47 克服願望:君をもっと知りたいから
お風呂上がり。いつもより丁寧に髪を拭いて、コップ一杯の水を飲んでから、僕は自室へと向かった。
いつもは僕だけの部屋だけど、今日は中に葉波さんがいる。女の子がいるとわかっている空間に無断で立ち入るのもどうかと思い、ノックした。
「葉波さん、入っていい?」
「――うん、どうぞー」
いつもの数倍の時間をかけて、ゆっくりと、ドアを開けた。彼女は僕の机で勉強している。椅子ごとくるっと振り返り、「おかえり、新汰くん」とはにかんだ。
「……ただいま、葉波さん」
「あのね、数学の証明ね、今日はちゃんとできた気がするの。ここにある模範解答とは違うけど、この解き方も合ってるでしょ? 見て見て」
「うん」
ギシギシと骨が軋む幻聴を聞きながら歩き、彼女のそばに到着した。磨かれた桜色の爪がくっついた指先で、彼女はルーズリーフを指差す。見慣れた流麗な字があった。
「――そうだね、合ってるよ。正解。よくできました」
「やったっ! わたしって、すごい子?」
「ああ、すごいすごい」
「ふふふん。さすがね、わたし。新汰くんと一緒に勉強したら、どんどん頭良くなっちゃうんだから。もう今日の勉強は終わり! リビング行こう?」
「いいけど、まるで自分の家みたいな口ぶりだね」
「高校卒業後の第一志望先は、新汰くんのお嫁さんですから」
「気が早いものですね。僕は大学に行きたいから、お嫁さんはお家でお留守番かな」
「白鷺葉波……ふふっ、素敵だなぁ。そうなれたら良かったなぁ」
「はいはい、さっさとリビング行くよ」
「はーい」
自然と彼女の手を取って、もう片方の手で彼女のトートバッグを持ち、慎重に階段をおりた。
「なんかテレビつけてもいーい? バラエティなら平気なんだよね?」
「うん。バラエティとニュースなら見る。クイズ番組は、わりと好きだよ。特に集中して見るわけじゃないけど、年末はだいたい歌番組をつけてるかも」
「あらぁ、時間かぶってるね」
「何と?」
「ううん、なんでもない。とりあえずお笑いに……あれ? お笑い番組は大丈夫だっけ」
「大丈夫だよ。コーヒーか紅茶かなんか、淹れようか?」
「ありがとう、じゃあ紅茶をお願いします。あ、クッキー持ってきたから、それ出してくるね」
「了解。本当に大荷物だよね」
「うん、まだ元気だからぁ」
彼女はリュックを漁って、クッキー缶を取り出した。四次元空間にでもなっているのかと思うくらい、いろいろと出てくるものだ。
「新汰くん、なんかお手伝いすることある?」
「いや、大丈夫。砂糖とミルク、どうする?」
「おまかせ……というか、新汰くんがよく飲む味で!」
「日によって違うんだけどなぁ。まあ、わかった」
「わぁい。わたし、こたつにいればいい? つける?」
「そうだね。こたつで待ってて。温度は弱で」
「はーい!」
わりかしスムーズだな、と思った。誰かをもてなすことなんて慣れていないのに。やはり葉波さん相手だからこそだろうか。
今日は僕も紅茶にして、砂糖とミルクの量も、彼女のものと同じにした。特に疲れを感じているときに飲むことの多い、まったりと甘めの味をしたものだ。
「はい、どうぞ」
「ありがとう、新汰くん! クッキーも一緒に食べよ?」
「こちらこそ、ありがとう」
彼女の隣に座って、こたつに入って、まずは紅茶を飲む。彼女が「わぁ、ミルクティーおいしい~」と言うのを見届けて、さらにクッキーを美味しそうに頬張るのを眺めたあとで、僕もクッキーをいただいた。甘い。
「あのねぇ、今の芸人さんねぇ、前にお会いしたとき、美味しいチョコレートくれたの。小学生の頃」
「へえ」
「この司会のアナウンサーさんはね、ちょっと毒舌なんだけど……まあ、わたしのほうが可愛いしなぁって、何か言われても流してる」
「へえ」
「……興味なさげだね?」
「そういうわけじゃないけど、僕の知らない葉波さんを知ってるんだなって思ったら、あんまり面白くない」
「独占欲?」
「そうともいうのかもね」
「えっへへ~。あ、ちょっとお水もらってもいい?」
「どうぞ。あ、入れてこよっか?」
「ううん、自分でできるから平気。ありがとう」
CMが入ったタイミングで、彼女は空いたマグカップに水を入れにいった。こたつの上にマグカップを置くと、トートバッグの中から何か取り出す。見ると――ピルケースだった。
「薬ね、飲まないといけなくて」
「……そう」
「あ、いつもは保健室とかトイレで隠れて飲んだりしてるから、新汰くんに見せるのは初めてかな?」
「そうだね。僕でも初めて見た」
「わたし、けっこう頑張って隠してるからね。病気のこと。毎日、何十錠も飲んでるの」
「大変そうだね」
「健康のためだから」
ざっと見て、十錠以上。彼女はテキパキと飲んでいった。彼女が持っているとラムネ菓子みたいに見えるけど、そうじゃない。
「葉波さん」
「ん?」
「大丈夫……だよね」
「うん。良くも悪くも、何も変わってないよ」
「だよ、ね。うん。良かった」
「わたしさ、ひとつ、酷いお願いをしてもいい?」
「うん?」
最後の錠剤を飲み終えると、彼女は真っ直ぐに僕を見つめた。優しい彼女が酷いお願いだなんて、いったい何だろう。
「新汰くんが、映画やドラマが苦手ってことは、わかってるの。わかってて言うから、酷いお願いなの」
「うん」
「今日ね――わたしの出てるドラマがやるの。年末の特別ドラマ。二時間枠の」
「……そうなんだ」
「数秒間、数分間でいいの。最後まで見てくれなくていいの。でも……見てほしい。女優のわたしを」
「…………」
「ダメ……かな」
彼女は睫毛を伏せて、しばらく黙った。僕の答えを待っていた。
彼女の前で、みっともない姿なんて見せたくない。めまいで倒れるのも嫌だし、吐くのなんてもってのほかだ。
我慢できるか、頑張れるか。これまでのことを思い出す。九年前に観たドラマのこと。今年の夏に細切れで観た「はなきえ」のこと。
「…………いい、よ。何時から?」
「は、八時から、十時まで」
「わかった。覚悟しておく。君も……僕がぶっ倒れても困らないでね」
「うん? わ、わかった。……見てくれるの? 本当に?」
「ああ。僕は確かに、映画やドラマが苦手だけど――あり得ないくらい苦手だけど……」
「……うん」
「葉波さんのことは、もっと知りたいから」
「…………やだ、泣いちゃいそう」
「泣いてもいいよ。可愛いから」
腕を伸ばしてきた彼女を、僕は受け入れる。いつものように抱きしめた。
「酔い止め飲んで、吐き気止めも準備しておく。あとバケツと新聞と消毒か。最近はわりと我慢できるようになったから吐くことは減ったけど、万が一のことがあっても驚かないでね」
「わかった。もしそうなっても、ちゃんと介抱してあげる」
「それは遠慮する。病人でも老人でもないのに、好きな女に汚れもの触らせたくない」
「そーゆープライド?」
「そう。好きな女の前でくらい、かっこつけさせて」
「好きな女って二回も言った。わざと?」
「……ストレートに言うのはまだ無理だけど、これなら言えるから」
「じゃあ、ゆっくり待ってるね。本当の言葉は」
「うん。待ってて。いつかちゃんと言うから」
「……あとさぁ、こんなときに言う事じゃないとは思うんだけどさ」
「うん?」
「こたつの中でいちゃいちゃするのって、普段よりちょっとえっちい」
「本当、こんなときに言う事じゃないな。なに、エロい気分にさせたいの?」
「なった?」
「……少し」
彼女は、からかうようにクスクスと笑った。そんな生意気な女の子のことを、僕はぎゅっとした。
「新汰くんって、そーゆーこと言うんだ」
「僕だって男ですけど」
「そっかぁ、うん、だよね、知ってた。うふふ! ……ドラマ始まるまで、どうしよっか」
「お笑いでいいんじゃない。笑う門には福来る。笑顔の健康効果」
「笑顔でいると健康になるの?」
「脳梗塞とか防げるらしいよ。血行が良くなるとか。あと、がんに対する抵抗力も高まるって」
「わたし、よく笑う子なのになぁ。腎臓なくなっちゃったなぁ」
「なんかごめん」
「笑うからこそ、まだ生きてられてるのかもね。よし、もっと笑お! 新汰くんもだよ」
「わかった。にこにこ」
「にこにこ言ってるだけで笑ってないじゃん!」
「にこにこにこ」
「もうっ!」
僕が無表情でにこにこと言うと、彼女は可愛らしく笑った。僕もつられて笑ってしまうと、彼女の笑顔は輝きを増す。好きだな、と思った。
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