カルアミルクを飲むと思い出す
春雷
第1話
酒が強くない僕は、家で一人、カルアミルクを飲んでいた。
ああ、思い出すなあ。彼女との思い出。
彼女、カルアミルクを飲む僕を見て、笑っていたっけ。
彼女と別れて、もう何年も経つってのに、いつまで未練たらしく、覚えている。彼女の口癖、仕草、何もかも。
ああ、思い出す。
彼女は、いやなことがあると、コンビニでカツ丼を買ってきて、そのカツをひとつ、箸でつまみ上げ、ゆっくりと、丁寧に、くるぶしにつけるのだ。何度も何度も、カツをくるぶしにつけるのだ。右を多めに、左を少なめに、カツを、丁寧に丁寧に、くるぶしにつけていく。
その仕草を見ると、僕は彼女に何かあったの? と優しく尋ねて、彼女の愚痴を一晩中聞いた。どうやら彼女には、職場に許せない人がいるらしい。彼女はいつも頬にヨーグルトを含んでいるのだが、職場の人はねぎまを含んでいるのだという。頬に串が貫通していて、そこからねぎの緑が覗いて見える。その緑がどうしても許せないのだと言う。
僕にはどうにも共感できない話だったが、とりあえず僕は頷いていた。理解はできないが、彼女の話を聞くのは大好きだったのだ。
「君は緑が嫌いなんだね?」
僕がそう言うと、彼女は首を横に振った。そういうわけじゃないの、と。
「ほら、見て」
彼女は長い髪をかき分けて、自分の右耳を出した。それを見て僕は驚いた。
彼女は、ほうれん草のピアスをしていたのだ。生のほうれん草のピアス。僕は生の野菜を耳につけている人を初めて見た。
「祖父からもらったの」
「へえ」
「おじいちゃんはね、このピアスの他にも、たくさんのものをくれたのよ」と彼女は言う。「たとえば、いつも私に会うたび、プラモデルの部品を一つだけ、渡してくれたの」
「なるほど、ディアゴスティーニみたいだね」
「ナチュラルボーンディアゴスティーニおじいちゃんだったの、うちのおじいちゃんは」
「いや、それはちょっとよくわからないけれど」
「とにかく、私はそのプラモデルの部品を一つ一つ、きちんと組み合わせていったの。そして、ついに完成したの。何ができたと思う?」
「さあ。さっぱりわからない。見当もつかないな」
僕は頭を掻いた。本当に見当もつかなかった。そして彼女は言った。
「飛行機の右翼だったの」
僕は頭を殴られたような衝撃を受けた。
「飛行機の右翼? てことは、君のおじいさんはずっと、飛行機の右の翼の部品を、ちまちま君にあげていたっていうのかい?」
「ええ。小学校1年生から大学3年生までかけて、300回以上おじいさんと会ってようやく、飛行機の右の翼だけが完成したの」
「気の遠くなるような話だな。いったいいつ完成するってんだ、そのプラモデルは。サグラダファミリアかよ」
「ええ。ナチュラルボーンサグラダファミリアディアゴスティーニ型飛行機あげるよ系おじいさんだったの」
「それに関しては、まったくよくわからないんだけれども」
「そんなナチュじいなんだけど」
「略すな」
「去年、新しい挑戦を始めたのよ」
「新しい挑戦?」
そんなわけのわからないじいさんがする、新しい挑戦? 僕の比較的常識的な頭では、それがどんな類の挑戦なのか、まるでわからない。僕の頭が凝り固まっているのか、ナチュじいの頭がおかしいのか。というか、彼女の家系はどこか様子がおかしい人たちばかりなのかもしれない。
「それはね、自分の化石化よ」
僕は耳を疑った。「自分の、化石化?」
「ええ。うちのナチュじい、化石になりたがってるの」
「どうして化石に・・・?」
まともな大人がやりたがることとは思えない。僕は化石になりたいなんて思ったことがないから、それがどういう思考過程を経て、形成された夢なのかわからない。化石になりたい? いったい何を言っているんだ。
「どちらかといえば、示準化石になりたいみたいなの」
知らねえよ。
「でも、実際問題、化石ってどうやってなるんだよ。そんな簡単になれるものなのか?」
「だから今、ナチュじいは大学に行くために勉強してるの。専門的に研究して、自分を化石化するんだって」
「世界初の動機じゃないか? 大学に自分の化石化目的で入るやつなんて。どんなじいさんなんだよ、まったく」
「ね、おかしいよね」
いや、君も大概だよ、という言葉を僕は飲み込んだ。結局、変人に君は変人だと言ったところで、意味などないのだ。鳥に、空を飛べるなんて変だよと言ったところで、鳥は空を飛ぶことをやめはしないだろう。人はそれぞれ、ささやかな信念みたいなものがあって、意識的にせよそうではないにせよ、その信念に縛られながら生きている。誰に何と言われようとやめられないことはある。欠点なんてどれだけ修正してもなくならないものだし、そもそもその欠点が本当に欠点なのか、むしろその欠点こそ人を愛すことのできる最大の要因なのではないか、などと、僕は思ったりする。
だから僕は彼女に何も言わなかった。
僕は彼女の妙な癖が好きだったし、欠点も愛していたから。
彼女自身は、お酒が好きではなかった。でも彼女は、人がお酒を飲んでいる姿を、磨りガラス越しに見るのが好きだと言う。だから、僕は彼女を喜ばせるために、飲めもしないお酒を飲んで、気分を悪くしていた。彼女は磨りガラス越しに、そんな僕を愛おしそうに眺めていた。磨りガラスで表情は見えなかったが、彼女は笑っていたんだと思う。だって笑い声が聞こえてきたから。僕は彼女の笑い声を聞くのが、何よりも大好きだった。ヤモリのような笑い方をする、彼女の笑い声を聞くのが。
その時、僕は毎回、カルアミルクを飲んでいた。カルアミルクで、彼女を笑わせていた。
だから、カルアミルクを飲むと、彼女を思い出す。
今はここにいない、彼女を。
カルアミルクを飲むと思い出す 春雷 @syunrai3333
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