【瞳さんと残像】

「かくまって。お願い」


 いつもの、十一時十五分四十二秒。

 いつもの、真っ赤なノースリーブのワンピース。

 いつもの、白いリボンの麦わら帽子。

 いつもの、ユリのいい匂い。

 いつもの、日常。

 いつもの、僕の大好きな、瞳さんとの日常。


「やあ、よく来たね」


 最近、博巳の病室にやってくる人が、ひとり増えた。

 愛さんだ。

 確か、苗字は岩崎……だったはず。

 おかっぱ頭で、背は瞳さんより高い。


(瞳さんより一つ年下で……それで……なんだっけ)


 瞳さんの大切な人のはずなんだけど、思い出せない。

 なんで愛さんがここにいるのか、上手く思い出せない。

 愛さんが誰だったのか、上手く思い出せない。

 とにかく愛さんは、気がついたら僕らの日常に居座っていた。

 今日子さんは、何か知っているみたいで、にまにまと笑っているのが、扇子越しでも伝わる。


(愛さんの、何を知ってるんだろう)


 博巳には分からないのであった。


「まあ! こんにちは! ……ありゃりゃ、えと、誰でしたっけ?」


 あれえ。そう言って、首を傾げて麦わら帽子に手を入れて頭を搔いている。

 瞳さんの物忘れの多さは世界一だ。

 博巳の名前さえ忘れるんだから。

 始めはショックを受けたし、嫌われてるんじゃないかとも思った。

 でも、今ではそれが愛おしい。

 毎回出会って、毎回恋に落ちれるのだから。

 ところが、この愛さんに関しては、博巳も分からない。


(たしか自己紹介……したはずなんだけど……した……したっけ、自己紹介……?)


 自己紹介したかも分からず、いつの間にか博巳と同じ病院に入院していて、瞳さん関係の人……だったと思うんだけどそれすら思い出せず、日常にいつの間にか溶け込んでる、愛さん。

 博巳は、なぜか恐怖すら感じるのだった。


 ……


 まあ、ともかく、愛さんは博巳の大事な入院仲間だ。


「わわ! しまった、看護婦さん来ちゃう来ちゃう」


 そう言って、博巳のベッドの下にもぞもぞと入り込む。

 でも、いつも誰も追いかけてこない。

 博巳はそれでもいいと思っている。


(いいんだ、それで。そんな人が、いても)

「誰も来ないよ、瞳さん」


 愛さんがにこにこして言う。


「あれえ? おっかしいなあ、あたし、さっきまで看護婦さんに追いかけられて……」

「さっき?」


 愛さんがにこにこした顔のまま聞く。


「それ、いつの『さっき』かな?」

「いつの……? いつのって、なあに?」


 離れたところに座る今日子さんがにんまりと嗤うのが見えた。


「文字通りだよ。瞳さんのさっきっていうのは、いつ?」


 にこにこしているのに、目が笑ってない。


「え……えとね……えとね……あ、あれれ、あたしなんで……」


 段々、瞳さんの顔色が悪くなってきた。


「あたし……看護婦さんに追いかけられて……えと、それは、それはいつ? こんな寒い日じゃなくて……あれ、あれ……あたし、なんで、なんで震えてるの?」

「なんでだと、思う?」


 愛さんの顔はもう、笑っていない。


「さ、寒い……寒いよ……なんで、なんでこんなに寒いの……ねえ、そこのボク、教えてよ、なんでこんなに……あれ……あれ? キミ……誰だっけ……」

「愛さん、もういいです、もう辞めて」


 博巳は、堪らず声を上げた。

 けれど、愛さんの追撃は止まない。


「そこの男の子。瞳さんの大事な人だよ? 忘れちゃったの?」

「え……えと……えとね、あたしね……寒い……寒い……寒いよ……」


 両手で肩を抱いてがちがちと震え始めた。


「愛さん辞めてください、こんな、尋問みたいなこと」

「そうはいかないんだ。まあ、見てなよ」


 愛さんはにっこり、博巳を見て笑う。

 そして、瞳さんの方を向き直った。


「寒いよね。なんでだと思う? 二月だからかな? ほんとに、それだけかな?」

「がちがちがちがち……寒い……助けて……誰か助けて……誰か……がちがちがちがち」

「ほら、もうすぐ思い出すよ。ほらっ、ほらっ!」


 震えて肩を抱いてしゃがみこむ瞳さんに、責め苦を与えるように言葉を浴びせる。


「あたし……あたし……ほんとはもう……もう……」


 ごほっ。

 ごほっ。ごほっ。ごほっ。

 信じられない量の血を吐いた。

 ぼたぼたぼたぼた。

 埃が落ちている水色の病院の床に、真っ赤な血溜まりを作る。


「ごほっ……さ、むいよ……ごほっごほっ……寒いよ……助けて……くん」

「瞳さん!」


 急いで、抱きしめようとかけ出す。


「助けてよ、ひろみくん! ひろみくん! いや、いやっ」


 きぃあああぁぁぁ──!


 物凄い、鼓膜が張り裂けるような悲鳴と共に、瞳さんは消えた。


 ああああああああぁぁぁ!


 まだ頭の中で瞳さんの悲鳴が木霊している。

 抱きしめたはずの瞳さんは、もう、そこには居なかった。


「これで、まずは良し」

「良し……ですって?」


 倉敷博巳は、温厚だ。

 怒っていることは、ほとんど無い。

 クラスメイトでも、博巳が怒っているのを見たことがある人は稀だ。

 でも、今日は別だった。


「良いわけない! なんで、なんであんなに苦しめたんです! なんであんなに、現実を押し付けたんです! 本人が望んでもいない、辛い現実を!」


 ちっちっちっ。

 愛さんは人差し指を振って、舌を鳴らした。


「現実だから、教えてあげたんだよ。もう、あの子は生きてない……ってね」

「生きてない……? 瞳さんが? ……何を言ってるんです? 瞳さんはいつもこうやって僕と一緒にバス停まで行って、それで」

「毎日、欠かさず?」

「毎日です」


 博巳は鼻息を荒くして答える。


「毎日きっかり十一時十五分四十二秒に来る人間が、ほんとに生きてると思う?」

「それは……瞳さんの日課ですから……」

「あのね。瞳さんは、生前の形や理に縛られた、残像なんだよ。もう……生きてはいない」


 そう言って、愛さんはベッドから立った。


「単刀直入に言うね、倉敷博巳くん」


 改めて呼ばれた博巳は改めて愛さんの方を向き直る。


「あっ」


 声を上げた。

 愛さんだと思っていた人は、違う姿をしていた。


 長い、腰まであるポニーテール。

 紅く、燃えるような赤毛だ。

 朱のチャイナドレスを着ている。

 メガネを掛けている。

 赤縁のメガネだ。

 その上の額には、太極図の刺青がある。


「あなたは……誰ですか」

「私は、拝島ぼたん。退魔師をやっている。単刀直入に言うよ。きみは、あの魔のモノに命を持っていかれようとしている。こっちに、戻ってきなさい。倉敷博巳くん」


 くっくっくっ。


 今日子さんが面白い玩具を手にしたかのように、喉を鳴らして嗤った。

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