第2話 失業中の一人旅へ

コロナ騒動が始まったのは、その冬の事だった。

年末年始、テレビでその話題が出始めた。

その頃はまだ、長くても二ヵ月か三ヶ月経てば収まるものと思って気にしていなかった。

ところがその後に出された緊急事態宣言。

騒ぎが収まるどころか、急激に加速していった。

春になり鴨川沿いは美しい桜が満開で、例年通りなら京都を訪れる人も増える頃。

それが今年の春は、毎年観光客でにぎわっていた京都の街から人の姿が消えた。


梢は、京阪三条駅に近いアパートから職場まで自転車で仕事に通っていた。

カフェのある場所は五条河原町から少し東に入ったところなので、途中街の様子を見ながらゆっくり自転車で走る。

走りながら、去年との違いを肌で感じていた。

数ヶ月前まであんなに賑やかだったものが、急にどうなってしまったのかという寂しさ。

梢が家を出るのは朝の9時半過ぎで、通勤の人が最も多い時間からは外れている。

この時間帯は、通勤の人よりも京都に観光に来ている人の方が多く見られる。

カフェに勤め始めた頃は、真夏の暑い時期だったにも関わらず観光客は多かった。


7月には毎年、京都で最大の祭りである祇園祭が開催される。

この時の人の多さ、熱気、賑わいは凄かった。

特に山鉾巡行の前日、宵山では最高の盛り上がりを見せる。

梢も去年は、仕事が終わってから祭りを見に行った。

賑やかで華やかな祭りの雰囲気を存分に味わい、気分は高揚した。


8月のお盆にはカフェのお客さんに招いてもらい、マンションの屋上から五山の送り火を見た。

山に浮かび上がる炎の文字は幻想的で、消えるまで飽きずに眺めた。

夏が過ぎれば紅葉の美しい秋の観光シーズン。

この頃観光客の多さはピークを迎え、冬の寒い時期になってもまだかなり人は多い。


そして春にもまた観光シーズンを迎えるので、カフェのメニューも春に向けて皆で新しい物を考えていた。

常連のお客様も交えての、花見の計画もあった。


(まさかこんな事になるなんて・・・・・・)

今年の春も来年の春も同じように訪れるものと、梢は信じていた。

ところが今は、街に人の姿が見られない。

あんなに多かった観光客の姿が消え、街は死んだようにガランとしている。


仕事に行く人は相変わらずで、通勤の満員電車もそのままらしい。

それなのにどうしてと梢は思う。

3月頃から、カフェに来るお客さんの数は目に見えて減っていった。

予定していた花見も、その他のイベントも全て中止になった。

それでも最初のうちは、今までずっと忙しくて出来なかった細かい所をこの機会にと掃除するなど、何かとやる事はあった。


4月に入ると、店を開けていてもあまりにも人が来なくて早めに閉める事が多くなってきた。

梢があがる時間前には、もう閉店準備に入るという日が続いた。

テレビでは毎日「今日の感染者数は・・・・・・」という話題ばかり。

何処どこで感染者が何人出たというニュースが延々と流れている。

そのうち収まるのでは?と思っていた希望的観測も、4月になって完全に打ち砕かれた。



周りでは、暇すぎて休業する店が増えてきた。

そしてとどめを刺すような緊急事態宣言。

相変わらず観光客が来ないだけでなく、地元の人達までコロナを恐れて外出しなくなった。

(街が死んでしまった)

去年までのあの賑わいを知っている梢は、この状況を見るたび胸が痛んだ。

それでも自分はまだ京都に来て間もない。

(長年京都に住んでここで商売をしているマスターとママ、唯さんは今どんな気持ちでいるのか)そう思うと、もっと辛くなった。

クビだとは言われていないけれど、この状況で自分がここでいつまでも働いているのも悪いような気がしてくる。

そして状況は変わらないまま5月になった。


唯がここの仕事を辞めて、これからよそで就職する。

その話を聞いたのもこの頃だった。

「高校出てからずっとこの店で働いてきて十年以上になるし。これを機会によそで働いてみるのもいいかも」と、唯は淡々と話した。

言葉だけ聞いていると何でもない事のように聞こえたが、梢には唯の本音が分かった。

去年の夏から一緒に仕事をしてきて、唯がこの店に愛着を持っている事がいつも伝わってきたから。

家族の会話の中でも店の将来の話が出ることがあって、梢も聞いていた。

マスターとママがゼロから作り上げたこの店を、自分が継ぎたいと話していたことがあった。

(唯さんはここの仕事を、本当は辞めたくないのだろう)

梢の思っている事が顔に出ていたからか、唯は努めて明るく話した。

「そんな顔せんといて。この世の終わりやないんやし。また普通に戻ったら、私も店に戻るわ」

(普通に戻ったら・・・・・・)

そんな日が本当に来るのか?

今の街の様子を見ていると疑わしいと、梢は思った。


マスターとママは年齢の割には、オンラインでの商売に関してもよく知っていた。

二人ともSNSもやっている。

店にほとんどお客さんが来なくなった時、店に置いている品物やお菓子を通販で売り始めた。

梢もその梱包や発送、SNSでの宣伝などを手伝っていた。

コロナ騒動以前と比べると半分以下に減ってしまったとはいえ、店にもお客さんがゼロではなかったので毎日店を開けて営業も続けていた。


周りでは、店の前に目立つ看板を出して「感染対策万全です」をアピールしているところが多かった。

営業時間を短縮したり、休業したり、言われている感染対策に従えば補助金をもらえたりもするらしい。

このカフェではそういう事は一切せず、すべてがそのままだった。

梢にもそれが本当に嬉しく居心地が良かった。

この店では、店の雰囲気もサービスの一つという考え方だ。

梢も、メニューの看板より大きな感染対策看板を見かけると、違和感しか湧いてこなかった。

店の最大の売りが、メニューでも接客でも雰囲気でもなく、感染対策だと言っているように見える。

梢は、最初の職場を辞めたのは正解で、この店に来て本当に良かったと思っていた。

百貨店でどういう決まり事が増えているかネットを通じて知っていたので、そこに居たらとても我慢できそうにないと思った。


梢は一人暮らしを始めた時から、部屋が狭いのでテレビは置いていなかった。

仕事場でも、ここの家族は誰もテレビを観ない。

観たいものがあればたまにYouTubeで好きな番組を観る程度。

梢も自然とそれに習うようになり、テレビを観たいという気にならなくなっていた。


たまにYouTubeで、目立つところに上がってくるテレビの放送内容を見る事があると、街中で人が沢山倒れていて病院はパニック、死体の山という地獄絵図。

海外でのそういう状況を流している。

それと同時に、日本では今日感染者が何人増えました!と繰り返し流す。

感染対策を頑張らなければ日本は大変な事になるとか、このままでは数十万人死者が出ると、専門家を名乗る人が言っている。

自分の周りで誰か重症になって苦しんでいるとか、亡くなったということは聞かない。

それでも検査を受けて結果が陽性になれば、何の症状も無くても感染者ということで隔離されるらしい。

元々体の丈夫さには自信があったので、病院にも検査にも近寄らないでおこうと梢は思った。

「無症状感染」とか、それが一番怖いとか、テレビだは言っているけれど。


けれど世の中では、危険な感染症が大流行しているという雰囲気だけがどんどん広がっていた。

飲食店でも物販の店でも入り口には消毒液が置かれ、「マスク着用のお願い」の貼り紙。

レジの前や座席テーブルにアクリル板が置かれ、ビニールの仕切りがぶら下がった。

三密を避けなければと言って、店内のレイアウトを変えて座席の間隔をあけるか席をいくつか潰すのが普通になった。

満席での売り上げで毎月の収入を得ていた側からすると、とんでもない話だ。

元々そんなに広くない店では、間隔をあける事がそもそも不可能だった。

かといって座席やレジの間すべてにビニールやアクリル板を設置すれば、異様な雰囲気と圧迫感が出てしまう。


この店の中では、去年からずっと何も変わらない。

ただテレビの中の世界では、梢が今までに見た事も無いような大きな異変が起きていた。


5月の下旬から唯が店に出てこなくなって、約一ヶ月が過ぎた。

市内の、ショッピングモールの中に入っている飲食店で働いていると聞いた。

カフェの二階がここの家族の自宅になっているので、いつでも会える距離にいると言えばそうなのだけれど。

梢が出勤してくる時間には唯さんはもう家を出ているし、帰りも遅かったのでほとんど会える事はなかった。


マスターとママは以前と変わらない様子で、常連のお客さんの何人かはほぼ毎日店にやってきていた。

梢がこの店を大好きでいる事も変わらなかった。

ただ少しずつ、やる事が無くなってきたなと感じていた。

店の中にあった物はほとんど売りつくしてしまったため、その宣伝のためのSNS発信や梱包や発送の仕事ももうない。

コロナ騒動以前は、ランチの時間帯はいつも満員で、外に並んでもらわないといけない状況だった。

それ以外の時間もお客さんが途切れるという事がなく、夕方以降も仕事帰りのお客さんで店は賑わっていた。

四人でやっていてもかなり忙しく、あっという間に時間が過ぎるという毎日。それが普通だった。ところが今は、スタッフが一人減って三人になっても十分回る。

手持無沙汰な時間が増えていた。


これ以上ここに居てもいいものか。

梢はだんだん悩むようになった。

マスターもママも人がいい。

よほどの事が無ければクビだとは言わないだろう。

でも今の状況を見ていると、どう見ても二人で十分というのはよくわかった。

好意に甘えていてはいけないような気がする。


梢がこの店に来て、ちょうど一年が過ぎようとしていた。


6月に入って半月近く悩んだ末、梢は今月いっぱいでバイトを辞めたいという事を伝えた。

理由は、田舎に帰らないといけなくなったからという事にしておいた。

もちろん嘘だったけれど、本当の事を言えばマスターもママも引き留めてくれるような気がして、それに甘えてはいけないと自分に言い聞かせた。

最後の勤務の日に二人は、梢が一番好きだった店のメニューを食べさせてくれて、お菓子をお土産に持たせてくれた。

田舎までの電車代という事で、給料とは別に二万円も。

その心づかいも本当に嬉しく、嘘をついた罪悪感もあったけれど、無難な辞める理由として他に思いつかなかった。

また京都に出てくる事があったらいつでも連絡してこいとも言ってくれた。

唯には会えなかったけれど、連絡先は交換出来た。

本当は辞めたくなかったけれど、大好きになれる仕事場で一年間居られた事はいい経験だったと心から思えた。


梢は、これからどうするかは決めていなかった。

本当に田舎に帰ろうと思えば帰って、遠くても通える仕事を探すという道もある。

アパートの更新までにはまだ半年以上あったが、一人暮らしの経験もした。

これで満足して一旦地元に帰るか、それともまたバイトを探してもう少し京都にいるか。


考えながら数ヶ月ぶりに母親にラインしてみると、コロナ対策をしっかりやっているかという話題ばかりだった。

梢の母親は48歳で専業主婦。

勤めていたカフェの経営者夫婦より一回り以上若かったが、情報源として新聞テレビしか見ない人だった。

町役場に勤める父親も同じような感じで、家族は高校生の妹も含め三人とも、テレビで伝えられる感染者数などコロナ情報をもれなくチェックしていた。

感染対策万全を合言葉に、一致団結して取り組んでいるという。

「不要不急の外出は避けマスク消毒を欠かさないように」と、テレビと同じ事を家族から言われると、梢はドッと疲れた。

その話題はスルーして、元気で頑張ってねと伝えてやり取りを終えた。

争いたくはないが、コロナ対策万全の生活に付き合いたくもない。

梢は仕事を辞めた事は親に言わずに、もう少し京都に居ようと決めた。


今まで週一休みでずっと働いてきたので、久しぶりに時間は出来た。

預金残高を確認すると、働かなくてもやっていけるのは約三ヶ月、ギリギリまで切り詰めれば半年近くはいけるかもしれない。

仕事を辞めた翌日の朝は、部屋を綺麗に掃除してシーツやカーテンなど大きな物も久しぶりに洗濯。

沈みそうな気分をスッキリさせた。

好きだった仕事を辞めてしまった寂しさは、後になって余計に込み上げてくる。

でも自分で決めた事に今更悩んでも仕方がない。

前を向いていこうと思った。


休みになったといっても、体力は有り余っているので部屋でゆっくりする気分にもならない。

掃除が終わったら、梢は出かけたくなった。

今日から7月で、午前中から外はかなり暑い。

でも夏は大好きなので、この程度の暑さなら気持ちがいいと感じる。

天気もいいし、仕事も探しがてら外を歩いてみようと家を出た。


しばらく歩いてみると、街の様子が去年までとは一変してしまった事をあらためて思い知らされる。

昨日まではこの時間すでに仕事に入っていたので、ここまで気が付かなかった。

一人で歩いている人も、自転車、バイク、車の運転をしている人までマスクを着用していない人は誰もいない。


カフェではマスターもママも来るお客さんも、感染対策を気にしている人など一人もいなかったので、梢もそれに慣れていた。

テレビの情報さえ見なければ、実際に街の中を見ても、具合が悪くなっている人やバタバタ倒れている人がいるなどの異変は感じない。

ただ、街中の目立つ場所に感染対策に関する看板、多くの店の前にも感染対策に関する看板ばかりという異様な光景に変わったというだけ。

公園に行ってみてもショッピングモールに入ってみても駅地下に行ってみても、感染対策に関するお願いのアナウンスが絶え間なく流れている。

「マスクの着用をお願いします」

「手指の消毒をお願いします」

「並ぶ時は距離を取ってください」

「商品に手を触れないでください」

「買い物は最低人数で短時間で済ませて下さい」

「会話はお控え下さい」


歩いている人の雰囲気も、なんだかピリピリしている。

季節は真夏になろうとしていい、気温が30度をこえている中でマスクをするのはかなり根性がいる事だと思われるが、皆がそれを守っている。

どこかで働こうと思えばこの習慣に合わせないといけないのかと思うと、梢は絶望的な気持ちになった。


三条河原町から四条河原町、祇園、八坂神社、円山公園内、二年坂、三年坂、清水寺。

今日街に出てみるまでは、観光客の多い場所の飲食店か土産物屋あたりで、どこか求人がないかとぼんやりと考えていた。

歩いてみるうちに、気持ちはどんどん沈んでいった。

あんなに観光客が多かった場所が、どこも閑散としている。

勤めていたカフェの現状や周りの様子で、ある程度見当は付いていたけれど、思ったよりずっと酷かった。


気分を変えようと四条河原町まで戻り、そこから新京極通りへ。

大好きな映画館へ向かった。

以前来たのは今年入ってすぐの冬だったので、半年ぶりだ。

コロナ騒動が始まってすぐのその時はまだ、映画館には普通に入れた。

ところが映画館入り口までくると、以前とはすっかり様子が変わっていた。

感染対策に関する注意書きの大きな立て看板。

入り口には消毒液が置かれ、マスクを着用していない者の入場禁止。

入る気も失せて梢は引き返し、そのまま帰宅した。

そういえば朝も昼も食べていなかったが、食欲すら消え失せていた。


部屋に戻って、自分一人の空間の中にいると少し心が落ち着いた。

食欲も出てきたので、買い置きしていたレトルトのカレーライスをレンジで温めて食べた。

食後にはカフェでもらったお菓子と珈琲の入ったマグカップをテーブルに置いて、好きなユーチューブ動画を観る。

動画の中には去年までと変わらない風景があった。

自分だけの空間で映像を楽しんでいると、今見てきた現実の方がフィクションのような気がしてくる。

でもあれは紛れもなく現実なのだ。

あと一ヶ月か二ヵ月か、それとも半年か、もしかしたら今の状況が変わって元に戻るかもしれないという淡い期待もある。

出来るならああいう状況の中で働きたくない。

家に帰るという道もない。


人が多い京都市内だから余計に感染対策がうるさく言われているのだろうかと、梢は考えた。

(もう少し田舎へ行ったら、もしかしたら少しは違うかも。田舎では仕事は無い気がするけど、人が少ない分この異様な雰囲気と圧迫感は薄れてるといいけど・・・・・・)

仕事探しはとりあえず保留にして、時間はあるのだからどこか旅行に出て他の地域の様子を見てみようと思いついた。


綿密に計画を立てるのは好きではないので、大まかに行く方向を決める。

高校生の時に行った旅行と同じように、あとは行ってから考えようと思った。

この状況で宿泊先がその場で探せるかという心配もあったので、泊まりが無理だった場合日帰りで帰れる範囲の場所を選んだ。



いつもよりかなり早く起きて電車に乗ったせいか、窓の外を眺めているうちに眠ってしまった。

目が覚めた時には、電車内はかなり空いていた。

梢の隣の席に座っていた女性も、どこで降りたのかもういなかった。

満員電車は苦手なので、今の感じにほっとする。

窓の外を過ぎてゆく景色も、いつの間にか山や田畑が多くなってきた。

通勤の人達に混じって今朝電車に乗った時の、嫌な緊張感が薄れていく。

どうせ終点まで行くのだから、今どこなのか気にする必要もないしまた寝てしまってもかまわない。

見知らぬ土地に旅行に来たというワクワクする気分を楽しみながら、梢は窓の外を眺め続けた。


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