第6話② えっと、えと、ありがと

 白い獣はイヌカミだ。

 まるで最初からそこに居たかのように、人の背丈と同じ位置に頭があるそれは佇んでいる。だが、間違いなく幻獣だ。最近見たばかりなので間違いない。

「まっず! 逃げないと!」

 だが、陽茉莉の言葉に反応できた友人はいない。

 それは、その場にいた殆んどの者が同じだった。戸惑い言葉を失っている。日常生活に突如として現れた異変。それを認めたくないという心理が働き、思考が否定するための理由を探してしまい動けなくなっているのだった。

 だがそれも、驚き運転を誤った車が追突事故を起こした事で呪縛が解ける。

 鳴り響いた衝突音とクラクションによって皆が我に返った。一斉に悲鳴をあげ、少しでも離れようと必死の形相で走り逃げ出した。

 牛丼屋では出入り口でも、外へ出て逃げようと押し合いが生じ怒号が飛んだ。それが側にいたイヌカミを刺激してしまい、巨体がガラス戸を突き破り襲い掛かっている。道路では車がクラクションを鳴らし走り去り、難を逃れたかと思えば、ビルの上から飛び降りてきた新たなイヌカミによって押し潰される。

 それだけではない。まだ他にもイヌカミが現れていた。あちこちの路地から湧くようにして、イヌカミの白い身体が出現していく。

 周囲は大混乱に陥った。

「皆、こっち!」

 ただし陽茉莉は両手を広げ友達全員を押し、近くの避難シェルターへと向かった。こうした幻獣災害発生時に逃げ込めるよう、有料無料はあるが街のあちこちに設置されているのだ。


「うぁあ、もうっ。最悪だー!」

 パニックになった者たちが滅茶苦茶に走りまわっている。悲鳴と怒声と爆発音が何重奏にも響き、辺りは混乱を極めていた。

「やるんじゃなかったー、やめとけばよかったー」

 陽茉莉は文句を言いながら、一人全力で走っている。

 皆と一緒に避難シェルターに入ろうとして、ある事に気付いて心配になってしまって、無理を言って別れて一人で行動していた。

 そして――心配していた通り、本屋の奥まった場所で撫子色した髪色の少女を見つけた。スーツケースを傍らに、まるで何事もないかのように立ち読みしている。

「はいー、そこまで」

 近づいても気付かないので、手を伸ばし本を取り上げた。

「うみゃぁっ……!? な、なんですかいきなり……びっくり、です」

 公家の血を引く少女は、黄金色の瞳をした目を大きく開き変な悲鳴をあげた。しかも大袈裟なぐらいに驚き、後退って今にも転びそうなぐらいだ。いや実際、陽茉莉が腕を掴んで支えねば、そうなっていただろう。

「ちょっと落ち着こう。静かに、そのまま外を見る」

「えっ……は、はええ!?」

 通りに面したガラス越しに、引っ繰り返った車両や煙を上げる建物が見える。

 名も知らぬクラスメートは、あんぐりと口を開いて驚愕の様相となった。クールビューティだのスクールプリンセスだと呼ばれる姿には到底思えない。むしろ残念美人という言葉が似合うぐらいだ。

「分かった? 幻獣のイヌカミが出てるの。えーっと? あー、ごめん。同じクラスだけど名前が……」

「成瀬、成瀬静奈よ」

「あ、そうだった。成瀬さんだったわ。えっと、私はさ」

「設楽陽茉莉、前回の期末試験は学年五十八位。所属クラブはなし。インフルエンサーとして変な絵とTシャツを売って活躍中。フォロワーは一万六千人ほどで増加傾向にある。家族は藩士の兄が一人で住所は……」

 すらすら語っていた静奈は、我に返って首を竦めた。上目遣いで恥ずかしそうな素振りをしている。まずい事を言ったと後悔しているらしい。

「ううっ、今の忘れろ……忘れなさい、忘れて下さい」

「あー別に気にしてないから。それより、あたしのこと知ってるんだ」

「うん……クラスメートのプロフィール、全部覚えてる」

「凄いね」

 肯きながら面白い子だと陽茉莉は感じていた。

「とりあえず、逃げようよ。ここ危ないから。あーっ、でも外の方が危ないか」

 陽茉莉は祭り会場での避難を思い出しながら言った。しかし静奈は首を横に振る。

「こ、ここは本屋……本棚しかない……奥に事務室はある。だけど隠れるのに適してない、はず。多分」

「なるほど」

 こんな時でも陽茉莉は感心した。実を言えば、この成瀬静奈が心配になって突っ走って来たが、その後でどうするかは全く考えていなかったのである。


「え、と……こんな時は安全な場所に隠れ、無闇に動くのは禁物。と、されている。でもイヌカミと呼ばれる幻獣には隠れても意味が無いの」

「それそうだわ。この前、イヌカミに追い回されたばっかりだもん」

「SNSで呟いてたね……」

「見てくれてるの」

「ちょ、ちょっとだけよ。設楽さんをフォローして毎回見てるとか……そんな事はしてないんだから。してないわ、してないの!」

 静奈はわたわたと慌てだす。

 そんな慌てた姿に近寄りがたさは皆無で、むしろ楽しいぐらいの雰囲気だ。陽茉莉はこんな時であるのに、にっと笑った。

「とりあえずさ、名前で呼んでよ。陽茉莉って」

「うぇあ!? な、名前で!?」

 成瀬静奈は顔を赤らめ目を見開き、明らかに動揺している。

「あ、もしかして嫌だった?」

「……べ、別に……そ、それじゃあ名前……名前で呼ぶわよ……陽茉莉さん……あと、その……わ、私の事も名前で呼んで……呼びなさい……呼んで、ください」

 最後の部分は精一杯勇気を振り絞ったような口ぶりだった。どうにも静奈は面白い性格だ。クールビューティだの高貴なお嬢様というよりは、ずっと良い。陽茉莉は嬉しくなった。

「宜しく静奈。それで逃げる方向だけどさ、お城の方向でいいの?」

「そ、そうよ。侍衆や武装徒歩組が出陣する……から、御城に近い方が安全よ。それと途中に避難シェルターがあれば……そこに逃げ込めばいい」

「じゃあ、そうしよう。でも、その荷物は無理だよ」

「だ、大丈夫よ。中身は全部本だから……置いてく、後で回収する」

 どうして大量の本を運んでいたのかは謎だが、今はそれを聞く必要は無い。重たい荷物を運ぶ必要がないと分かっただけで十分だった。

「それなら逃げよっか」

「そ、そうね……えっと、えと、ありがと……つまりそのっ、わざわざ来てくれて」

「気にしない、気にしない。それよりさ、今回のが終わったら遊びに行こ」

「ういっ、行く」

 二人は約束を交わして行動を開始した。

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