第1話 現代、図書室にて
「
返却された本を棚に戻していると、背後から控えめに声をかけられた。
右手に持っていた本を仕舞いながら振り返った先には、一学年上の先輩が申し訳なさそうな顔をして立っていた。
「先輩、どうしましたか?」
「作業中にごめんね。申し訳ないんだけど、先に帰らせてもらってもいいかな? 明日提出の課題があったこと、すっかり忘れちゃってて……」
美澪は「マジ、めんどくさいよ~」と、うんざりした表情を浮かべる先輩に、「構いませんよ」とうなずいた。
「えっ、ほんと? マジで助かる~! ありがとね、恩に着る!」
両手を合わせて頭を下げる先輩の姿に、美澪は苦笑した。
「恩に着るなんて大げさですよ。それに、こういうのはお互いさまですから。ね?」
いたずらっぽく笑ってみせて、あからさまにほっとした様子の先輩越しに、壁掛け時計に目を向ける。
(17時40分か……)
この高校では、部活や学習時間は18時終了で、完全下校時刻は18時30分となっている。
今日の図書室の利用者は少なく、返却された本もあと少しで元に戻し終わる。簡単な掃除と戸締まりをして、職員室に鍵を返しに行っても、余裕を持って校門をくぐれるだろう。
「あとは一人で大丈夫ですから、先輩は安心して帰ってください」
「うう~泉さん優しい! ほんっとーに、ありがとねっ! ――あ! あと、これとこれ。課題で使うから借りて帰るね。手続きは自分でしとくからっ!」
ごめんねとありがとうを何度も繰り返し続ける先輩の背中を見送って、美澪は改めて本の片付け作業を再開したのだった。
*
「よっし、完璧!」
予定通りに全ての仕事を終わらせて、あとは戸締まりだけだと席を立った時、何かがどさりと落ちる音がした。
「……なに?」
(あたし以外の生徒は全員退出したはず、よね?)
季節は春。
5月半ばの日の入りは早く、薄いカーテンが引いてある窓の外は、すでに暮色が漂い始めていた。
もうすぐ退出するつもりだったので、蛍光灯は貸出カウンターの上しか点灯しておらず、本棚が並んでいる場所は薄暗い。
窓も扉も締め切られた室内には、ホコリっぽい空気と古い紙のにおいが満ちていて、普段は好ましく感じるそれに、なんとなく不気味さを覚えた。
(……でも、確認しに行かなくちゃ)
ふとしたらすくんでしまいそうになる足を、一歩一歩踏み出して、音がした方へと向かう。そうして、並んで立つ本棚の間を進んでいくと、黒のタイルカーペットの上に一冊の本が落ちていた。
「……なぁんだ。本だったのね」
(……それにしても、本が勝手に落ちるわけないし。どうやって落ちたんだろう……?)
若干の疑問を感じながらも、緊張を完全に解いた美澪は、しゃがんで本を手に取った。
「ずいぶんと古びた本ね」
革の表紙は傷んでボロボロ。紙もボロボロで、
少しでも雑に扱えば壊れてしまいそうな本を細心の注意を払って抱えると、美澪は貸出カウンターに戻った。
そしてオフィスチェアに腰を下ろし、抱えていた本をカウンターの上にそっと置く。革の表紙には模様も装飾もなく、題名も表記されていなかった。
本好きの好奇心をくすぐられた美澪は、慎重に表紙を開いて変色したページをめくる。
そして1ページ目を開いてすぐ、本の内容が明らかに異質なものだと気付いた。
「何これ……」
美澪は、原因の分からない焦燥感のようなものに駆り立てられながら、パラパラとページを繰っていく。どのページも同じ仕様になっていて、左ページに文章が書いてあり、右ページに挿絵が描かれていた。挿絵は繊細で緻密に描かれていて、美術館に飾られている名画のようで瞳を
問題なのは、文章に使われている文字だ。一見すると英語のように見えるが、よくよく見ればギリシア文字に似ている気もする。
しかし、ギリシア文字かと言われればそうではなく、あくまでも似ているというだけだ。世界には多くの文字の種類があるけれど、美澪が知っているのは数種類だけで、それも読めるわけではない。なのに――
「あたし、なんで読めるの……?」
ひどく動揺し、震える指先で文字の羅列をなぞっていく。
「……世界は天帝により創られた。天帝の命を帯びた、水・木・火・土・金の神々は、
美澪の心臓は、全力疾走したかのように激しく拍動して、今にも胸を突き破り飛び出してきそうだった。
今すぐ本を閉じてしまいたいのに、美澪の意思に反して、左手はページをめくり続ける。
右手で口元を覆い、荒くなる呼吸を抑えながら次のページをめくり、そうして視界に入ってきたのは、上半身が人で下半身が
まるで騎士のように、女性の手に口づける男性の姿。その絵にどこか
「ゼスフォティーウさま」
無意識に口をついて出た言葉に、美澪がハッと驚いた。その時。
「みぃーつけた!」
少年の声にも少女の声にも聞き取れる中性的な声が
そして状況把握をする暇も与えられず、美澪の足元に、ぽっかりと大きな穴が開いた。
「きゃ……っ!」
抵抗するすべもなく一瞬の浮遊感を経て、穴の中へと吸い込まれるように落ち込んだ先は水の中だった。
ざぶん! と背中から落た衝撃で、酸素を全て、吐き出してしまった。
(やばい……っ、溺れちゃう……!)
しかし不思議なことに、水が肺を満たすことはなく、地上と同じように呼吸することが出来た。
(一体、どうなってるの……)
美澪は驚きに目を見張ったまま、眼前に広がる光景をただ
恐ろしいほど透き通った水は、どこからか射し込んでくる光を受けて、コバルトブルーに輝いていた。きっとこんな状況でなければ、美しい光景に感嘆の声を上げたはずだ。
(なにが起こったの……?)
あのボロボロの本を見つけるまでは、いつもと変わらない平凡な日常だったのだ。それなのに、どうしてこんなことになっている。
理解しがたい出来事に、思考回路がついていかない。
だが今の状況で、なにより一番理解出来ないことは、水中で呼吸が可能だということだった。
(……ゆめ。……これは夢よ、夢! あたしは夢を見てるのよ。きっとそう。全部、夢の中の出来事だって考えれば、説明がつくじゃない!)
今日は少しだけ肌寒い日だったけれど、図書室の窓から西日が射し込んでくる頃には、暖かな日和に変わっていた。
カウンター作業中にうとうとと
「これは夢よ! 早く起きて!」
そう声高に叫ぶと、
「――夢ではありませぬ」
そう背後から声をかけかれた。
ビクッと肩を揺らした美澪は、おそるおそる背後を振り返って――目を丸くした。
「え?」
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