梶井基次郎じゃあるまいし、まったく

仲瀬 充

梶井基次郎じゃあるまいし、まったく

◎プロローグ

「梶井基次郎もとじろうじゃあるまいし、まったく」

釜本警部の独り言に諸富巡査が反応した。

「梶井なんとかって、何の話ですか?」


「梶井基次郎の『檸檬れもん』を高校で習わなかったか? 彼の別の作品に桜の樹の下には死体が一つずつ埋まっているという話があるんだよ」

「へえ、今回の事件の予言みたいな小説ですね」

立入禁止テープを張りながら諸富巡査が言った。

というのも、この町の公園の寒緋桜かんひざくらの下から白骨化した死体が出て来たのだった。


◎浅野富子の死

話は5年前にさかのぼる。


秋元光夫は6月17日の夜、姉の浅野富子からの電話を受けた。

「光夫? うちはもう疲れてしもうた。すまないけど後始末を頼むね。もう生命保険も1年過ぎてるから」


それだけ言って電話は切れ、折り返して電話しても応答はなかった。

秋元は胸騒ぎがして姉の住む隣り町のマンションに駆け付けた。


ドアの鍵は開いていた。

自分が来ることを予測して鍵を掛けなかったのだろうと思いながら中へ入った。


廊下もリビングも電気がついていた。

姉の富子はキッチン上部の収納棚の取っ手に紐を掛けて縊死いししていた。


◎秋元光夫の懸念

遺骸を見上げながら秋元は昨年姉と雑談の中で交わしたやり取りを思い起こした。

「拓也はあてにならんからうちの最期はあんたが看取みとってね」


拓也というのは富子の20年前に家出した一人息子で、生きていれば39歳の計算になる。

家出が離婚の少し前だったので富子は息子の便宜のために離婚後も元夫の浅野の姓を名乗っている。


生命保険に加入したと富子は言った。

「65歳でよくはいれたね」

「月々6500円払わないといけんけど老衰で死んでも200万円出るんよ。葬儀費用のつもりであんたを受取人にしてる」


老衰で死ぬつもりのような口ぶりで語っていた姉が、1年たった今、目の前にぶら下がっている。

一人息子の消息が分からないことを気に病んで生きる張り合いをなくしてしまったのだろうか。


姉を痛ましく思う秋元だったが同時に一つの懸念けねんが生じた。

「もう生命保険も1年過ぎてるから」電話口で富子はそう言った。


確かに昔は加入して1年たったら自殺でも保険金は下りると言われていた。

しかし自殺による免責期間が長くなりつつあるという話も耳にする。


秋元は書類棚の引き出しを探って姉の生命保険の契約書に目を通した。

やはり自殺による免責期間は3年となっている。

つまり、病気や事故や他殺と違って自殺の場合は3年経過していないと保険金は支払われないのだ。


秋元は日付の変わった深夜、人目につかないようにマンションを出て自宅へ帰った。


◎事件現場

「争った形跡はなく部屋も荒らされてないし、自殺ですね警部」

「お前の目は節穴か。とりあえず第一発見者を呼べ」

諸富巡査はドアの外に待機させていた秋元光夫とマンションの管理人を釜本警部の前に連れて来た。


「ええと秋元光夫さん、この部屋の住人浅野富子さんとあなたの関係は?」

「富子は私の三つ上の姉です。用事があって今朝姉に電話したんですが何度かけても出ないんで訪ねて来て管理人さんにドアを開けてもらったんです」


「ということは、あなたは合鍵は持っていない?」

「姉は用心深くてキーは常々自分の財布に入れている1本だけです」


「富子さんには息子さんがおられるようですが、今はどちらに?」

「分かりません。20年前に家出した時に捜索願を出したきりです。私はずっと一人身で隣り町に住んでるんでちょくちょく姉の様子を見に来てましたが、自殺するそぶりは全然ありませんでした」

「分かりました。またお話を伺うことがあるかもしれませんが今日はもう結構です」


◎釜本警部の推理

秋元光夫と管理人を部屋から送り出すと諸富巡査はすぐに釜本警部の側に行った。

「警部、どうしてこれが他殺なんですか?」


「鑑識の報告を聞いたろう。ドアのノブに付いていた指紋は管理人と弟さんのものだけだ」

「あっ! 今日一緒に部屋に入ったその二人の指紋があるのは当たり前でも住人の浅野富子の指紋がないのはおかしいということですね?」


「そうだ。犯人が出る時に拭き取ったんだろう」

「そしたら警部、鍵は1個しかないということなので密室殺人ですね?」


「その鍵も下足箱の上にあった。弟さんの話ではいつも被害者ガイシャは財布に入れていたそうじゃないか」

「今回だけは帰宅してたまたまそこに置きっぱなしにしたのでは?」


「だからお前の目は節穴だというんだ。下足箱の上の花瓶をよく見てみろ」

諸富巡査が顔を近づけると円筒状の花瓶が数センチ移動した痕跡が下足箱の天板のほこりの濃淡から見て取れた。

しかもおかしなことに花はドライフラワーなのに花瓶の中には水が注がれている。


「確かに変ですね。どう考えればいいんでしょう」

「このマンションのドアには郵便物を入れる投入口がある。犯人は花瓶を支柱ポールとして利用したんだ。花瓶の後ろに回した糸の両端をドアの郵便物投入口から外に出す。そして外に出て鍵をかけてキーの穴に糸を通した後で糸の両端を結んで輪にする。その糸の輪をスキー場のリフトみたいに回してキーが下足箱の上まで行ったら糸を切って完了だ」


「水を入れて重くした花瓶でも糸の輪を回す時に手前に少し動いたんですね。しかしうまく考えたものだ」

「なに、古典的な手口だ。おまけに犯人はド素人だ」


「どうしてですか?」

「最後に糸を回収する時に郵便物投入口との摩擦で切れた糸がご丁寧に5センチばかりドアの内部にぶら下がっている。それにキーには誰の指紋も付着していない、そんな馬鹿なことがあるか? 指紋は全部拭き取ればいいという程度の考えだろう」


◎犯人逮捕

一方、秋元光夫は胸を撫でおろしながらアパートに帰ったが気がかりなことがあった。

分かりやすい偽装工作によって他殺の方向に警察の目を向けさせることができたとしても、元々自殺なのだから犯人を特定できるはずはない。

警察が他殺と断定しても犯人を逮捕できない場合、生命保険会社は保険金を支払うのかどうか、その点について秋元は判断がつかなかった。


ところが犯人があっけなく逮捕された。

これには偽装工作をした秋元自身が一番驚いた。


警察に呼び出された秋元は釜本警部から説明を受けた。

「浅野富子さんは散歩が日課だったようで、散歩コースでよく会うホームレスの老人男性と親しくなっていました。あなた方ご兄弟は香川県出身だそうですね?」

「はい、小学校まで高松市に住んどりました」


「老人も香川生まれということから親しくなったようです。時には富子さん宅で風呂に入れてもらったりうどんを食べさせてもらったりもしていたと言いますが、本当にそこまで親しかったのかは疑問です」

秋元には初耳の話だった。

「その老人が犯人だったんですか?」


「そうです。所持品の1万円札から富子さんの指紋が検出されました。もっとも本人は犯行を否認していますが」

「認めてないんですか……」


「その1万円は、富子さんの年金支給日の翌日、つまり事件前日の6月16日に富子さん宅に招かれた時にもらったと言い張っています。なあに、ご遺体を吊るして自殺に見せかけているんですから言い逃れですよ。ドアや鍵の指紋は拭き取っているのに室内には彼の指紋がいくつか残っていました」


結局、その老人が犯人として起訴され有罪判決を受けた。

自分が蒔いた種とは言え、冤罪えんざいというのは実際に起こりうるのだと知って秋元は空恐ろしい気持ちになった。


◎不測の事態

思わぬ犯人逮捕劇だったが秋元光夫にとってもっと思いがけない事態が生じた。

行方不明だった富子の一人息子の拓也が突然秋元の前に姿を現したのだった。


「叔父さん、久しぶり」

にやけた顔でそう言ったが目が据わっている。

これまでどんな生き方をしてきたのか容易に想像できた。


「新聞で知ったけど、お袋、殺されちまったね。お袋の残した金は叔父さんが独り占めしたんだろ?」

「そんな言い方はないだろうが。20年間、顔も見せなかったくせに」


「それとこれとは話が違うさ。本当ならお袋の金は俺が全部貰えるはずだ。そしてさ、叔父さん、」

拓也はにやりと唇の端の片方を上げた。


「俺が19の年に家を出たのは親父とお袋の喧嘩がひどくて嫌気がさしたからだぜ。親父と互角にやり合ってた気の強いお袋がホームレスのよろよろのジジイに簡単にられるとは思えないんだよな。ひょっとしたら、叔父さんが……」

「馬鹿なことを言うな! 姉さんの貯金は大した額じゃないし、お前がこうしてやって来たからには独り占めするつもりもありゃせん」


細かい話はまた明日ということにして秋元はあり合わせのさかなで拓也と焼酎を飲み始めた。

小一時間もすると拓也は酔いつぶれて横になったが、秋元は酔いが回るにつれて不安が増す一方だった。


「ひょっとしたら叔父さんが」と拓也が口にした時、秋元は平静を装ったが心中の動揺を見透かされたかもしれない。

拓也が警察に事件についての疑念を話して再捜査が始まるようなことにでもなれば保険金の受取人は自分なのだから一大事だ。

それに、姉の遺産を分けてやったとしても今回限りで後腐れなく拓也が引き下がるとも思えない。


秋元は酔った足でふらふらと立ち上がり、押入れから荷造り用の丈夫な紐を取り出した。

そして、寝ている拓也の首を一気に絞めあげた。


◎遺体発見

5年の月日が流れた。


秋元光夫の住むアパートのすぐ横にはかなり広い公園がある。

公園の大部分は雑木林なのだが、その一角を切り開いて町立保育園を建設する工事が6月下旬にスタートした。

保育園を新たに建てて待機児童問題を解消する案が町議会を通過したためである。


建設予定地の林の中に雑木に囲まれて高さ3メートルほどの寒緋桜かんひざくらが1本立っている。

奇麗な花を咲かせるその木だけは伐採せずに新保育園の庭に移植することになり、根を掘り起こす作業が始まった。


するとこの寒緋桜の根の下から白骨化した死体が出て来た。

驚いた作業員たちからの通報を受けてすぐにパトカーがやって来た。


「梶井基次郎じゃあるまいし、まったく」

釜本警部の独り言に諸富巡査が反応した。


「梶井なんとかって、何の話ですか?」

「梶井基次郎の『檸檬れもん』を高校で習わなかったか? 彼の別の作品に桜の樹の下には死体が一つずつ埋まっているという話があるんだよ」


「へえ、今回の事件の予言みたいな小説ですね」

立入禁止テープを張りながら諸富巡査が言った。


検死の結果は死後5年前後経過しているとのことだった。

身元の判明には時間がかかると予想されたがあっさりと特定された。

浅野富子が息子の拓也の捜索願を出した時に不明死体とのDNA照合の試料になる抜け毛などを提出していたからである。


◎自供

参考人として秋元光夫が警察署に呼ばれた。

「今回発見された遺体はあなたの甥である浅野拓也さんと判明しました。殺されて遺棄されたと思われますが何か心当たりはありませんか」


釜本警部は事件につながる情報が欲しかったが、秋元への事情聴取にそれほど期待はしていなかった。

ところが秋元は姉の富子が自殺した時の偽装工作以降の全てを自供した。


「拓也の死体は夜中にアパート横の公園の雑木林に埋めました。土を掘り返した跡をカモフラージュするために翌日園芸店で桜の苗木を買ってきて植えました。育って花が咲くようになれば拓也の慰めにもなるんじゃなかろうかと思ったんですが、警部さん、悪いことはできないもんですね。結局その桜がもとになって発覚したんですから」

釜本警部は調書を作成している諸富巡査に顔を向け、記録を取るのはここまででいいと目で告げた。


◎エピローグ

釜本警部は秋元光夫に言った。

「秋元さん、私がこんなことを言うのはおかしいかもしれませんが、なぜ自白なさったんですか。知らん顔もできたでしょうに」

「私が植えた桜を移植する計画があると知って不安になり、3月初めに雑木林に入ってみたんです。5年ぶりに見た桜の木は生長してたくさんの花を咲かせとりました。その花を見てゾッとしたんです」


「ゾッとした?」

「私は普通の桜を植えたと思うとったんですが花を見て寒緋桜だったと知りました。真っ赤な花の一つ一つが私の目には土の中の拓也の血を吸い上げて咲いとるように見えました。拓也の恨みがあの毒々しいまでに紅い花を咲かせたとしか思えませんでした。それで、罪を償わなければ拓也に許してもらえんと……」


「せっかく植えた桜なのに甥っ子さんの慰めにもあなたの慰めにもならなかったようですね」

釜本警部の言葉に秋元はがくりと白髪頭を垂れた。


「私がバカでした。わずかな保険金に目がくらんで無実の人を罪人にした上にたった一人の身内まで殺してしもうた。警部さん、近頃、首を絞める直前の拓也の寝顔を夢に見るんです。口を少し開けて無心に寝ていた拓也は、私が可愛がっていた小学生の頃と同じ寝顔をしとりました。それを、それを、私はこの手で……」


秋元は両手で顔を覆ってむせび泣き、釜本警部と諸富巡査は腕組みをしたまま目を閉じた。

沈みゆく夕陽の光が真横から取調べ室に差し込み、3人のシルエットを影絵のように壁に映しだした。

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梶井基次郎じゃあるまいし、まったく 仲瀬 充 @imutake73

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