第5話① お先にどうぞ、お嬢様
慎之介は守衛に挨拶をして藩庁舎を出た。
空を振り仰げば、青く澄んだ高みに鮮やかな白い雲があって、思わず目眩がする程だった。穏やかな風が心地よい陽気だった。
三の丸付近は官庁街。
帰り時間がズレたので付近に人の姿は少ない。木陰を選びつつ二の丸との間にある掘に沿って歩き、東門を警備する足軽に通行パスを見せ城外へ出た。
横断歩道前にある地下鉄への階段を降りていく。
下から押し寄せて来る埃臭いような空気は、地下空間独特の臭いがして冷えている。電車が動く音と振動がして、風圧が押し寄せてきた。
「どうしたもんかね」
昼食はまだだが空腹感はない。
工事の問題だけでなく、配置転換の不安も脳裏の片隅にある。折角クレーマー問題が片付いたというのに一難去ってまた一難。否、二難が来ている。
胃が重たくなってストレス状態なのだろう。
地下鉄のホームは静かだった。
もう完全に帰宅ラッシュが過ぎて人の姿は疎らだ。ホームは狭く薄暗く、僅かに音が響いて心地よい。嫌な気分を僅かにだが忘れさせてくれる。そんなホームの少し先――壁際のベンチに、女性が座っている姿が見えた。
目が合うと相手は笑顔を浮かべ立ちあがった。
「慎之介、お疲れ様」
咲月は子供の頃の授業でしていたように手を挙げた。
帰宅途中の咲月は普段着で、白色トップスに柑子色フレアスカート。腰元には脇差しを携えている。公家の血を引いているせいだろうか、佇まいからして品があった。
改めて見ても、すっかり大人っぽくなったと思う。
「ちょうど良かった、時間あるよね」
何か言うより先に咲月が言った。
この間から説明を求められていたが、仕事を理由に逃げていたせいだろう。ちっとも迫力のない顔で睨んでくる。
「今から話せるよね、あの件の話なの」
「あの件ね。うん、まあ……そうだった。でもまだ昼を食べてないんだ、どこかで軽く食べたいが」
「なるほど。私も食べてなくて、慎之介も食べてない。丁度良かった」
にっこり笑って嬉しそうだ。
どうやら、この間は仕事中の態度だったらしい。プライベートでの態度と距離感は昔と全く変わらない。
「土曜日はいつも、このぐらいの帰りなのか?」
「そうよ。いろいろ片付けてると、この時間になるの」
「なるほどね。だから見かけることもなかったか」
電車が来た、ドアが開く。
「お先にどうぞ、お嬢様」
「もうっ、そういうこと言うんだから」
咲月は笑って乗り込み、自分が座った隣をぺしぺし叩いている。そこに座れと言いたいらしい。本当に中身は昔と変わっていないようだ。
ついつい笑ってしまう。
「何ですか、その反応は。まあ、いいですけど。それより、お昼どこにする? どこか良いお店とか知ってる?」
走りだした電車の音に配慮して、咲月は心持ち顔を寄せながら喋ってくる。最後に電車に乗って遠出をしたのは咲月が中学生の頃だ。それから十年ぐらいになるが、慎之介はその時の気分を思い出していた。
「いや、うちは貧乏だからな。そうそう食べには出ない」
「そうなんだ。じゃあ、家で料理してるんだ」
「普段はな。でも今日みたいに陽茉莉が友達と遊びに出かけた時は別だ。適当にコンビニでお握り買うとか、スーパーで惣菜買うとか……」
語尾が尻切れトンボになったのは、咲月の呆れたような反応を見たからだ。
「どう? ここのお店」
咲月はちょっとだけ得意そうに言った。
フォークを使いパスタを一口、空いた手で頬を押さえて幸せそうに目を細めた。それからスープを口にして、すっかりリラックスしている。
そんな様子に苦笑して慎之介は店内を見回した。
レトロ調な喫茶店で他の客は殆んど居らず、静かなジャズが流れている。パスタは好みの味付け、サラダはシャキシャキ、スープは優しい味がする。
陽茉莉以外の誰かと食事をするのは久しぶりだった。職場の人付き合いは面倒で、そういった事は避けている。プライベートは推して知るべしだ。
余計な事を考えていると咲月は再び言った。
「ど、う? ここのお店」
ちょっとだけ頬を膨らませた咲月は子供みたいだ。
慎之介はパスタを箸で持ち上げた。
「ああ、美味しい。好みの味だ。これなんか、陽茉莉が喜ぶに違いない」
タラコスパゲティだ。飲食店にありがちな生クリーム入りでないところが良い。余計な食材を入れずパスタとタラコとバター、そして塩胡椒だけの味付け。上に刻んだ紫蘇がのっているだけというのも良い。
「良かった」
咲月は素直な笑みをみせた。
すっかり気楽な様子で、あれやこれや軽い雑談をして料理を楽しんでいる。そして食事が終わるとアイスコーヒーが出て、咲月は軽く表情を引き締めた。
「それじゃあ、お願いするね。四課で働いて欲しいの」
「はぁ?」
戸惑う慎之介だが、念の為に店内を見やった。他の客は支払いを済ませ出て行き、店主は奥に引っ込んでいる。店内には静かなジャズが流れて内緒話をしても問題はなさそうだ。
しかし咲月はそんな事も気付いてないし、気にもしてない。
「慎之介の力を使わないのは勿体ない。私の目標は幻獣を倒すこと。でも四課は、私を含めて殆んどが代替わりして実力不足。だから、協力して」
「侍になれるのは上士からだろ?」
「問題ないわ、私が何とかするから」
咲月は軽く手を動かし断言する。
その白い髪色が示す通り咲月は公家の血を引いており、その五斗蒔家はかなりの権力を持つ。たとえば下士の一人を特例で侍に任命するぐらいは可能だろう。
「何とかね、何とか……」
特務課で働く自分の姿は想像もつかない。
しかし普請課で苦労したり、または用地課に配属されて苦労したりする姿は容易に思い浮かぶ。どちっがマシかと言えば考えるまでもないだろう。
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