【愛さんと博巳】
目を覚ます。
真っ白だ。
お日様の光かと思ったけど、違う。
蛍光灯の光だ。
ものすごく眩しくて、ものすごく瞼が重くて、目を開くのにとても時間がかかった。
寝息が聞こえる。
自分のかと思ったけど、違う。
誰かの寝息だ。
身体が鉛のように重たくて、首を回すのがやっとだったけど、なんとかそちらを見た。
女の人だ。
ユリのいい匂いがした。
■■■さんかと思ったけど、違う。
愛さんだ。
博巳の腰の辺りで、顔を突っ伏して寝ている。
(愛さん。愛さん)
口に出して呼びたかったけど、声が枯れて上手く出せない。
「あ……い……さん」
ん……?
黒のワンピースに白いカーディガン。
いつものお気に入りの服を着た愛さんがこちらを見た。
なぜだか、とても疲れて見えた。
「倉敷……くん?」
始めは、声を追って口元を。
次いで、目を見た。
目が開いてる。
目が開いてる……!
「倉敷くん! 倉敷くん! わかる? 愛だよ! わかる?」
先生!
先生!
そう叫びながら廊下の方へ走っていった。
二十一歳の倉敷博巳は、また眠たくなって、目を閉じた。
……
寝たり起きたりを繰り返していた。
その合間合間に、お医者さんが聴診器を当てたり、何か検査をしているのがわかった。
完全に覚醒するまでに、二日かかった。
……
「二年、眠られていたわけですから」
医者はそう切り出した。
「まだ異常が残っている可能性が。もうしばらく入院なさっていてください。構いませんね?」
「はい」
博巳に代わって愛さんが返事をした。
不安そうな心を読まれた。
「大丈夫。わたしが付いてるよ」
百七十の博巳と、身長のほとんど変わらない、スラリとした愛さんが、博巳の手を握った。
切れ長の目が、優しくこちらを見ている。
どこかで、見た事のある目だったが、博巳は気のせいだろうと思った。
……
それから、半月入院して、退院の日を迎えた。
母さんも父さんもやってきた。
愛さんもいる。
看護婦さんに花束を渡された。
みんなで写真を撮った。
みんな、笑顔だ。
みんな。
「倉敷くん、おめでとう」
「退院、おめでとう」
何か「知っている」声が、景色が、頭に蘇る。
『私達のこと、忘れないでね』
『■■病院のこと、忘れないでね』
デジャブっていうやつだろうか。
この光景、前に見た気がする。
「ねえ、倉敷くん。お父さん、お母さん。ちょっと……お連れしたい所があるんです。わたしのクルマに、乗ってくれませんか」
愛さんが博巳達を駐車場に停めてある、愛車のスズキの軽自動車まで案内した。
そして、首都高速四号線と中央自動車道を進んで、八王子の郊外まで走らせた。
「ちょっと土砂崩れが起きて危ない場所なんです。けど、倉敷くんをどうしてもそこに連れていきたくて。お父さん、お母さん、どうかご了承下さいませんか」
父さんも母さんも、ああ、いいよ、と承諾した。
……
八王子駅から北西に五キロ程。
山あいの道に入っていった。
道がだんだん細くなり、一車線になり……
途中で通行止めになった。
「この先、落石・土砂崩落あり 危険・通行止」
落石を示す警告表示の着いた白い看板が立っている。
愛さんの言う通り、土砂崩れが起きた場所らしい。
愛さんは、その手前で軽自動車を止めた。
「こちらです」
愛さんは、トランクから、途中に買ったユリの花束を取り出した。
そして、三人を落石が散らばるその先へ案内した。
十五分程歩いて、愛さんが口を開いた。
「残ってたんだ……」
愛さんが、「それ」に駆け寄った。
そして、愛おしそうに撫でた。
バス停だった。
半分土砂に埋もれてるけど、そこに立っていた。
使われなくなって久しいのか、錆びてしまって書いてある字は読めない。
「茜坂病院じゃないか。懐かしいなあ」
父さんが口を開いた。
「ほんとね、あの頃は毎日通ったわ」
母さんも懐かしんだ。
「ほら、覚えてる? あんたが年上のお姉さんのこと、好きになってさ。よく病室抜け出してデートしてたじゃない。あの子……なんて言ったかしら? ……ダメね、思い出せないわ。癌、治ってるといいけど……」
博巳は、母さんが何を言っているのかわからない。
(年上のお姉さんと病室を抜け出してデート? そんなこと、した覚えないぞ。大体、僕の初カノは愛さんだ。そんな人、知らない……)
「亡くなりました」
愛さんが、ぽつり、と言った。
そして、持ってきたユリの花束を、半分埋もれたバス停に献花した。
「あら……愛さんの大切な人だったの?」
「はい……わたしの。わたしの」
「お姉ちゃんでした。瞳といいます」
(ひとみ……ひとみ……ダメだ、何も思い出せない)
「覚えてる? 倉敷くん……」
「……ううん。ごめん。わからない」
「……そっか……」
愛さんは、なぜか寂しそうに、そう言った。
……
それから、二年後、二人は結婚した。
お腹に赤ちゃんが出来たのだ。
岩崎愛は、倉敷愛になった。
周りは皆、祝福した。
中学時代の同級生が、愛さんを見て羨ましがった。
「お幸せに」
「お幸せに」
「この幸せ者が」
「爆ぜろ」
「お幸せに」
軽井沢のチャペルで開かれた式は、それはそれは幸せな空気で包まれた。
シャンデリアの下で開かれた披露宴も、信じられないほど煌びやかで華やかだった。
二人でウェディングケーキを切った。
そして。
花嫁がお色直しで薄桃色の
……
みーんみんみん。
みーんみんみん。
「あら、ボク。こんな暑い日に、こんな所でなにやってるの?」
……
「博巳くん?」
思い出した。
思い出した。
(僕には居た。愛したひとが、確かに居た)
「博巳くん?」
(誰かに取り上げられたんだ)
「ねえ、博巳くん……?」
(誰だ……それは、誰だ……)
「博巳くんってば」
お前は、誰だ。
「博巳ー、この幸せモンがー! 爆ぜろー!」
「博巳、母さんは幸せだよ……」
「父さんもだ。幸せだよ」
「娘を、よろしくお願いします、博巳さん」
「博巳くん? ねえ、博巳くん……ねえってば」
返せ。
瞳さんを、返せ!
どん。
「……え?」
愛さんは理解出来ていないようだった。
どうして、愛する新郎が、そんなに怖い目をしているのか。
どうして、愛する人が、自分の姉の名前を叫んでいるのか。
どうして、大きくなったお腹に、ステーキナイフが刺さっているのか。
……
みーんみんみん。
みーんみんみん。
セミがけたたましく合唱する八王子市の山道。
車もほとんど通らない、峠へ伸びている一車線の道。
その表面はぼろぼろで、しわくちゃおばあちゃんの様なひび割れたアスファルトが覆っている。
割れたその隙間からは沢山の雑草が顔を覗かせて、呟く。
『こんにちは。おかえりなさい、私達の茜坂病院へ』
そんな日本中の皆に忘れられたような道の途中に、バス停がある。
血に塗れたようなサビだらけで、もう字も読み取り辛い。
だが確かに、「茜坂病院前」と書いてある。
裏手にある坂を登った所にある古い総合病院、「茜坂病院」にアクセスする為のバス停だ。
倉敷博巳は大好きな瞳さんと、そこに立っている。
「あら、ボク。こんな暑い日に、こんな所でなにやってるの?」
「瞳さん!」
「およー、どしたん? どして泣いてるの? なんか悲しいことあったん? あ、そだ、オジサンが今度お好み焼き作ってあげるからさ……だから泣くなよう、ボクー」
「会いた……かったです……ずっと」
「そか……ねえ、ボク」
「誰だっけ? ボク」
……
「二人の『愛』こそが魔なのだ。そこを絶たねば、また魔が芽吹く可能性がある。芽吹かなくても、愛さんの人生にも深い影を落とす。倉敷博巳やその周囲に、また絶望が訪れる。幸せな二人の人生を、歩めなくなるぞ」
……
「『姉』を選んだか」
真っ赤な赤毛のポニーテール。
朱のチャイナドレス。
額に刻まれた太極図の刺青。
赤縁のメガネ。
拝島ぼたんが軽井沢の式場に辿り着いた時、既に手遅れであった。
血に塗れた結婚式場。
飛び散る血しぶきは、シャンデリアまで赤く染め上げている。
参列者は全員、「握りつぶされて」息絶えた。
その中央で、「花嫁」が、息絶えた新郎の上で叫んでいる。
薄桃色のカクテルドレスは、自ら流した下腹部の血と、会場中のヒトの返り血で真っ赤に染まっている。
丁度、姉が愛用していた赤いノースリーブのワンピースのように。
刺された下腹部は割れ、中から巨大な「赤ちゃんの手」が出て、蠢いている。
「きぃぃぃぁぁあああ!!」
「……そうか。寂しいか。……なら、分かっているな?」
拝島ぼたんが七星剣・魔断を構える。
がちゃりっ。
七星剣・魔断の歯車が回った。
剣の柄の「
「七星剣・魔断……」
拝島ぼたんの真っ赤な髪が、光を放つ。
髪留めが外れ、ポニーテールが本当に燃えているかのように、はためく。
額に刻まれた太極図が蠢き、もう一つの「目」として開眼する。
「我ヲ抜ケ、ぼたん!」
「……抜刀」
拝島ぼたんが静かにそう宣言する。
そして手に持つ古代中国の剣をゆっくりと抜いた。
刀身は光り輝いている。
まるで金色に燃えているようだ。
たった四十五センチ前後しかない鞘から、一メートル八十センチ近い、超長身の光る直剣が現れた。
「我二魔ヲ、喰ラワセヨ!」
「きああああああっ!」
「あいわかった。間違いなく、伝えよう」
きんっ。
倉敷愛は、頭頂部から「縦一文字」に真っ二つになった。
『お姉ちゃんずるいよぉっ、それ愛のー』
『ずるいよ、お姉ちゃんばっかり』
『寂しいよ、毎日同じメーカーのミートソースばかり食べて』
『倉敷くん、目を覚ましてよ……倉敷くん……』
『ごめんね、お姉ちゃん、ごめんね』
『わたしも連れて逝って……お姉ちゃん』
「逝ったか……」
短くそう言うと、赤に染まる結婚式場を後にした。
……
「このお人好しが」
拝島ぼたんの背後で声がした。
「二年も前の魔を、また刈り取りに行くとはのう」
五メートル程後ろに、紫色の和装に白い手袋をした、二十後半の拝島ぼたんよりもう少し年上の女がいる。
「狂狐」
「ほほ。お前にやられた首も、やっとくっついたしの」
そう言いながら、狂狐は首元をさすった。
ふん。
拝島ぼたんは鼻を鳴らした。
「……死に損ないが」
狂狐のとなりには、十二歳くらいの少女が見える。
ウェーブのかかった長い髪。
その黒髪は陽の光に当たると翡翠の色を映し出す。
薄い茶色の瞳のその少女は、悲しそうに口を開いた。
『
「
「ほほ。わらわは滅びぬ。お前というおもちゃがあるうちはの」
「ケケ。ソノ割ニハ イツモ魔ヲ喰イソビレテイルケドナ」
「……無駄口の多いナマクラよのう。……どうじゃ、ここいらで二年前の決着でも付けようかの?」
「……今日は、気分じゃない。見逃してやる」
「ほほほ。それはこっちの台詞じゃ。いつでも待っているぞ、愛しいぼたん」
ざあっ。
突風が吹いて狐の妖は見えなくなった。
「……さあ、行こうか。また新たな魔を断ちに」
そう言うと、拝島ぼたんは、軽井沢の観光客達の人混みに消えた。
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