第5話 謁見
その日は、明日朝早くの用事があるからと言って家に帰してもらえず、連れて行かれた皇子の部屋の近くの部屋に強制的に泊まらされた。
自宅の寝具よりもはるかにふかふかでよく眠れるはずなのに、日中にあった怒涛の出来事のせいでほとんど寝られなかった。
ぼーっとした頭で寝台に座ったままでいると、扉を叩く音とともに「
「起きていますでしょうか」
「……はい」
「では、失礼いたします」
そう一言断って、凌霄は部屋に入ってくる。寝起きそのままの状態だというのに。
(ひ、人に見せられるほどに、整えてないんですけど!?)
それほど容姿を気にしているわけではないけど、人に見せられるある程度の許容範囲というものがある。今は範囲外だ。
あまり寝られなかったせいで寝返りを繰り返し、できてしまった寝ぐせ。洗えていない顔は、少し汚れている。
そんな体たらくを凌霄に見られないように、慌てて布団に潜りなおす。
「……桜鳴様? どこかすぐれませんか?」
「い、いえっ! 大丈夫です! 大丈夫ですけど、支度するんで、出て行ってもらってもいいですか!?」
「なるほど、そういうことでしたか。――失礼いたします」
「ぎゃっ! なんで!」
凌霄は容赦なく布団を捲ってきた。見せるに忍びないありさまが人前にあらわになる。
しかも、部屋の中には凌霄以外に、数人の女官もいた。両親以外に見せたことがない姿が、一気に複数人にさらされる。
「こちらの者たちが身支度を整えますので、お気になさらず。それほど時間の余裕もないので、手早くお願いします」
「気になりますよ! ……というか、こんな朝早くの用事ってなんなんですか?」
「御挨拶にうかがうんですよ、皇帝陛下の御前に」
「へー……え?」
「長らく現れなかった
思わぬ重要な用事に思考が停止する。すでに皇子に会ってるし、皇子に仕えることになるわけだし、今更な気がしなくもないが、それでも相手は皇帝陛下だ。この国を統べる主。
いつだったか、民の前で話をしていた時にものすごく遠くから姿を見かけた。その時は人のような塊くらいにしか判別できなかったが、これから対面で会い、なおかつこちらのことを認知される。
緊張から手のひらがじわりと湿る。
「……わ、わたし、礼儀とか、知らないんですけど……」
「重々承知しています。無理に変な言葉を使おうとしないでください。普段目上の人と接する程度で構いません」
「でも……」
「皇帝陛下は狭量な御方ではございません。それに、受け答えのほとんどは漣夜様がされます。桜鳴様は、ご自身の名前と簡単な挨拶だけで十分です」
凌霄はそう言って、側に控えていた女官たちに「あとはお願いします」と指示して部屋から出て行った。
女官たちは、桜鳴が着ていた服を脱がし、身体を隅々まで綺麗にし、庶民が着ることは一生ないだろう豪奢な服を着せた。汚れていた顔も清潔な布で拭われ、肌にいろいろと塗りたくっていく。
化粧は以前に一度だけしたことがあるけど、顔が固められるみたいな感覚がして苦手だ。
「――これで、終わりです。凌霄様をお呼びいたします」
女官の一人が外へと出ていき、部屋の前で待っていたであろう凌霄を中へと連れてくる。
「……ほう。これなら、御前でも問題ないでしょう」
「あの、こんな派手な服でなくても、いいのでは……」
「先ほどまでの質素なものでは、漣夜様の面目にも関わりますので」
言うほどみすぼらしかっただろうか、と、着ていた服を見るが、庶民にしては悪くないものだと改めて確認する。
(……まあ、この場所にはあんまりふさわしくはないか……)
特別な続柄の人が住むための部屋ではないのに、装飾が凝っていて家具だけでなく何気なく置いてある小物も高価そうだ。こういうところ――後宮には、今着ているような華美なものの方がよく溶け込んでいる。
だが、着慣れないものは着慣れないのである。そわそわと右に左に裾を揺らしていたら、部屋の扉がまた叩かれる。返事をする前に開かれたそこには、第三皇子が立っていた。
「おい、いつまで待たせるつもりだ。……似合わないな」
「っ分かってますよ! でも、これ着ろって言われたから……!」
「凌霄、そいつ連れてこい」
「承知しました」
凌霄の言葉を聞き終わる前に、さっさと出ていく。遅れて、その後ろをついていくが、漣夜の歩が速いのか、着慣れない服だから遅いのか、その差は縮まらないどころか広がっていく一方だった。
凌霄の案内がなければ、今頃迷子になっていただろう。
しばらく歩いて、建物内でも一層大きな扉の部屋の前に到着した。まるで門のようだ。先に着いていた漣夜に「遅い」と小言を言われる。これから皇帝陛下と会うと思うと、言い返す気力もない。返答がなかったのを不審に思ったのか、顔をまじまじと覗き込まれる。
「な、なに」
「……陛下つっても、ただの人間だ。礼儀さえ忘れなければそれでいい」
「そ、……それはそう、だけど……」
「まあ、うるさい子猿が静かなのは助かるが」
「誰が猿よっ! わたしだって人間だわ!」
思いっきりキッと目の前の男を睨むと、くっくっと意地悪そうな笑みを浮かべていた。本当に失礼な人だ。こんな人が国民全員の幸せを願っているなんて信じられない。少なくとも、今、彼の一言で怒りの感情がひとつ生まれた。
鼻息荒い桜鳴を一通り笑った漣夜は、ふぅとひとつ息を吐き、「行くぞ」と桜鳴の背中を手のひらでぽんと叩いて、扉を開いた。
部屋の奥には、大きく煌びやかな椅子に座っている男性と女性がいた。皇帝陛下の隣にいるのは皇后だろうか。
「――おお、よく来た。漣夜よ」
漣夜は陛下の御前に跪き、敬意を表す。それを見て、桜鳴も少し遅れて見よう見まねで膝を付く。漣夜の目だけがちらりと桜鳴に向いた後、再び下に落ち、口を開いた。
「お時間頂き、申し訳ございません」
「いやなに、家族である息子と話すことは大事だ」
「ありがとうございます」
「それで、そちらが……?」
陛下の視線が隣から移り、身体が強張る。言うことは、名前と挨拶。ただそれだけ。
「はい。私の奏祓師がようやく見つかりましたので、御紹介致します」
「ようやくか! それはよかった!」
「御心遣い、感謝致します。――おい」
他の人には聞こえないように、漣夜は小声で呼びかける。思わず肩が跳ねる。挨拶をする番だ。深呼吸をひとつして、言われた通りに話す。
「お、お初にお目にかかれて光栄にございます! 楊桜鳴と申します!」
「はは、そんなに緊張せずともよい。元気でいい娘だ」
「ありがとうございますっ!」
陛下は朗らかに笑いながら、うんうんと何度も頷いていた。課せられていた使命は、見事やり遂げた。そう思って安堵していた。
「――桜鳴、と言ったかしら」
「うぇ!? は、はいっ!」
今まで一言も発していなかった皇后と思しき人が桜鳴の名前を呼んだ。突然の出来事に間抜けな声が出てしまい、慌てて取り繕う。
「貴女、齢は?」
「よわ……えっと、15でございます」
「そう。――陛下、このような妙齢の
皇后は濃紺の瞳を向けながら言った。とても美しいが、どこか険のある顔立ちをしていて、まるで咎められているかのようだった。
皇帝陛下は、首を傾げながら「というと?」と、皇后に言葉の意味を求めた。皇后は華美な扇で口元を隠しながら眉を
「漣夜第三皇子に限ってそのようなことはないとは思いますが、もし何か間違いが起こりましたら……出自がそれほどよくない者の血が、皇族に混じることになります」
「なっ――」
「皇后様」
皇后の物言いに思わず文句を言いそうになった桜鳴を制すように、漣夜は声を張った。漣夜のあの鋭い視線が皇后を射抜く。
「皇后様の仰る通り、私に限ってそのような間違いは絶対に起こさないと誓えます。私のことを案じてくださって、感謝致します」
「……口ではどうとでも言えることですわ」
「まあまあ、
「! は、はい!」
皇后と皇子の間に何か刺々しいものを感じていたら、不意に皇帝陛下が話しかけてきた。驚きで声が裏返る。
陛下はこちらを見たまま、近くに控えていた線の細い男性を傍へと来させた。どこかで見たことがあるような雰囲気の男性だ。
「これが、私の奏祓師の
「奏祓師……あっ!」
どこか、それは、今こうなっている一因のあの日――あのお祭りの日に笛を吹いていたのは彼だ。
そのことに気づき、御前にも関わらず大きな声をあげてしまう。急いで口を噤み、頭も先ほどよりも深く下げる。
「? どうかしたか?」
「い、いえ! なんでもございません!」
「そうか。ほら、影鳳も挨拶しなさい」
「はい。……胡影鳳です。何でもお聞きください」
「あ、ありがとう、ございますっ!」
感極まりそうになり、いろいろな意味を込めて感謝を述べた。
その後、謁見の場は解散となり部屋から出ると、張っていた気が緩みどっと疲れが身体に圧し掛かった。その場にへたり込みそうになるのを、漣夜に支えられる。
「おい、こんなところで座るな」
「だ、だってぇ……!」
「俺の部屋まで歩け。少し休憩したら、今後のことについて話す」
「今後?」
「いろいろやることはあるからな」
大仕事を終えたというのに、なんの労いの言葉もない後ろにいる男に不満の表情を向けるが、それに不服そうな顔で返された。
「粗相しそうになったやつを褒めるほど俺は優しくない」
「っ! それは、その……」
「少しは我慢を覚えろ。躾のなってない犬か」
「猿の次は犬だって!?」
キャンキャンと漣夜の部屋に着くまで文句を言い続けた。彼の罵りには、元気になれる効力があるのかもしれない。
(――そんなもの、お断りよっ!)
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