第5話 帰れない

「あたしがいるって、今はいますけど……。あの、あたしが言いたいのはそういうことじゃなくて、」


「そういうことだよ」


「っ、でも……」


 ヴァルの言葉に強い意志を感じて思わず気圧されてしまう。


 美澪が何も反論できないでいると、ヴァルの白く長い指先が、まろい頬をそっとなでてきた。


「っ、」


 節が目立たないしなやかな手は、ゾッとするほど冷たかった。――まるで死人のように。


 けれどそれに反して、美澪に向けられた視線には、美澪の動きを封じるだけの熱量が感じられた。


 ヴァルの夜空をほうふつとさせる瑠璃色の瞳が、水面に反射した光を吸収してキラキラと輝いている。その満天の星屑ほしくずのような輝きに瞳を奪われた美澪は、ヴァルと見つめ合ったまま、彼から視線をそらすことができなかった。


「美澪……」


 美澪の輪郭をゆっくりとなぞったヴァルは、そのまま流れるように髪を一房だけすくうと、優雅なしぐさで口づけた。


「美澪、よく聞いて。ボクの心が穏やかなのは、キミと一緒にいるからだよ。……そもそもボクの心の中には、美澪一人分のスペースしかない。だから変じゃないんだ。けがれのない美しい空間に、ボクと美澪がいる。ほら、ね? ボクの神域はこれで完成してる。完璧だよ」


 ヴァルは軽く歌うような調子で言い、それからこてんと首をかたむけた。


 長い指先が、紺青色の髪からするりと離れていって、呼吸が楽になった。どうやら知らぬ間に、息を止めていたらしい。


 美澪は深呼吸をして、震える喉から息を吐き出した。


「……でもあたしは、ずっとここにはいられません」


「うん、そうだね」


「あたしがいなくなったらどうするんですか? どうして、」


 ――どうしてあたしに執着するの?


 そう問いかけようとしたが、とっさに唇を引き結んだ。ただなんとなく、触れてはいけない気がしたのだ。


 まかり間違っても、先程と同じ失敗を繰り返してはいけない。


 ヴァルの能面のような無表情が脳裏によみがえりそうになり、どうにか頭の隅に押し遣った。


「ねぇ、もしかして美澪。ボクのこと心配してくれてるの?」


「えっ」


 ――突然、何を言い出すのか。


 ヴァルに奇妙な懐かしさを感じているのは確かだが、それと同時に、本能的な恐怖心を抱いてもいる。


(ヴァルを怖がってるあたしが、ヴァルを心配している……?)


 わずかな親近感と恐怖感。二つの相反する感情に戸惑っているというのに。


 しかし美澪は、本心とは真逆のことを口にした。


「そう、ですね。心配してるのかも、しれません」


 これがその場しのぎのごまかしなのか、それとも一握りの本心なのか、自分のことなのに分からなかった。


 ここから抜け出したい。そのためには、ヴァルの力が必要な気がする。だから、ヴァルが望んでいるであろう事を言っただけ。


 しかし美澪が、ほんの少し罪悪感を覚えたのは確かだった。


「美澪は優しいね」


「っそ、そんなことは……!」


 弾かれたように顔を上げる。すると、とろりとした瑠璃色の瞳と瞳が合って、美澪の肩がびくりと震えた。


 澄んでいたはずの瑠璃色は濁り、瞳の奥に狂気じみた感情の影が垣間見えている。数秒前まで抱いていた罪悪感は、一瞬で霧散してしまった。


(やっぱりこのひとおかしい……!)


 美澪は当惑の感情を悟られないように、サッと顔を伏せた。


(どういうこと……? あたしがなにか忘れてるの? ……ううん。間違いなく、ヴァルとは初対面なはず。でも、ヴァルはそうじゃなくて、あたしを待ってたって言って……。そもそも、あたしに対するあの執着心は何? なんであんな瞳で見てくるの?)


 ……きたい、理由を。


 美澪が考えを巡らせている時。見た目よりもがっしりとした手に、両肩を引き寄せられた。


 そして、あっと言う間もなく、美澪はヴァルの胸の中に抱きしめられていた。

蓮の花ロータスをほうふつとさせる、ほのかな甘い香りが鼻腔びこうを満たしていく。異性に抱きしめられたのは初めてで、どうしていいかわからず身動きひとつできない。


(どうしよう……)


 大人しくされるがままでいると、ヴァルは割れ物を扱うような繊細さで、胸の中にいる美澪を抱きしめた。


「――美澪。ボクのかわいい美澪。……安心して。これからは、ずっと一緒にいられるから」


 心音が聞こえるほど密着した状態で、ヴァルから言われた言葉を反芻はんすうした。

 

「ずっと、一緒に……。あたしと、ヴァルが……?」


「そう。ずっと一緒だよ」


(ずっと、一緒?)


 抱きしめられまま、美澪は勢いよく顔を上げた。


「で、でもあたしは、学校に……元の世界に帰らなくちゃ……!」


 ヴァルはうっそりとほほ笑んだ。


「帰れないよ。もう二度と」


「なっ……!」


 絶望に染まった声をあげた瞬間、足元から強烈な光がほとばしった。


「きゃあっ! 何これ……っ!?」


 黄金色の光が、美澪の全身を包み込んだ。とっさに両腕を上げて光を遮り、目がくらみそうになるのを防ぐ。


「さぁ、美澪。そろそろ時間だ。せっかちな奴らがキミを呼んでいる」


 混乱する美澪とは逆に、腕の隙間から見えたヴァルの表情は落ち着いたものだった。


 ――まるで、こうなることが分かっていたかのように。


「……っ! あたしを呼んだのは、ヴァルじゃなかったんですか!?」


「ボクじゃない。キミを召喚したのは、人間たちだよ。奴らが執り行った召喚の儀式に天帝が応じたんだ。そして天帝に選ばれたのは美澪だった。だからキミをボクの神域に連れてきたんだ」


 ――“召喚の儀式”とは、いったい何のことだ。


 とてつもなく嫌な予感が脳裏をよぎった。


「まさか……まさかあたし、本当に元の世界に戻れないの!?」


「そうなるね」


 こともなげにほほ笑んだヴァルに、なぜか裏切られたという気がした。


「ヴァ、ヴァル……! あたしっ、そんなの嫌だよ……!」


 髪を振り乱して叫んでも、ヴァルは困ったようにほほ笑みを浮かべるだけで、救いの手を差し伸べることはない。


「ごめんね、美澪。ここから先、ボクは干渉できないんだ。ボクにできるのは、キミを神域に呼び寄せるところまで。――でも安心して? 今すぐには無理だけど、ボクはキミを取り戻す。そうしたら、美澪のことはボクがずうっと守ってあげるからね」


「ま、守る……? じゃあ、あたしを取り戻したら、ヴァルが元の世界に帰してくれるの!?」


 ヴァルは、口元をゆがめた。


「くっ、あははっ! ――そんなわけないでしょ」


 美澪の胸中に射した淡い希望の光は、一瞬にして闇に覆われてしまった。


「そんな……! どうして……っ!」


 ヴァルに向かって手を伸ばした瞬間、


身体からだが……!」


 美澪の指先が、光の粒子となって消えていく。


「ああ……そろそろお別れの時間みたいだね」


「――い、いやっ! いやよ、ヴァルッ! あたしっ、行きたくないっ! お願い! 元の世界に帰してっ!」


「ごめんね」


「ヴァルッッッ!」


 頭に血が上り、怒鳴るように叫んでも、ヴァルはほほ笑んだままだった。


 幾筋もの涙が頬を伝い落ち、粒子とともに散っていく。


「ヴァル! ヴァル! ――っ、ヴァルーーッ!」


 最後まで残った右目が粒子に変わって消える寸前に捉えたのは、ぞっとするほど蠱惑こわく的に笑うヴァルの姿だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る