第18話 またあとで

 そのうち、アンドーチェが運んできた少し冷めた茶を飲みながら、再び難しい顔をしたヴェルセット公爵は語りだす。


「結局のところは……クラリッサあの子に生きていてもらいたい、と願った人々の思いで、この国は今まで保たれていたようなものだ」


 それはこう言い換えることもできる。いい意味でも悪い意味でも、イアムス王国の人々は『行方不明のクラリッサ嬢』と事件そのものに振り回されすぎた。


 それに関しては、クロードもアンドーチェも、ヴェルセット公爵と同意見だ。どこもかしこも、少なからず事件の影響を受け、隣国ジルヴェイグ大皇国の中枢部にまでその余波が確かに届いている。


「平民出身の大臣や官僚たちは、あの子の素性を悟った上でなお信奉した。貴族出身の大臣や官僚たちも認めざるをえず、『ドゥ夫人』を容認した。国王や他のドゥ夫人たちは、最初こそ守ろうとしていただろうが、次第に自分たちや立場を守るためにあの子への依存を強めてしまった。そして……あの子は、自ら死を選んだ」

「そう……なのですか?」


 これまで、クラリッサは古井戸に飛び込んだ、とされていたが、。ドゥ夫人として権力を握っていたクラリッサを亡き者にしようという一派が王城にいなかったとは限らないし、そもそもクラリッサが自ら命を絶つ理由が明らかではない。


 しかし、ヴェルセット公爵はいくらか証拠を認めているようだった。


「ああ。真相の究明はこれからだが、すでにいくつか証言を得ている。クラリッサは、自らの仕事をやり終えた、そしてアンドーチェは私の娘だ、としたためて、井戸へ身を投げた。常用していた薬の副作用で衝動的にそうなったのではないか、とも見られているが、あの子が王城から逃げたがっていたことは確かだろう」


 ふむ、とクロードは納得しておく。その証言自体の真偽を調べることは、さすがにクロードにはできない。


 ただ、本当ならば——クロードの隣にいるアンドーチェは、そうでないことを望んでいたのではないだろうか。


 逃げ切れないほどに、クラリッサの娘だという証拠ばかり積み上がり、確証はないのにもう事実のように扱われている。アンドーチェは聡明だが、まだ子どもだ。本人が自分でさえもどう受け止めればいいか分からず、その混乱や自問自答があとを引くようなことになれば、つらいのはアンドーチェ自身だ。


 そのアンドーチェは、何とも複雑そうな様子で、何度か喉に詰まりながらもやっとヴェルセット公爵へ問いかけた。


「ヴェルセット公爵閣下。なぜ、あなたはクラリッサを……すぐに助け出せなかったのでしょう? あなたほど権力があり、武力があり、名声のある偉大なお方ならば、強引にでもクラリッサを助け出せたのではないでしょうか」


 ふいと、アンドーチェは緑の両の瞳を祖父とされる人物へ向けた。それはささやかで、別段意思はこもってもいなかったが、ヴェルセット公爵は反射的に目を逸らした。


「すまぬ。私がヴェルセット公爵という地位を捨てられれば、あるいはできたかもしれぬ」

「……いえ。出過ぎたことを申してしまいました、どうかお許しを」


 まったくもって、それは心のない言葉だ。アンドーチェの動揺が手に取るように分かるクロードは(カウンセリングは得意じゃないんだが、誰か探しておこうかな)などとぼんやり考えていた。


 三人と所在なさげな護衛二人は、しんと静まり返った部屋で、時間が止まったような沈黙が終わるのを待っていた。これから何を話せばいいのか、これからどう接すればいいのか、誰もが考え込んでいたそのときだった。


 部屋の外から、騒がしい話し声と足音が響いてきた。


 まもなく部屋内の沈黙が破られ、無遠慮かつ無礼にも部屋の扉が思いっきり開かれたのだ。


「メレディ! それに、まあまあ、アンドーチェ! よかったわ、間に合って!」


 白色の毛皮のコートと、コートの下の黒のドレスをはためかせながら、マダム・マーガリーが部屋に飛び込んできた。後ろからはヴェルセット公爵の部屋外の護衛たちと、マダム・マーガリーの付き人たちが顔を見せているが、部屋に踏み込んでは来ない。


 マダム・マーガリーは息を切らせて、肩を上下させるほど走ってきたようだ。クロードはすぐにマダム・マーガリーに近づき、努めて穏やかに、過呼吸を起こしそうな彼女を優しくなだめる。


「どうかなさいましたか、マダム・マーガリー。落ち着いて、まずは深呼吸を三度。それからゆっくり、最初からお話しください」


 幸いにして、マダム・マーガリーはクロードの指示を素直に聞いた。深呼吸をゆっくり三度して、手に持っていた黒雉の羽扇で紅潮した頬へ風を送る。


「ふう、助かったわ、アーニー。メレディ、、実行するのね?」


 メレディ、とはヴェルセット公爵のことだろう。この老公爵をニックネームで呼べるのは、マダム・マーガリーとその実姉であるヴェルセット公爵夫人くらいなものだ。


「ああ。Dr.クロードとアンドーチェを、ジルヴェイグ大皇国へ急ぎ送る」

「よかったわ。とりあえず、荷物はすぐにでもまとめて、必要最小限の人数を……ああ、私の友人でお世話をしてくれる淑女がいるの。三人で馬車に乗り、国境へ向かってちょうだい。アーニー、あとで迎えにくるから、それまでに準備を頼むわね」


 どうやら、クロードとアンドーチェの頭上では、すでに話が進んでいるようだった。


 クロードとアンドーチェは、イアムス王国から脱出し、ジルヴェイグ大皇国へ入る。それはもう確定事項のようで、逆らえそうにない、とクロードはついに諦めた。内心やれやれと呆れながら、部屋の荷物をまとめようと頭を切り替える。


 マダム・マーガリーに挨拶を、と立ちあがろうとしたクロードへ、マダム・マーガリーが自ら進んでやってきて、毛皮のコートの懐から菱形の絹のレティキュールを取り出し、クロードに握らせた。絹のレティキュールは、一体全体何が入っているのかと思うほど重いが、今中身を改めるのは行儀が悪い。


 マダム・マーガリーは、しみじみと感謝の意を伝える。


「本当にありがとう、アーニー。これは、迷惑料よ。中に手紙が入っているから、安全なところに着いてから読んでちょうだい。あなたにはジルヴェイグ大皇国領に入るまで、アンドーチェと行動をともにしてもらいたいの。それとは別途、依頼金をお支払いするわ」


 そこまで言われると何か別の責任を押し付けられかねない。クロードは即座に、別途依頼金とやらは辞退した。


「い、いえ、マダム、そこまでしていただかなくとも、アンドーチェはすでに僕の友人です。そのくらいの責任は果たしますよ」

「そう? 分かったわ、ご厚意に甘えます! アンドーチェ、行くわよ!」


 マダム・マーガリーは嵐のようにやってきて、またドタドタと嵐のように去っていこうとする。


 その後ろに付き従うアンドーチェは、去り際にクロードへ会釈した。


「Dr.クロード、またあとで」

「ああ」


 どうせこれからジルヴェイグ大皇国まで一蓮托生、ちょっとした付き合いになる。ジルヴェイグ大皇国に入ったあとも、放っておくわけにはいかないからクロードがアンドーチェと——もう一人の淑女もだろうか——の面倒を見ることになるだろう。そのときに、アンドーチェへ絹のレティキュール内の金目のものを渡せばいい。


 少しばかり頬を緩めてマダム・マーガリーの暴走を見送ったヴェルセット公爵もまた、立ち上がってさっとジャケットのシワを整えた。


「さて、私もお暇するか。これからイアムス王国は波乱の時代を迎える。可能なかぎり制御してみせるが、どう転ぶかは神のみぞ知るというところだ」

「ご武運を、閣下。あなたを知る一人の人間として、あなたの無事を祈ります」

「ふっ。アンドーチェを頼んだぞ、そら、手土産だ」


 言うが早いか、ヴェルセット公爵は自らの腰に下げていた赤鞘のサーベルを丸ごと引き抜き、クロードに押し付けた。思わず両腕で抱えるように受け取ってしまったクロードは、悲鳴にも似た叫びで抗議する。


「サーベルなんてどうしろと!?」

「我が家に所縁ある証明だ。事が落ち着けば、また会おう」


 それきり、ヴェルセット公爵は護衛たちを引き連れて、堂々と部屋を出ていった。


 パタン、と部屋の扉が閉まったあとも、しばし足音と廊下の木床が軋む音が響き、サーベルやらレティキュールやら抱えたクロードは、誰の気配もなくなってから、どっとベッドに背中から倒れ込んだ。


 慌ただしい来訪者たちは、音だけでなく匂いも残していったが、にわかに降り始めた外の雨がそのうちその痕跡も消していくだろう。


 パタパタとガラス窓に雨粒が落ち、風が吹いてきた。夜逃げするには絶好の天気だ、とクロードは心の中で皮肉った。


「……はあ。誰が生き残り、誰が死ぬか。んだよな」


 大きなため息を吐いたあと、クロードはのそのそと起き上がって、部屋を引き払う準備に取り掛かった。


 実はまだ、時刻は昼前だ。腹が減ったクロードは——ボロの木製トランクに少ない荷物を放り込んでから——行きつけになっていたカフェに最後の晩餐ならぬ昼餐と洒落込みに行くことにした。

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