ホワイトキャンパスエンドロール

丸膝玲吾

第1話

彼に絵を諦めて欲しい、と思った。


彼と私の住む家には一つだけ、南向きの部屋がある。その部屋には椅子、机が所狭しと並んでいて、まるでその部屋分しか賃料を払っていないかのように、私たちは南向きの部屋だけで一日を過ごし、寝るときだけ北向きの寝室を使った。


南向きの部屋には、他の家ではあまり見かけないものが置かれてある。窓際に置かれたキャンパスは、かれこれ半年、何の色も塗られていない。それは別に、雪に覆われた街並みとか、夏空に積み上げられた入道雲とか、二人で買った白いマグカップの側面を表しているのではなかった。それはただ単に、彼の枯渇した情熱が浮き出たものだった。


彼は今日も、朝、寝室から出てきて、寝癖を直さず、歯も磨かず、顔も洗わずに南向きの部屋に入って、部屋の隅からイーゼルを取り出し、キャンパスの前に置いて、座った。キャンパスは窓に背を向けていて、彼は陽の入り込む窓とキャンパスに正面から対峙している。


私は彼の後ろからコーヒーを片手に椅子に座り、部屋の風景を眺める。サンダルの裏のような彼の背中は、時間が経って部屋に日が差し込むほどに縮んでいく。彼の背中姿が白いキャンパスにすっぽりと収まる。


鼻から息を吸う。最近買い替えたコーヒーの匂いを鼻が受け付けない。店で試飲した時はかなり良かったはずなのだけど、と後悔する。


静々とコーヒーを飲み進めた。コーヒーの最後の一滴を口に入れ、立ち上がってすぐに台所に向かう。底に渋がこびりつく前に洗っておこうと、最近は気をつけるようにしているが、めんどくさい時は水を張ったボウルに突っ込んでいる。蛇口を捻る。堰き止めたダムが決壊したごとく、水が勢いよく流れ、家中に飛沫の音が響き渡った。


音に敏感に反応した体が、びくんと跳ねて、すぐに蛇口をひねって水量を調節する。ちらり、と彼の方を見る。彼は白いキャンパスをじっと見つめている。カップを網棚の上に置き、棚から小説を手に取って、さっき座っていた椅子に戻った。吐息がやけに唇を触り、気になるから呼吸を調節しようとして、はすはすと音が漏れる。ちらり、と彼の方を見る。彼の背中は微動だにしなかった。


内容も知らずに買った小説は、驚くほどに面白くなかった。話題沸騰とでかでか書かれた帯がついていたから、期待が上がっていたのが悪かったらしい。現代のマイノリティ問題について問題提起する社会派の小説だったのだけど、それは私がこれまでに何百回と自問自答してきたものだった。今更、この問題について何か新たな見聞が得られるものではなかった。


自分の中で一旦区切りをついた問題を掘り起こされるのはむしろ不快であった。私はその小説を半ばまで読んで、机の上に置いた。いくつか伏線のようなものがあったから、これから回収されるのだろう、と思ったが、その答えを知りたいとも思えなかった。東側の壁にかけられた時計を見る。針はまもなく十時といったところ。読み始めてから一時間とちょっと経っていた。イーゼルに座る彼は、右足を折りたたんで座面の上に載せていた。同じ体勢でいるのに疲れたのだろう。今日初めて彼の人間らしい姿を見た。


徐に彼は立ち上がり、白いレースのカーテンを開けて、続けて窓を開け、ベランダに出た。アパートは坂の途中に立っていて、部屋は三階にあった。格別いい景色、というわけではなかったが、私は案外その景色を気に入っていた。彼は柵に手をかけて景色を眺めていた。 


風がカーテンを膨らませ、キャンパスを撫でて私を通り抜ける。春が来る。草木が勢いを取り戻し、虫たちが活動を始め、日光にさらされた埃とカビが空気中を旅する、そんな匂いがした。彼の背中姿を見ながら匂いを感じた。彼も私と同じ匂いを感じているのだろうか。彼がこの匂いを好いていると良いな、と思った。


私は立ち上がり、イーゼルに座った。キャンパス、膨らむカーテン、柵にもたれる彼の姿が順に見えた。全体的に視界が白かった。その白さは二種類に分かれた。一つは入り込む光の白さ。そしてもう一つは、キャンパスの、無の白さ。そこに光も物体も、音も匂いも何もなかった。見れば見るほど不安になる、そんな白さだった。


私は風に揺れるカーテンを手で制し、裸足のままベランダに出て彼の横に並んだ。彼からは何の匂いもしなかった。白いキャンパスが脳裏に蘇ってきた。それは私たちの未来を暗示しているように思えた。


「諦めよう」


彼は私の方を見た。顔には僅かに笑みが浮かんでいた。なぜかどこかの砂浜が脳内に浮かんだ。ざざーと波が静寂を強調した。日の光を浴びた彼の目に、微かな潤みを見た。サファイアのように輝く彼の目に見入って、波の音をより一層強く感じた。


「綺麗だね」


彼は景色を眺めて言った。私は、あぁ、また声に出すことはできなかったのだ、と項垂れた。彼に絵を諦めさせることは、今日もできなかった。


彼に絵を諦めて欲しい、と願う私は地獄に落ちるのだろうか。彼が絵から解放されるのは死んだ時なのだろうか。絵に私は存在しないから、あなたは現実で生きるのではないか、と言いたかった。


私は今日も、彼を選んだ。叶わない夢を見て、絵を描こうともがき、現実から逃れようとする、彼を。私と共にいる、彼を。

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