雨の峠のブレーキ痕
古魚
雨
「紫雨さん? 聞いてますか?」
「え? あ、はい」
誰もいなくなった放課後の教室。その中央では、先生と私で机を向かい合わせ、進路相談が進められる。
先生は職員室から持ってきたフォルダとPCを頼りに、大学の情報をあれこれ私へと説明している。それに対して私は、「へえ」「なるほど」「そうなんですね」「たしかに」の四つを駆使して、話を流す。
窓の外では、少しずつ黒い雲が空を覆っていく。雨、降りそうだな……。
「……はあ、今日はここまでにしましょう。どうも、心ここにあらずと言う感じですし」
私がそんなことを想っていると、先生がぱたんとPCを閉じる。
「……ごめんなさい」
さすがに適当にやり過ぎたかと、反省した私は、反射的にそう零す。
「良いんですよ。やりたいことが見つからず、進路に迷う生徒は沢山います。紫雨さんも、その一人なだけです……ただ少し、他の人より心を乱される出来事があっただけで……」
先生が最後に付け加えた言葉に、私はピクリと体を震わせ、反応する。
「ごめんなさい。不謹慎でしたね」
「いえ……大丈夫です……もう一年も経ちますし、気にしてませんので」
「そう……それじゃあ、また明日ね、紫雨さん」
「はい、さようなら、先生」
荷物をまとめ、先生に見送られながら、私は校舎を出る。校庭では、夏まで私も所属していた陸上部の後輩たちが、秋の新人戦に向けて練習を続けている。
ただ己の身体を使って、ただ速さだけを求めて走っていたあの頃が、学校生活で一番楽しかったかもしれないと、私は不意に思った。
見つめていても空しいだけだと考えた私は、学校に踵を返し、帰路に着いた。
学校から駅まで10分ほど歩き、スマホをいじるうちに駅のホームへと入って来た電車に乗り込む。電車が走り出すと同じころ、窓を伝って水滴が流れていくのが目に入った。
「……時雨、か」
この時期、この時間帯にふるにわか雨のことをそう呼ぶ。
地面を優しく濡らしていく水滴を見つめ、ため息を零す私。
私は、雨が嫌いだ。
♦
学校と私の住む家を隔てる山を迂回して、乗った駅から三つ先で電車を降りる。
傘を持っていない私は、鞄を頭にのせ、帰路を急いだ。私が、雨を嫌う理由の一つ、濡れる。
今日は折り畳み傘を持ってきていないため全身ずぶ濡れになり、傘を持っていても、下半身や靴が濡れる。その湿った感じが不快でたまらない。
「きゃ!」
小走りで坂を上っていた私は、ずるっと、歩道のタイルに足を滑らせる。なんとか踏みとどまり転倒は避けるが、鼓動が早まり、ひやりと嫌な汗を流す。これも雨が嫌いな理由の一つ、滑る。
家に帰るまでの坂で、歩道にタイルが敷き詰められている場所がある。雨の日は、そこが異様に滑るのだ。運動靴の裏には滑り止めが付いているが、まるでグリップが効かない。
気を取り直して、再び歩き始めようとした時、背後から声がかけられる。
「ずぶぬれじゃないか、紫雨。学校帰りか?」
振り向かずとも、その声の主が誰か分かった。自然と私から笑みがこぼれる。
「うん。そうゆう晴輝は、買い物帰り?」
私の頭上に、傘が差しだされる。
「ああ、まあな。傘貸すから、使えよ」
「いいよ、そしたら晴輝が濡れちゃうでしょ?」
晴輝、私が住む家の向かいのアパートに住む大学生。工業大学で、車の整備を専攻して学んでいる。彼がアパートに引っ越してきてすぐの頃、中古車の店を営む私のお父さんと意気投合し、お父さんが家に招くものだから、必然的に私とも知り合った。今では、両親のいない私の家で、家政婦のようなことをしてくれている。
「俺はいいから、ほら」
ずいと私に傘を差しだす晴輝。しかし私はそれを受け取らず、体を晴輝の方へ寄せる。
「一緒に入ればいいでしょ~」
「いや、でも、これ……」
晴輝は、視線を私から逸らし、一歩後退る。
「ほらーあんまり離れると濡れちゃうよ?」
私が相合傘することを退かない姿勢を示すと、晴輝は折れたのか、ぎこちなく私の側により、歩き始める。恥ずかしがっているのか、私と目を合わせようとはしない。
「今日、掃除と作り置き持って行くから、俺が行くまでに風呂入っとけよ」
「はーい」
誤魔化すように、晴輝はそう切り出してきた。私は家に着くまでの間、照れた彼の横顔を堪能していた。
家に付き晴輝と別れると、玄関に飾ってある写真に「ただいま」と声をかけて風呂場へと駆け込む。写真には、愛車であるスカイラインに肘を乗せ笑うお父さん、私が雨を嫌いな一番の理由が映っている。
中古車屋を営むお父さんは、売り物の車の状況を見るため、定期的に山へと走りに行っていた。山は入り組んだ峠道で、お世辞にも走りやすい道とは言えない。そのため、普通の車は山を迂回する公道を通る。結果、ほとんど車が通っておらず、車を全力で動かし、テストするにはうってつけの道と言っていた。
一年前、お父さんはいつものように山へ出かけたが、帰って来ることはなかった。雨が降る峠道で、カーブを曲がり切れずそのまま転落したのだ。
雨が、お父さんを殺したのだ。
濡れた制服の上着をハンガーにかけ、部屋着に着替え終えると、スマホから通知音が鳴る。
リビングのソファーに寝転がりスマホを起動すると、お母さんからメッセージが届いていた。
『今月分のお金は銀行に振り込んでおいたからね、無駄遣いしちゃだめよ』
「そのお金、使ってるのはほとんど晴輝だけどね~」
そんな風に呟きながら、『わかった~ありがと~』と返信を返す。少し考えて、『次はいつ帰って来るの?』と追加で送る。
数分経って既読が付くと、そこからさらに数分経って、新たなメッセージが届く。
『多分、今月中に一回は帰れると思うわ。年末年始も、一~二回はお休みを貰う予定よ』
「相変わらずだなぁ」
受験を控えた高三の娘がいると言うのに、この母親ときたら……。そうため息をつきながら、私は『わかった。お仕事頑張ってね』と送り画面を閉じる。
もともと、お母さんは自由に働くお父さんとは対照的に、いつも仕事に追われて、家を空けていた。お父さんが死んで、稼ぎが少なくなることを危惧したお母さんは、前よりさらに仕事を詰め込み、ほとんど家に帰って来なくなった。
放任主義のお母さんは、私の進路にも一切口を出そうとしない。『ただ生きていてくれれば、それでいい』お母さんの口癖だった。
私が一軒家で一人暮らしをしているのは、そうゆう理由だ。お父さんは死に、お母さんは仕事で帰ってこない。家事なんてろくにできない私は途方に暮れた。
なんとか一ヵ月頑張ってみたはいいものの、何一つうまく行かず、家はゴミ屋敷寸前。台所からは異臭がし、服からは生臭い香りがしていたそんなある日。晴輝がやって来た。
お父さんが死んでから家に遊びに来ることはなかったが、私を心配して、様子を見に来てくれたのだ。そこで、家の惨状を目にした晴輝は、一人暮らしで培ったスキルで私の世話を焼きだし、今に至る。
元々1年間お父さんを通じて関わっていたこともあって、家に晴輝がいることはほとんど気にならなかった。むしろ、献身的に世話を焼いてくれ、頼りになる晴輝に、段々と好意が湧いてきていた。
もう今では、完全に晴輝へ惚れ込んでいた。進路を考えなくちゃいけない年、楽しみだった部活が終わった学校生活。その中で、晴輝が家に来てくれる時間だけが、私の生きがいだった。
適当にスマホゲームをして時間を潰していると、インターホンが鳴る。私はパタパタと玄関に向かい鍵を開けると、手提げをぶら下げた晴輝が立っていた。
「いらっしゃい、晴輝。今日は何を作って来たの?」
♦
掃除を終え、台所の整理をしている晴輝へ、私はソファーから声をかける。
「ねえ晴輝」
「どうした?」
手を止めずに、晴輝は反応する。
「晴輝はなんで今の大学に行くことにしたの?」
「なんだそれ? そりゃあ車が好きで、車に携わる仕事に付きたいって思ったからだよ。そのための技術を学びたいなって」
予想通りの回答が返って来る。
「う~ん、やっぱりそうだよねぇ」
私の煮え切らない返答に引っ掛かったのか、晴輝は一度手を止め、私に話しかける。
「急にどうしたんだ? 進路相談なら、散々先生とやってるんじゃないのか?」
「まあそうなんだけどね、どうも決まらなくて」
「やりたいこと、ないのか?」
「ない」
晴輝の問に、間髪入れず答える。
私が進路で困っている一番の理由はそれだ。やりたいことが見つからない。
「得意なことは?」
「世話を焼かれること」
「好きなことは?」
「晴輝のご飯を食べること」
「よし、お前は高校卒業後、ニートのフリーターだ」
「そんなぁ」
私はいたって真面目に答えたつもりだが、どうやら晴輝にはふざけていると受け取られたらしい。
「もう少し真面目に考えろ。もう9月、共通テストは1月だぞ? 総合型や指定校はもう間に合わないから、一般で行くしかないんだ。狙いを絞らないと、共通テストで目指すべき点数すらはっきりしないぞ?」
「そんなことわかってるよ。だからこうして相談してるんじゃん」
高校に入ってから、自分のやりたいことなんてずっと分からないままだった。時折、家によくいたお父さんに相談することはあったが、いなくなってしまった今、私の思考は止まったままだった。
「こんなことなら、就職先探すべきだったかな~」
私の友達の中で、数名は進学ではなく就職を選び、すでに内定が決定している人もいる。
「今悔やんでも仕方ないだろ」
それはそうなのだが、考えずにはいられない。就職なら、やりたくないことでも、やれば生活が出来るだけのお金は手に入る。そうすれば、とりあえず生きていくことはできる。
そんな風に考えていると、私の頭の中に、一つの妙案が浮かんだ。
「ねえ晴輝。晴輝って今大学二年生だよね? 後二年で卒業して、就職するんだよね?」
「まあ、そうなるだろうな」
「そしたら私、晴輝に永久就職したいな~って」
私の言葉に、ピタッと晴輝の動きが止まる。
「……は?」
言葉にせずとも、『何言ってんだこいつ』と言っているのが伝わる表情で、晴輝は聞き返す。
「晴輝が働いて、私が主婦をやるの。ほら、これで私の卒業後の進路はあん――」
「ろくに味噌汁も作れない奴が何言ってんだ」
「あうっ」
鋭いカンターが私の胸を抉る。
「炊事、掃除、洗濯、お金の管理、その他諸々の生活を支援されているやつが、主婦なんて務まる訳無いだろ。第一……」
一息入れて、続ける。
「第一、好きでもない男に、冗談でもそうゆうこと言うな。ちゃんと恋愛して、本当に好きになった奴に言ってやれ」
おっとぉ? 聞き捨てならないぞぉ?
「本当に好きな相手だから、こんなこと言ってるんだよ。そこは、勘違いしないでほしいかな」
「……お前のその好意は、父親代わりとしての好意だろ。本当はいるはずの父親を、俺に重ねて、家族への愛情を、恋心と勘違いしているだけだ」
低い声で晴輝はそう返す。
「違う、そんな――」
「違わない」
強い言葉で、はっきりと晴輝は私の言葉を遮る。
「冷静になれ、落ち着けば、自分でもそれが分かるはずだ」
片づけを終えたのか、晴輝は荷物をまとめ、玄関へと向かう。
「一週間分の食事は全部冷蔵庫に入れておいた。じゃあな、ちゃんと勉強しろよ」
「……分かった。ありがとう」
玄関の扉がバタンと閉じられるのを見て、私はとぼとぼとリビングへ戻り、ソファーに腰掛ける。
「お父さんと重ねてる……? そんな訳ないじゃん。私は、晴輝が好きなんだよ」
思わぬ形で振られたショックで、ジンジンと心が痛む。だが、そう簡単にこの気持ちを諦めることはできない。何より、晴輝は私のことを『嫌い』とは言わなかった。それなら、まだチャンスはあるかもしれない。
「よし……頑張るぞ!」
私は一人、なんとしても晴輝を振り向かせてみせると自身に誓い、成功させてみせると意気込んだ。
私はスマホのメモ帳を開き、いくつかアピールできそうなことを列挙する。さらに、世の男性が好む女の子の特徴を混ぜ、プランを練る。
「う~ん、私、頭は良い方なんだよね……それに、陸部だったから体力もあるし……」
そうして上げたものを、一つずつアピールしていくことにした。
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