善と悪は紙一重
「ねぇ、どうして作戦を中断しているの? おびき寄せる準備ならできているんでしょ」
繋がれた馬の群れを見ながら、ランドールはレイに問う。
「いや、それがーー」
「ランドール!」
レイの声を遮り、ロウリーが遠くから2人のもとへ駆け寄る。
「ロウリー、随分と遅かったね?」
「悪い、準備に手間取った」
ごめん。と軽い調子でロウリーは謝る。
「……えーと、マティウスさんが急にどこかへ行ってしまって、魔法陣がまだ完成していないんです。もしこの状況で大型兵器をおびき寄せたら、街が破壊される可能性があります」
レイは頭に手をやった。
これからどう行動すべきかを決めかねているようだ。
「マティウスが? 何があったんだろうねぇ」
「そういや、ここに向かう途中でマティウスと会った」
ロウリーは節目がちにこう続けた。
「確か……『ランドールの家の様子を見てくる』とか言ってたな」
「……僕の?」
想像もしていなかった言葉に、ランドールの顔に焦りの文字が浮かぶ。
何故、マティウスがこのタイミングで自分の家の様子を見に行くのか?
何か冷たい物に心臓を掴まれた気分だ。
「そうそう」とロウリーは頷く。
「追いかけた方が良いんじゃねぇかな?」
ロウリーのアドバイスを聞いたランドールは。
「……ごめんよレイ。行ってくる」
そう言い残しエアレザへ戻る事を選択した。
「あっ、ちょっと、ランドールさん!」
この戦闘の裏で何が起こっているのか。
何も知らないレイは、ただ純白のアクマの背を見送る事しかできなかった。
***
ウサギのように俊敏に街を駆ける。
一般市民は全員自宅や避難所に避難している為、いつも賑やかなエアレザの街は不気味なほど静かだ。
頬に汗を浮かべながら、ランドールは自宅に着いた。
「マティウス!」
自宅のドアに手を掛け中へ入ろうとしている仲間の名を叫ぶ。
ビクッと体を震わせ、マティウスは手を止めた。
「ランドール!? 一体、何故ここにいるのだ!」
「そんなのは後! ここで何をしているのさ!」
マティウスにプレッシャーを与えるように距離を詰め、子供のような背丈の彼を睨む。
今にも人を殺しそうな、恐ろしい形相だ。
「そ、それはーー」
言い淀むマティウスを放っておき、ランドールはドアノブに手を掛ける。
不用心な。
ドアには鍵がかかっていなかった。
「待て、ランドール! 貴様はそれ以上入るな! ランドールッ‼︎」
悲鳴のようなマティウスの静止を聞く訳もなく、ランドールはリビングへと繋がるドアを開いた。
……え?
リビングに広がっていた光景。
あの光景は、二度と忘れまい。
……いや、忘れる事ができないのだ。
こんな事になるならば……
『ランドールの命と引き換えに誘拐された』という考えが当たっていれば良かった。
……なんで?
静まり返ったリビングに、ランドールの声が反響する。
うわぁぁぁぁぁぁぁッ!!
マティウスは叫び声を上げ、仮面を両手で覆う。
ランドールの家には幸せがあちこちに転がっている。
エミールが描いた家族の絵。
エルアが趣味で始めた刺繍。
それらが全て、鮮血で穢されていた。
恐らく抵抗したのだろう。
テーブルや壁、床に血の手形が残されている。
よほど惨い手段を選んだのだろう。
天井にまで血飛沫が飛び、水玉模様を描いている。
リビングの中心に横たわっていたのは、血塗れの衣服を身につけたエルアだ。
ランドールはよろよろとエルアに近付き、彼女の上半身を起こす。
『氷のような肌』
この言葉は、きっと彼女の事を指す為に生まれたんだ。
「……ねぇ。何があったの」
ランドールは語りかける。
「ねぇ。ねえってば」
泣いているような。笑っているような。
柔らかな声が、ゆっくりと流れる。
「認めないよ、こんな事。流石の僕でも怒るからね」
何度呼びかけても、彼女は応えない。
「あはは、は、は……」
弱々しい、笑い声。
遠くから見ても肩が震えているのが分かる。
『……ねぇ。むしろ私は、あなたの方が心配なの。突然いなくなったりなんかしないでね?』
『ずっとこのまま、私達のそばに居てちょうだいね』
……意味ないじゃないか。
君が先にいなくなったら、あの言葉は意味がないじゃないか。
マティウスは2人の様子を後ろから見ていた。
ランドールに抱きしめられても、彼女はもう抱き返さない。……いや、抱き返せないのだ。
刃物で斬られ、突かれたような跡がいくつも衣服に残っている。
未練をたくさん残したまま、苦しみの中悶えて死んだのだ。
今にも泣き出しそうな彼女の顔を、ランドールはそっと撫でた。
「……エミールは」
マティウスがポツリと溢す。
「エミールはどこだ……」
ランドールとエルアを残し家の中を探し回る。
途中でランドールとエルアの寝室に辿り着いた。
2人のベッドの脇に、既にベビーベッドが設置されている。ランドールが組み立てたのだろう。
だが……もうそのベビーベッドに赤子が横たわる事はない。
「うぅ、う、うぅう……‼︎」
不の感情の津波に襲われたマティウスは呻き、過呼吸ぎみになる。
仮面に覆われた顔から、ポタリポタリと雫が絶え間なく落ちる。
息を吸う度に錆鉄の嫌な臭いが肺を満たす。
何度かえずきながらも、マティウスは捜索を続ける。
やがて辿り着いたのは、エミールの部屋。
壁に背を
「あ、あぁ……エミール……」
最早、確かめる必要すらない。
彼女もまた、犠牲者となったのだ。
マティウスは崩れ落ちるようにその場に座り込む。
「エミール……?」
ずっと無言でエルアの側にいたランドールが、弱々しい足取りでマティウスの背後から娘の部屋を覗く。
マティウスなど視界に入らないランドールは、既に事切れているエミールの部屋に入る。
無言のまま、愛娘の前にしゃがむ。
這うようにマティウスも彼に続く。
「エミール……」
呼びかけても、エミールは何とも応えない。
もう、彼女は太陽のような眩しい笑みを浮かべる事はないのだ。
何と声をかけるべきなのか。
……いや、言葉など今のランドールにとっては不要な物だろう。とマティウスは
「ごめんね……エミール」
とランドールが彼女の肩に触れた時だった。
カチッーー
スイッチが入るような音が微かに聞こえた。
カチカチカチカチ……
エミールから不気味な音が鳴り、彼女の体が痙攣を起こす。
ゼンマイ仕掛けのからくり人形が動く時のような、生物が出すはずのない嫌な音と挙動。
「ランドール! 離れろ!」
マティウスは叫び手をランドールに向けて伸ばす。
ランドールにとって、この音は聞き覚えのある音だった。
そして、これから何が起こるのかも分かっている。
それでも……
エミールの口が裂けんばかりに大きく開かれ、中からドリルが現れた。
これは、かつて起きた世界大戦で使われたブービートラップ。
ドリルがランドールの頭を真っ直ぐ貫く。
骨を削り、脳をかき混ぜる実に不快な音が同時にマティウスの耳を貫いた。
一瞬の出来事だった。
「う……うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ‼︎」
マティウスはただ叫ぶ事しかできなかった。
ただ巻き込まれただけの2人に対する
かつて敵を震え上がらせた男の呆気ない死。
何もしてやれなかった自分に対する憤怒。
様々な感情や思いがぐちゃぐちゃに混ざり、ドロドロに溶けてゆく。
……何が悪魔狩りだ。
……何が正義だ。
……こんなの、あんまりである。
……奴らこそ。
……奴らこそ、本当の悪魔だ。
……自分は善だと言い張る悪だ。
…………………………………………
……決めた。
……もうこれ以上、奪われてなるものか。
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