第8話 新しい場所への転居 カフェのメンバーと再会
民宿のバイトを始めて一ヶ月足らずで、梢はここで続けて働きたいと思った。
それを話すと、オーナーの喜一も、健太も侑斗も、とても喜んでくれた。
今まで男性三人でやっていたので、女性が入った事でバランスが良くなったし、カフェの仕事の経験がある梢は仕事の覚えも早かった。
ここに居ると普段ほとんどお金を使わないので、忘れていても貯まると健太から聞いていたのはその通りだった。
料理はやったことが無かったが、少しずつ覚えていった。
住み込みの六畳一間の部屋は、日当たり風通しがよく、エアコン付きで快適だった。
お客さんが全員入り終わった後で風呂を利用することもできたし、スタッフ用のシャワーもあり、近くに銭湯もあった。
銭湯の経営者家族も、この地域の知り合いだった。
休日でなくても途中出かけたり、四人の中で交代でうまくやっていたので、梢は度々近所を散策してこの地域の事を覚えていった。
旅行で来た最初の日に行ったカフェにも、度々行くようになった。
そこの常連客とも顔見知りになり、今は、行けば知っている人ばかりという状況だった。
他にも、この地域の美容院に行ってみたり服や本を買ってみたり、夜には居酒屋へ行ったりした。
30軒ほどあるこの地域の店を、今では全部知っていた。
この地域の人は、皆いたって元気だ。
ただ病気になっていないというだけでなく、生きているというエネルギー、活力が感じられる。80歳以上の老人でも、ここの人達は皆おそろしく元気だった。
梢は、この地域に親しむほど、ずっとここに居たいという気持ちが強くなっていった。
仕事は四人で和気あいあいとやっているので日々楽しく、一ヶ月があっという間に過ぎた。
京都で借りていた部屋を出るのは一ヶ月前に言えばいいので、七月末の時点で電話で退去を伝えていた。
八月の終わりに、三日間休みをもらって梢は京都に帰った。
先に電話で手配していた通り、帰った日の昼に業者が来てくれてベッドや机、電子レンジなどを持った行ってくれた。
全てを粗大ごみとしてでなく、まだ使える状態の物はリサイクルで売っているという業者で、その分引き取り価格も安かった。
まだ新しい物を捨てるには抵抗があったので、いい所を見つけられてよかったと思う。
冬物の布団類は、田舎から出てくる時持ってきたかなり古い物だったのでこれを機会に捨てる事にした。
本や雑誌は一番気に入っている数冊を残して、あとは近くにある古本屋に引き取ってもらった。
荷物は元々少ないので、残った物を段ボール箱に詰める。
段ボール箱三つに収まった荷物は、明日宅配業者に集荷に来てもらう。
引っ越し代すらかからなかった事は本当に幸運だったと梢は思った。
電気、ガス、水道の使用停止を連絡すると、あとはもう急いでやる事もない。
明日家主さんに部屋を見てもらって、鍵を返して終わりだった。
梢は、ゆっくりと丁寧に部屋を掃除をしながら、ここで過ごした一年数ヶ月を思った。
京都で暮らし、働く経験をして本当によかったと思う。
一番良かったことは、あのカフェで働いた経験とそこで出会った人達がいという事だった。
掃除が終わってスッキリしたあと、時計を見るともう夕方だった。
今日は以前勤めていたカフェに行く。
京都を離れて以降も、唯とはたまに連絡を取っていた。
田舎へ帰るというのが嘘なのは、マスターもママも最初からわかっていたらしい。
「気を使って辞めたんだろう」と唯には話していて、梢はそれを聞いた。
なのでかえって、これ以上嘘をつかなくていいのでカフェへも行きやすい。
梢の新しい就職先の事も、唯を通してマスターとママに伝わっている。
それを知って二人が喜んでいたと聞いて、梢も安心した。
唯は、一時期よそで就職して働いていたけれど、結局三ヶ月で辞めたと言っていた。
今月からまたカフェに戻っているらしい。
梢は、約束していた通り久しぶりにカフェに行って、マスターとママと唯に会えた。
店はコロナ騒動以降今年の5〜6月が一番暇になって、梢もその時に店を辞めている。
そのあとは唯からも聞いていた通り、少しずつ回復してきていて、8月末の今日は夕方の時間帯で満席だった。
一時期は他所で働いていた唯も最近店に戻って、3人体制でいい感じに回っていた。
大好きな店がまた忙しくなってきている様子を見て、梢は本当に嬉しかった。
店が終わったあとは三人でカラオケに行き、その後は近くの居酒屋で飲んだ。
梢の新しい仕事場のことや、カフェのこれからのこと、京都の今の様子など話しているうちに日付けが変わった。
かなり遅くなったので梢はアパートに帰らず、カフェ二階にある経営者家族の住居に泊まった。
今年は祇園祭も山鉾巡行が中止、その他にも色々と行事が中止になって、なんだか夏らしくない夏だったと聞いた。
梢は民宿に居た間、ほとんどコロナ騒動のことを忘れていたので、もしかしたらもう世の中も普通に戻る方向に少しずつでも動いているのかもしれないと淡い期待もしていた。
けれど街中の様子を見ても、今日聞いた話でも、どうもそれはなさそうだった。
この辺りでは、この店とここに来るお客さんの間だけで、違う世界を作っているとマスターもママも話していた。
世の中が元に戻るのを待つのではなく、積極的にそこから離れる。
従えばもらえる補助金など当てにせず、今まで通りに営業して売り上げを上げる。
それで潰れたら潔くやめようと話し合って、自分達のやり方を貫いていたところ、お客さんにはむしろ喜ばれて売り上げは回復してきたらしい。
待っているのではなくて、離れて好きな世界で生きる。梢にもそれは大きなヒントだった。
年末には休みを取って、梢の働いている民宿にも家族で遊に来てくれるということになり、これからの楽しみも増えた。
また連絡を取り合う約束をして翌朝アパートに帰り、退出の手続きを終えた時はスッキリした気持ちだった。
2020年 冬
梢が民宿でバイトするようになって、もう五ヶ月目に入っていた。
他のスタッフも入れ替わりはなく、オーナーの喜一、健太、侑斗、梢の四人で回していた。
一人増えたことで全員が休みやすくなった。
11月に入った頃から少し肌寒くなったけれど、この地域は京都ほど冬の寒さは厳しくないらしい。
雪も滅多に降らないし、耐えられないほどの寒さを感じる日も少ないと聞いて、寒いのが苦手な梢は安心した。
冬になると大根、白菜などの冬野菜が美味しくなる。
民宿の夜のメニューも、おでんや鍋物、煮物が多くなってきた。
こういう料理は、下ごしらえをして火にかけて近くで見てさえいれば、あとは好きな事ができる。
料理をほとんどしたことがなかった梢は最初そのあたりのことが分からなくて、ずっと鍋のそばに突っ立って蓋を開けたり閉めたりしていたので健太に笑われた。
今ではもう慣れたもので、おでんが煮えている鍋の側でパソコン作業をする事もあるし他の用事を片付ける事もある。
特にすることがなければ好きな本や漫画を読もうがゲームをしようが自由なのも、この職場のいいところだった。
その日にある材料を見て、何を作るかも自分で好きに考えていい。
隣近所の人達からのもらい物も驚くほど多いという事を、梢はここのバイトを始めてすぐに知った。
海で釣ってきた魚、海藻類、貝類、自分の家で作った野菜、花など。
米や餅などももらえる時があり、あまりお金がかからないと言っていたのはこういう事だったのかと理解した。
食材に関しては、ほとんど買わなくてもいいくらいの状況だった。買っているのはパンと、たまに米くらいだった。
この民宿の三人も、他の家や店によく手伝いに行っていた。
喜一と健太は、壊れた場所の修繕や車で物を運ぶ作業、インターネット関係に強い侑斗はパソコンの接続や修理の手伝いに行ったりしていた。この地域の中で誰かから何か世話になった場合、必ずその人に返すというわけでもない。
全然関係のない別の人の何かを手伝ったりする。
皆がそうやって、全体で循環ができている感じだった。
ここではこれが当たり前なのだということが、見ているとわかってくる。
梢もそれに倣うようになった。
何か手伝って欲しい時は誰か出来る人いないかと聞いて平気で頼めるし、誰かが何か困っていてそれが自分に出来ることなら当然手伝う。
今ではそれに何の違和感もなく、こういうものだと思っていた。
皆が得意な事をやって、苦手な事はやらなくていいこのやり方は、最も効率的でストレスが無かった。
この民宿での仕事も本当にストレスが無い。
掃除、洗濯、料理、片付け、受付、パソコン作業など仕事は色々あったが、四人がそれぞれ自分の得意なことをやっている中でうまく回っている。自分のペースで仕事の順番も決められるし、休憩時間、食事時間も特に決まっていなかった。
働い時間分だけ自己申告てその日のバイト代をもらう。
1日のうちでこれだけ絶対にやらないといけないという事もなく、回っていればそれでよかった。
仕事が何ヶ月契約とかもないので、いつまで続けるかを常に計画しておくという必要もない。日払いだし、辞めたい時は即日辞めていいという自由がある。
皆んな好きなように気楽にやっている。
それでも、来てくれたお客さんに対して、居心地良く楽しく過ごしてもらいたい、またリピートしてくれたら嬉しいという気持ちは皆んな持っている。
その心意気で仕事に取り組んでいるのも、お客さんにはちゃんと伝わるのかリピーターは本当に多く大抵いつも満室だった。
梢は、京都に居た頃のカフェでの勤務を時々思い出した。
そこの人達と家族のように親しくなれたのと同じように、ここでも新しい家族のような人達と一緒に働いている。
全然気を使わなくていいほどに親しくて、それでいてうっとおしい干渉はしてこない。
そういうところも、以前の仕事場も今も本当に恵まれていると梢は思っていた。
夏に初めて会った時に、近いうちこの地域に引っ越してくる予定だと言っていた慶は、予定より早く実際に引っ越してきた。
他にも他所から来てこの地域に住み始めた人がいて、梢が最初に来た頃50人ほどだった人数は60人近くなっていた。
この辺りは最寄り駅からは徒歩20分以上かかり、交通手段が一日数本のバスしかない。
そんな感じで都会の便利さは無い分、家を買うにも借りるにも高くはなかった。
梢は、京都市内の相場と比べて最初かなり驚いたのを覚えている。
この地域にはまだ空いている家もあったけれど、もう数十人も来たらいっぱいになりそうな感じだった。
SNSでも出していないし何の宣伝もしていないのに、どこからともなくここの事を知って住みたいという人は来るらしい。
梢がそうだったように、旅行がきっかけで偶然見つけたという人もいる。
この地域には、一人暮らしの人、家族らしき人、友達同士でルームシェアをしているらしき人、カップルなど、色んな人がいたけれど誰も人の事を詮索しない。
子供がいるから家族なのかなと思う程度で、カップルがいたとしても夫婦なのか違うのか誰も知らなかった。
ここの人達は下の名前しか名乗らない。
あまりにもそれが自然なので、梢は途中まで気がつかず、かなり経ってからそういえばと思った。
何々家の誰々とか家を継ぐとか先祖がどうとか、そういった発想がまるでなく、名前というのはその人を識別できればなんでもいいという感じだった。
名乗っているのが本名かどうかすら分からなくても誰も気にしていない。
なので梢も未だに、ここの地域の人達全員と顔見知りでも、誰の名字も知らなかった。
しきたりも無ければ宗教もない。ただゆったりと流れていく時間があり、日々の暮らしを楽しむ人達が住んでいる。それがこの地域だった。
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