第40話 謀略(選考対象外)

 身支度を済ませた美澪は、一度廊下に出て夫婦の寝室の前を通り過ぎ、イリオスの居室兼執務室の扉をノックした。するとすぐに「入れ」というイリオスの声が聞こえてきた。美澪は遠慮なく入室する。


「失礼いたします。イリオス殿下」


 軽くお辞儀をして頭を上げると、掃き出し窓を背にして机に向かっていたイリオスが、手にしていた書類を執務机に置いて席を立った。


「そこに座ってくれ。茶と菓子を用意しておいた。好きに食べるといい」


 美澪は示された方向を一瞥し、「ありがとうございます」と言って席に座った。


「……あの、殿下」


「なんだ?」


「ヴァルとメアリーの姿が見えませんが」


 美澪が困惑気味に訊ねると、イリオスは、いま気がついたと言わんばかりの表情を浮かべた。


「ああ。……二人には席を外してもらった」


 それを聞いた美澪は勢いよくソファから立ち上がると、執務机の前に立ち、背筋をスッと伸ばしてイリオスの目を真正面から見据えた。


「っ、なぜですか?」


 警戒心を隠そうともしない美澪を見て、イリオスはククッと含み笑い、切れ長の目尻を和らげる。


「私と君の……今後のことをじっくり話すためだ」


「今後のこと……?」


 美澪が眉をひそめると、イリオスは銀縁メガネを外しながら、「さぁ」と着席を促した。美澪はイリオスにエスコートされて再び元の位置に座る。そして、その向かいに座ったイリオスが茶を勧めてきたので、美澪はしぶしぶ一口だけ嚥下した。


「うまいか?」


「ええ、まあ」


 随分そっけない反応だったのにもかかわらず、イリオスは満足そうに微笑みを浮かべ、自分も一口飲んでカップをソーサーに戻した。


「それで、今後のことなんだが。新婚旅行と称して、我々はひと月程、離宮に籠もることになる」


「なっ!」


「ちなみにこれは、すでに国王陛下から許可を頂いている。逆らい抵抗すれば、王命を拒否したことになり、そなたの身近な人間から投獄されていくだろう」


「そんな……! ひ、卑怯だわ!」


 怒りに駆られた美澪は、勢いよくソファから立ち上がる。すると突然、視界が大きくブレて、激しいめまいに襲われた。


「あ、あれ……? あたし、ど……したの……?」


 目蓋を開けておくこともままならないほどの強い睡魔と、四肢を襲う虚脱感に苛まれた美澪の身体が、なんの前置きもなくぐらりと前にかしいだ。


 しかし美澪の柔い身体は、こうなることを見越していたイリオスの腕の中に、危なげなくすっぽりと収まった。


「ぃ、や……離してぇ……っ」


 美澪は力の入らない腕で、イリオスの胸板を押したり叩いたりして、なんとか腕の中から逃げ出そうともがく。


 だが必死の抵抗虚しく、美澪は簡単に自由を奪われてしまった。


「……許してほしいなどとは言わない」


「う、うぅ……やぁ……っ!」


「……ひと月の間でいい。俺だけを見てくれ、ミレイ。そしてゼスフォティーウ神よ。我らに、」


 ――子を授け給え。





「ふーん。なかなか面白いことを考えるじゃないか。人間イリオスのくせに」


 メアリーは城内にある、貴人用の牢に囚われ、ヴァルは美澪の居室に封印されていた。


 カンテラと蝋燭を使ったエクリオのまじないのせいで、ヴァルは力を封印されてしまった。そして皮肉なことに、この呪いを完成させたのは……美澪だった。


 ヴァルは手に持ったマッチ箱を何度も投げて遊び、ふいに箱の肖像画を見てうっそりと笑みを浮かべた。


「笑いが出るほど初代王ゼスフォディーウに似ているな。エクリオ王にイリオス王太子。……ふぅ。……一刻も早く美澪を迎えに行きたいところだけど……その前に、そろそろ話をつけなきゃね……トゥルーナねぇさん?」


 その瞬間、キャンドルの火が不自然に揺れてかき消えた。


 しかしヴァルは、気にした風もなく、無言でマッチを擦った。そして、結界内でも僅かに操作できる水の神力を行使しながら、部屋中のキャンドルに火を灯していく。


「さあ、出てきなよ。ねぇさん。久し振りに姉弟喧嘩と洒落込もうじゃないか! あはっ。あははははは!」


 ヴァルが哄笑こうしょうしながらくるくる回転していると、ろうそくの煙たさを一瞬でかき消す、清涼な水の気配が現れた。


『……あなたは相変わらず元気ね』


「ねぇさんは相変わらず陰気だね。……だから捨てられたのさ。ゼスフォティーウにね」


『んふふ。……なかなか言うじゃない』


 妖しげに笑ったトゥルーナを見て、ヴァルは不敵に笑った。


「いま、ボクの大切な女の子が危険な目に遭ってるんだ」


 ヴァルが顔を曇らせて言うと、トゥルーナは、かかとまである長い髪をいじりながら『まぁ。それは大変ね』と興味なさげに口にした。だからこそ、ヴァルの口角は上がる。


「……ねえ。ねぇさん。ねぇさんは美澪の身体を奪って、何がしたいの?」


 感情のこもらない声で淡々と訊ねた質問に、余裕綽々よゆうしゃくしゃくとしていたトゥルーナの表情が暗澹あんたんたるものに変わっていく。


『ヴァル。そんなことを聞いてどうするつもり……?』


 たちまち警戒の色が濃くなったトゥルーナに、ヴァルは喜悦に満ちた顔をした。


「ボクがねぇさんのことを助けてあげるよ。……ねぇさんは、ゼスフォティーウに愛されたいの? それとも復讐がしたいの?」


『わたくしは……愛されたい。愛して、愛して、愛して尽くしてほしい……!』


 暗く濁っていた瑠璃色の瞳に、ほんの僅かに光が戻る。


「……ねぇさん。いい方法があるんだけどさぁ……聞きたい?」


『……ええ。お前は昔から頭がよかったもの。教えてちょうだい。わたくしに』


 想定通りの言葉を導き出すことに成功したヴァルは、『ねぇさん、あのね』と幼子おさなごのように無邪気に笑った。

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