わたしはまだここにいたいから、違ったなら違ったでいいんだけど……。

 繰り返すまでもなく、わたしはあくまでよそ者だ。千和さんや泰輝くんが許してくれているから、わたしはここに居られる。出ていってほしいと言われたら出ていくしかない。

 けれど、出ていくにしても、それは一人旅に戻ることを意味するので、家には帰らないしお母さんに連絡もしない。だから、何にしても、親と連絡を取るのはまっぴらごめんだ。

 わたしはチョコのお菓子を取り出して、一つ舐める。チョコの甘さがわたしの心を満たしてくれる。泰輝くんの言葉も、胸に満ちる不愉快な怒りもゆっくりと静められた。すると、わたしはだんだんとうとうとしてきたので、歯を磨いてから、その晩は眠りについた。

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