優しさの定義

和音

 本当の私って何だろうか。大学に入ってから強くそう思う。人と話すときに「明るくて親しみやすい優しい人」を演じていることに気が付いた。それは偏に、誰かからよく見られたいという心の現れなのではないだろうか。仮に今後一切関わらない人しかいない状況で、優しくあろうとするだろうか。ここで迷ってしまうあたり、本当の優しい人間には程遠いことが窺い知れる。


 最近思ったのは優しくあるためには勇気がいるということだ。仲の良い人が転んだ時、心配する(或いは心配するふりをする)だろう。これは優しいに入るだろうか。では道路を挟んだ向こう側で知らないおばあさんが転んだ場合はどうするだろうか。自分が何もしなくても誰も責めないからは当然として、心配するほうが恥ずかしい思いをするかもしれないから、そう思って何もしないことを私は優しいとは思わない。それは助けるための勇気がないだけだ。本当に優しい人は迷わずに助けに行くだろう。そうあろうとするために勇気が必要な私は本当に優しい人間ではない。


 先日、友達と買い物をしていた私は軽い荷物を持っていた。一方友達は重い荷物を持っており、私は荷物を交換することを提案した。予想どおり断られたわけだが、明らかにしんどそうな様子だった。しばらくした後、別の友達が重い荷物を代わりに持ったのだ。ほとんどひったくりに近い形に見えた。私は勇気が足りなかったため声を掛ける事しか出来ず、優しくある事に失敗した。一方、彼は勇気があったか芯から優しい人であったため、荷物をぶんどるといった行動によって優しくある事に成功したのだ。


 また別の日、私は性懲りもなく重そうな荷物を持っていた後輩に声を掛ける事しか出来なかった。しかし、その後輩は荷物を差し出してきたのだ。私は優しくある事に成功した。優しくあろうとする人に優しくさせてあげるのも優しさなのだ、とかなんとか考えて堂々巡り。それでも私が反対の立場なら遠慮してしまう。人の優しさを無条件で受けるのが申し訳ないと思う。


 優しくあるための勇気が足りないなら、優しくあろうとしなければいいじゃないかとも思う。でも人に嫌われて生きる勇気もない。優しくない人だと思われるのが少し怖い。


 私は臆病なのだ。優しくあるために荷物をぶんどる勇気も人の優しさに甘える勇気も、優しくない人間だと思われる勇気もない。


 結局、私は困っている人に声を掛ける事しか出来ない。

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優しさの定義 和音 @waon_IA

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