第31話 アクアリウム(選考対象外)

 寝室の明かりを落とし、一人になったベッドの上で、美澪はヴァルとの会話を思い出していた。


「やっと話してくれた」


 美澪はヴァルの独白を盗み聞きしたようなものなので、女神ヴァートゥルナが実は双子神で、ゼスフォティーウを救い愛したのはトゥルーナだったと聞いて、どんな顔をすればいいか分からなかった。


(でもこれで、確実に確認することができたわ)


 美澪が、『自分の身体に2人分の心が共存している』と感じた感覚は当たっていた。


 ――美澪の心の中にトゥルーナがいる。


 それで納得がいった。


 図書室での件も、神域での件も、イリオスと初めて会ったときの件も、すべてトゥルーナが関係していたということだ。


(トゥルーナさんと話ができればいいのに)


 美澪は自分の胸の中心をトントンと叩いた。


「トゥルーナさん、聞こえますか? トゥルーナさん?」


 ……当然、声が返ってくることはなく、美澪は「なにやってるんだろう」と空笑いしつつ頭をかいた。


(それにしても)


  グレイスとイリオスの問題ことをどうするか考えなくてはいけない。


 ヴァルはイリオスの浄化を止めて、王家も民もエクリオごと消滅させたいと言っていたけれど、そんなこと、出来るわけがないと却下した。


 だからといって、ただ利用されて死ぬつもりはない。


(あたしは元の世界に帰るの!)


 エクリオの都合で召喚され、エクリオの都合で殺される。そんなのは間違っているし、認められない。


 美澪は突然、全てを奪われてこちらの世界ペダグラルファに連れてこられた。もう二度と帰れないと言われ、絶望感に襲われても、前を向いて過ごしてきたつもりだ。


(……それなのに、見当違いの嫉妬で命を落とすことになるかもしれないなんて)


 美澪は瞳を閉じて、イリオスとグレイスの姿を思い浮かべた。あの日、謁見の間で感じたグレイスの悪意は、やはり勘違いなどではなかったのだ。


(あたしのせいじゃないのに)


 美澪はギリッと奥歯を咬みしめた。


 こちらが被害者だというのに、なぜ、逆恨みされなければならないのか。一方的に搾取されているのは美澪の方だ。


「……絶対に生きて、元の世界に帰るんだから」


 美澪は決意を新たにして、頭からシーツを被った。





 ――泣き声が聞こえる。


 ため息にも似た、今にも消えてしまいそうな儚い泣き声が、どこか遠くから聞こえてくる。


(……だれ? 誰が泣いてるの……?)


 美澪は泣き声にいざなわれるように、ふるりと睫毛を震わせて眠りから覚めた。


(え?)


 すると驚くことに、眼前には、アクアリウムに似た景色が広がっていた。


(どっ、どういう状況!?)


 美澪は水の抵抗を受けながら、きょろきょろと周りを見渡した。


 水草は揺れ、流木はどっしりと腰を据えて、その樹洞ウロの間を、色とりどりの淡水魚たちが思い思いに泳いでいる。


(これは、夢……?)


 しかし、ただの夢にしては現実味があり、既視感を覚えた。


 柔らかな陽光が差し込む、サファイアブルーの水の中。


 群れで踊るように泳ぐ魚たちを瞳で追いながら、美澪は茫然自失に陥りかけ……、「あれ?」と首を傾けた。


(水の中なのに息ができてる)


 確かめるように何度も喉に触れ、吐き出した水泡が水面に向かって昇っていく様子を、信じ難い思いで見上げた。


(この感覚。前と同じだ……)


 呼吸をするたびに小さな口からこぽりこぽり、と水泡が生まれ、大小様々なそれらが水面に向かって浮上していく。


 美澪はそのさまをぼんやりと眺めながら、自分の存在を確かめるように身体を抱きしめ――顔を強張らせた。


 まさか、と思いながら、身体のあちこちを触った。そして、美澪は目を丸くして身体を見下ろした。


「……なんで?」


 美澪が身に纏っているのはドレスや寝間着ではなく、召喚された時に着ていた空色のセーラー服だった。


 ゆらゆらと揺れ動くスカートの裾を見つめて、思考を巡らせる。


 重力を失った紺青の髪はふうわりと波の形にうねり、力が抜けた両腕は水中を揺蕩った。


 ――もう二度と着ることはないと思っていた制服。


 考えるな、忘れよう、と捨て去ろうとしていた郷愁の思いが蘇りそうになる。しかし――


(使命を果たすって決めたじゃない! それで堂々と元の世界に帰るって!)


 そう思った時だった。背後にひとの気配を感じたのは。


『帰りたいの?』


 美澪は水の抵抗を受けながら、勢いをつけて振り向いた。


『ねぇ、帰りたいのでしょう?』


 ただその言葉だけを問いかけてくる少女は、ヴァルと瓜二つの容姿をしていた。


「あなた……もしかして、トゥルーナさん?」


 美澪が『トゥルーナ』と名を口にした瞬間。


 終始、無表情だった少女の顔が、蠱惑的な表情に変化した。そして、少女の姿から大人の女性の姿に為り変わったトゥルーナは、踵まで伸びた、ゆるく波打つ紺青の髪を一房手に取った。


 トゥルーナは手の中の髪をいじりながら、口元だけに笑みを湛えると、美澪の瞳を真っ直ぐに見て口を開いた。


『残念ね……。どんなに願っても、あなたは故国に帰れない』


 ヴァルと同じことを言われて、美澪は拳を握りしめた。


「それは本当に真実なの? ヴァルもあなたも帰れないって言うけど。この世界に喚べたんだから、帰る方法だってあるんでしょ?」


 眉をひそめて問いかけると、トゥルーナは興味を無くしたように髪から手を離し、緩慢な動作で美澪を指さした。


『消えて』


「なっ、」


 予想外の暴力的な返答に、唖然として二の句が継げなかった。


 美澪が何も言えないでいるのを、肯定したと認識したらしいトゥルーナは、嬉しそうに微笑んで首を傾けた。


『一つの肉体に、一つの魂。そこに二つの人格はいらないわ。あなたはゼスフォティーウ様を愛していないのでしょう? だったら、その魂と肉体をわたくしにちょうだいな』


 言って、トゥルーナが指を一振ひとふりした瞬間、先程まで穏やかだった水中が、大きく揺らぎだした。


 水はその形を認識できる程に、幾つもの太い水柱みずばしらとなってうねりだし、意思を持った生き物のように渦巻いて、美澪の身体を拘束した。


 ――トゥルーナに消される。『美澪』の人格を。


 美澪はふつふつと湧き上がる激情に駆られ、腹の底から叫んだ。


「あたしはあたしよ!! あたしがトゥルーナあなたと同じ魂を持っていても、この身体は人間である泉美澪の身体で、魂だってあたしのものよ!!」


 トゥルーナからの返事はない。


 しかし、身体を締め上げる渦は勢いを増し、台風の目のように肥大していく。


「きゃ……っ!」


 美澪は顔を両腕で庇ったが、流動に耐えきれなくなり両目を瞑った。そして先程までは可能だった呼吸をすることが難しくなって、激しく渦巻く水流が、声を封じるように呼吸を奪っていく。


(あたしを殺す気なの……!?)


 ――もう息が持たない。


 全てを諦めかけたその瞬間、


「ダメだよ、ねぇさん。美澪は渡せない」


 そう言ったヴァルの声がして、美澪の身体は糸が切れた人形のように弛緩した。四肢は力なく放り出され、瑠璃色の瞳は光を失い、意識は朦朧と霞んでいく。


 そして――


『どうして? どうして邪魔をするの? どうして誰も、わたくしを愛してくれないの?』


 顔を覆うトゥルーナの姿を霞む視界の端に捉えた。


 トゥルーナのか細い声が耳朶じだを打つ。


(……あたし、本当に帰れないの? どうしてあなたは愛されたがるの?)


 そう思った美澪の耳に、『わたくしを愛して』と悲痛な言葉が聞こえた。


 その記憶を最後に、美澪の意識は、暗い水底みなぞこへと沈んでいった。

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