11
落ち着いたとは思ったけれど、シートに座り直した後も、まだ感情の揺れた余韻のようなものが残っていた。明らかに、私にとり憑いているものの影響だろうと思う。
タイミングを考えると、私が「長下部麻美」と言ったのが、何かしらトリガーになったのだろう――という気がする。私にとり憑いているものにとって、長下部麻美は一体何だったのだろう。
なんとなく膝の上に置いた手を眺めた。幻覚のようなものは、今は何も見えない。不審な声も聞こえない。シロさんのスマホの合成音声(血まみれの左手について『昨日怪我したところからまた出血しちゃってて、派手だけど大したことないんですよ』と言い訳をしている)と、運転手さんが「まぁ」「そうなんですか」などと心配そうな相槌を打つ声だけが聞こえている。でも、これからまた何か怖いものを見てしまうかもしれないと考え始めると、そわそわし始めてしまう。
だめだ。お化けのことなんかあまり考えない方がいいのかもしれない。
「し、シロさん。運転手さんも、しりとりしませんか?」
「はい?」
バックミラー越しに見る運転手さんの顔がこわばった。また困惑させてしまった。完全に変な人になってしまった――事情を知るシロさんは、顔だけで笑っている。
「いやー、あの、私今寝ちゃうと困るので、気晴らしに……」
「わ、わかりました。いいですよ」
運転手さん、プロだ。シロさんも笑いながら、
『なるほど、了解です。また人名縛りですか?』
と言う。合成音声を使ったこの会話の仕方なら、どんなに顔が笑っていても影響はない。
「人名縛り、さっきのでネタが尽きちゃったんで……えーと、生き物とか」
どうでしょう、と言いかけた途端、どういうわけかわからないけれど、もう一度お腹の底にこたえるような衝撃があった。何だ!? と思った次の瞬間、急に涙がぼろぼろこぼれ始めた。
「えっ、なにこれ!?」
「えっ何ですか何ですかちょっと」
運転手さんが狼狽する。
「いや、すみません、あの」
何とか取り繕おうとする一方で、感情がどんどん高ぶってくる。頭の中でなにかパチンとスイッチが切れるような感覚があって、
気がつくと、風が頬に当たっていた。
屋外だ。目の前には広い駐車場があり、今はほとんどが空いている。空はまだ明るいけれど、なんとなく夕方の気配が漂っている。
後ろから肩を叩かれた。シロさんが、蓋つきの紙コップを二つ、器用に右手に載せて立っていた。ぐるぐる巻きの左手で私の肩を叩いたらしい。
痛くないのかな? などと考えながら視線を動かすと、すぐ近くに自販機が並んでいるのが目に入った。キッチンワゴンも二台ほど見える。その後ろにまだ新しい建物があって、ようやくここが目的地の道の駅だと認識できた。
ぼんやりしていた頭が、だんだん普段どおりに戻っていく。シロさんは私にカップを一つ取らせ、近くのテーブルにもう一つを置くと、スマートフォンを取り出した。今のシロさんは、手がふさがっていると喋れないのだ。
『神谷さん、犬と遊んでましたよ』
「犬?」
『ここドッグランが近いんで、犬が結構来るんですよ。さっきまでグレートピレニーズと遊んでました』
「わっ、すごい毛がついてる。えっ、なんで?」
『くっついてるものの影響が急に大きくなって、神谷さんの意識を超えちゃったんですよ。楽しそうだったし、飼い主もどうぞって感じだったから、止めなかったですけど』
「それで犬と遊んで……? ていうか、まずくないですか? 私の意識を超えちゃうっていうの」
『正直まずいです。でもまぁ、なんとかなりますよ』
本気なのか強がりなのか、相変わらずわからない。そのとき、シロさんのスマートフォンが震えた。通知がポップアップする。
『そろそろ黒木くんたちと合流できそうですね』
シロさんがそう言って、口元だけでニッと笑った。
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