第17話 老公爵は法医学者を知っていた、その上で④

 ここで想像し、考えてみよう。


 大事な娘が婚約者に捨てられ、行方不明となった。連れ戻そうとしても行方は分からず、探しに探して十数年後、元婚約者の父親の子を二人も産んでいた。しかも、もう娘は死んだと思われる。


 ヴェルセット公爵が受けた仕打ち、その心情は、結婚せず子どももいないクロードには少ししか理解できないとは思うものの、やはり再度確認してみるとあまりにも酷いと言わざるをえない。娘の死だけでもすでにヴェルセット公爵は嘆きに嘆いただろうし、あまつさえ——娘を侮辱した男の父親の子どもを産む、となると、そこに強制力が働かなかったわけがない。


 そのときのクラリッサの気持ちは如何ばかりか。それを知ったときのヴェルセット公爵の怒りは、国をも滅ぼしてしまいたいほどではなかったか。


 目の前の老人は、怒りで顔を歪ませている。つまりはそういうことで、クロードはしどろもどろになって慰めの言葉をかけようとするが、上手くいかない。


「あの、お気持ちはそのー……察するに余りあると申しますか、えーと」

「勘違いしておるようだが、私は国王もクラリッサも責められる立場にはない」


 表情とは裏腹に、ヴェルセット公爵は冷静に言い切る。


「私はクラリッサあの子に、完璧な令嬢であれと強いてしまった。どんな理不尽にも耐えろと教えてしまった、デルバートごときとの婚約などさっさと解消してしまえばよかったのに」


 完璧であれ。耐えろ。ある意味では、それは貴族の義務であり、当然のしつけだ。


 だが、クラリッサは完璧で、耐えられた。だから、デルバート王子の侮辱にも耐えてしまい、どんどんとクラリッサへ向けられる罵倒はエスカレートし、最終的にはとんでもなく屈辱的な婚約破棄の場を演出されてしまった。


 クロードからすれば、ヴェルセット公爵のクラリッサへの教えは、『呪い』に転じてしまったのだろうと分かる。義務や権利は人間の生き方や習性、慣習にひどく影響を与え、こうあれと理想像を形作る。理想を作り出すための言葉は呪いとなり、人間の一生を縛ることも珍しくはなく、そして


(クラリッサに『呪い』をかけたと、ヴェルセット公爵は理解している。負い目どころの話じゃない、公爵という高い地位や身分、家長である誇り……それらがあっても義理の娘一人幸せにできなかったと、


 理想なんか追い求めなければ、完璧など作り出そうとしなければ、あるいは——。


 それは今も、老公爵の心を蝕んでいるのだろう。


 だが、一方でヴェルセット公爵は、冷静さを決して忘れなかったようだ。


「国王はな、あれでもクラリッサを愛していた。デルバートに心を壊されたクラリッサを懸命に看病し、治してやろうとあの手この手を尽くしていた。クラリッサを隠すためにドゥ夫人という地位を作り、王城の内部情報が一切漏れないようにして、クラリッサを保護したのだ。ただ、そのうちに第二王子とアンドーチェが生まれたのは、私としては嬉しさ半分、憎らしさ半分なのだが……それでも、私は武力に訴えてでもクラリッサを引き取る、と言い出せなかった。また間違えて、あの子を追い詰めてしまうのではないかと、怖かったのだ」


 クロードは相槌を打つことも、返事をすることもできないが、「うぅむ……」と小さく唸って話を聞いているとアピールする。


 それに、ヴェルセット公爵は己の地位身分を捨てないし、その責務を全うしようとしているのだから、


 その証拠に、ヴェルセット公爵の発言には、再び不穏な空気が流れはじめた。


「私は、王城の内部のことはこれ以上詳しくは知らぬ。ドゥ夫人を務めたある女から、少しばかり聞き出しただけにすぎぬ。であれば、私はヴェルセット公爵として、クラリッサの義父として、いつかは明らかにせねばならぬことが多すぎる。国王はあの出来の悪い息子と違ってそれなりには有能だ、だからこそ今まで準備をして待ちつづけた。その罪を裁く場を作り、息子ともども処刑台へ送ってやるために」


 だんだんと、老公爵の語勢が荒くなり、興奮が見て取れるようになると——クロードは返事をしないよう努力していたにもかかわらず、と、自分の立場を守るよりも先に、つい口から突いて出た。


「そのために、国を滅ぼすのですか。この国はもう大概弱っています、内乱なんかあれば影響は王侯貴族から罪のない平民まで、とんでもないことになりますよ」


 ヴェルセット公爵は、強く頭を横に振る。


「これはけじめだ。娘を持つ父としてだけでなく、王に仕えた公爵として、過ちを犯しなお正さぬ王冠の所持者を排除する義務がある。何度となく私は交渉しようとした、せめてクラリッサを自由にしてやってほしいとも伝えた。そしてそれは、叶わなかった」


 眉険しく、歯を食いしばる音さえ聞こえてきそうなほどの悲痛な口元からは、その堅固な決断が言葉という形になって現れ、クロードの懸念に実現性を持たせていく。


「クラリッサの死後、ドゥ夫人を演じる女たちはその結束が乱れたそうだ。ゆえに、外部と連絡を取ろうとする者、ドゥ夫人を演じ切ろうとする者、王妃の座を復活させようとする者などが現れ……その綻びのおかげで、あの異様な鉄壁を築いた王都にもついに穴が空いた。大臣や官僚どもは今の体制を守ろうとするだろうが、国王がどのような判断を下すかはまだ分からぬ。私はもう少しだけ、待ってやるつもりだ。自ら首を差し出すならそれでよし、徹底抗戦の構えを見せるなら我が軍で蹂躙するまでのこと。そう決めたのだ、私は」


 そこまで言って、老公爵は息を整える。


 クロードはとにかく、思考を巡らせるしかない。


 この老公爵は分かっているのだろうか。このままでは最愛の娘は傾国の悪女として歴史に名を残しかねない、たかが婚約云々で国を滅ぼすなど正気の沙汰ではなく、本人も王殺し、王族殺し、反乱の首魁として戦争を起こし、無辜むこの民を巻き込んだ罪に問われることになる。もはや、一公爵家令嬢の失踪程度の話ではなく、一国の滅亡と数百万以上の民の窮乏、数えきれないほどの犠牲の原因、遠因になる覚悟を決めてしまえば、最悪今後五百年のこの地域の失落する運命を決めることと同義になる。


 もちろん、クロードには関係ない、と言い張ることもできる。所詮は他国の話、アンドーチェさえ逃がせればもう関わりはなく、滅亡しようが再興しようが知ったことではない。


 問題は、ということだ。


 別に、熱血漢や正義漢といったカテゴリはクロードとはまったく無関係だ。


 そうではなく——まだ手が残っているにもかかわらず、安易に見過ごし降参することは断じて罷りならん、というだけのことだった。


 クロードは、一か八かの賭けに出た。


「ヴェルセット公爵、クラリッサの遺体の安置場所はご存じですか」

「いや……おそらく王城だろうと」

「あの白骨死体を返してもらえるなら、どこまで譲歩できますか? せめて、王都へ強引に攻め入ることは避けられませんか?」


 これには、ヴェルセット公爵は少々驚いていた。分かりやすく目を剥き、品定めする視線をクロードへ投げかける。


 無視されたり、一蹴されたりしなかったのなら、しめたものだ。クロードは滑舌を気にしながら、思いつくかぎりの大演説をぶちまけることにした。


「残念ながら、あなたの最愛の娘は死んでしまっている。しかし、遺品はマダム・マーガリーがいくばくか保管しているし、遺体が揃っていればきちんと葬って、悼むことができる。その心の区切りは大切です、僕はそれすらもできない人々を多く見てきましたから」


 死体すらないのに娘は死んだと嘆くのは、これ如何に。


 愛する娘の死体ならば、取り戻したいと願うのは親心だ。そして、それは大きな大きな心の区切りとなって、最終的には老公爵の気分を和らげるだろう。


 まだヴェルセット公爵に答えは出させない。クロードは一息に続ける。


「僕は昔、医師を志していました。平民に没落して、すっかり病に冒された父を治してあげたかったんです。お金もなく、嘲笑われ、後ろ指差されるような立場になって、苦しんで死んだって誰のためにもならない。なのに、僕は間に合わなかったんです。父は、貴族だったころ雇っていた使用人たちに恨まれていて、病で死ぬ前に殺されましたから」


 それを思い出すだけで、クロードは乾いた笑いが顔に浮かんでくる。


 クロードの父、エルネスト・クロードという新しい名前をつけて生きていくことになった原因であるその人は、大層恨みを買っていた。お前が余計なことを言い出さなければ偉大なるロマン・リュミヌーは落ちぶれず、輝耀家テトクラとしてジルヴェイグ大皇国の繁栄を支えたであろう、と。


 そして——不肖の父が殺されたとき、クロードは『貴族の行動の影響は、大多数の末端の人々の人生さえも一変させる』と思い知ったのだ。


「そりゃそうです、主人が間違ったことをしたから使用人たちは解雇されて途方に暮れた。落ちぶれたのは父や僕だけではない、使用人たちもまた貧困に喘ぐこととなった。おまけに、仕えていた家の悪評のせいで次の雇用先がなかなか見つからない。そうなれば、恨みは募るでしょう。逆恨みではありません、そんな不幸に陥ったのはかつての主人のせいなんですから」


 当時、クロードは、故郷から遠く離れた帝立フローリングス大学の学生寮で、病の床で殺害された父の惨状について母からの手紙を受け取った。大学三年目の学年主席の座は獲得できそうだと先日手紙を送ったばかりだったというのに、まもなく帰ってきたのは父の訃報だった。


 平民となっても、貴族だったころに犯した罪は消えず、責任を取るよう迫られ、命をもって償わされる。なんともまあ、世の中はクソなものだ、と呆然としながら思い至ったことを、クロードは思い出した。


「大学にいた僕は訃報を聞いて、自棄やけになって医師への道をかなぐり捨てて、どこかへ逃げようとしました。でも、そのとき教授が僕を捕まえて、誰もが嫌がる仕事に就かせたんです。あちこちの警察や貴族から依頼された検死作業に——四六時中死体を解剖して調べて戻しての作業に、僕は没頭していって、その経験を活かしていたらいつのまにか教授の後を継いで法医学者になっていたんです」


 そんな数奇な巡り合わせから、クロードは生きている人間を相手にする医師とはならず、死んでいる人間を相手にする検死医、法医学者となった。


 死体の解剖は思った以上にクロードをへ導いた。死体を解剖するだけではない、その死体がなぜ死ぬことになったのか、誰が殺したのか、生前何をしていてそうなったのか——ここに至る運命はどのようなものだったのか、それらを詳細な資料とすることも求められた。運ばれてくるものには貴族の死体もあれば、平民の死体もあり、外国人や奴隷の死体もあった。それらの生まれてから死ぬまでの人生の記録を知識として貪欲に蓄え、文章として書き起こして脳みそに刻み、保存や鑑賞に耐えうる資料をそれこそ資料室がいくつも満杯になるまで続け、今もなおモットーとする若きクロードの出した結論は、こうだ。


「つまり……まあ……言いたいことはですね。


 死んだ人間が、今を生きている人間に死へ近づけるような悪影響を与えているのなら、それは亡霊か何かだろう。


 クラリッサは死んだとされた。国王は生きており、デルバート王子も生きている。第二王子、第三王子、他のドゥ夫人、アンドーチェも生きている。


 なら——亡きクラリッサのために、ヴェルセット公爵ができることは、何だろう?


 少なくとも、生者を死の淵に落とすことではないはずだ。それ以外にも、ヴェルセット公爵という偉大な人物の手には、たくさんの選択肢が生み出されているのだから。


 クロードの話に感動も感嘆も呼び起こすような要素はなかった。


 だが、ヴェルセット公爵は誠実で高潔な人物だ。クロードの主張を、無視することはできなかったのだ。


 やがて、目を逸らしたヴェルセット公爵は、こうつぶやいた。


「もういい、もう言わずともよい。無益な殺生はせぬよう、努力はしてやる。これでいいか」


 クロードは頷く。


 それがクロードにできる、最善だっただろうと信じたかった。

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