10

 シロさんがものすごい勢いで私を見た。いつも閉じている両目が開いて、ガラス製の義眼が見えている。

(えっ、目開いてる! シロさん、そんなショックだった!?)

 そう思った次の瞬間、ものすごく重いものを落としたような、ずんとくる感じがお腹の底を襲って、私は思わず吐きそうになった。前かがみになって両手で口を押えた拍子に、スマホが後部座席の床に落ちた。

『あははは! あははははは!』

 落としたスマホから、けたたましい女の笑い声が聞こえてきた。

 えりかの声ではなかった。

 何が起こっているのかわからないけど、とにかく普通じゃないということだけはわかる。口に当てた自分の手が震えている。

『長下部麻美って名前、もう知ってるの。あなたの方から寄ってきてくれたのねぇ』

 えりかの声ではない。あさみさんだ。

 落としたままのスマホから、また笑い声が聞こえた。今度はえりかの声も混じっていた。頭の中がぐるぐるかき回されるような気分になった。

『神谷さん』

 と、合成音声が聞こえた。それから背中をトントンと軽く叩かれた。シロさんだ。

『鼻から息吸えますか?』

 私はできる限りの大きさでうなずいて、言われたとおりにした。その間にシロさんはスマートフォンを拾い上げ、通話を切ってしまった。

『口から吐いて』また言われたとおりに。『もう一回鼻から』もう一度。だんだん落ち着いてきた。私が回復してきたタイミングで、シロさんがスマホを返してくれた。

「なに……今の……」

 まずは着信履歴を確認してみる。そして、間違いなくえりかから着信があったことを確かめると、ほっとしたような、でも何かしら取返しがつかないことに気づいてしまったような、よくわからない気持ちが湧いてきた。

『びっくりしたじゃないですか。いきなり核心突きに行くと思わなかった』

「すみません……」

「大丈夫ですか? どうかされました?」

 運転手さんが、バックミラーでこちらを確認しながら声をかけてきた。「車、一旦路肩に留めましょうか? それとも病院に行きます?」

 言外に(早く病院に行ってください)という圧を感じる。私は慌てて顔を上げ、「大丈夫です!」と自分でも引くくらいの大声をあげた。

「いや、お連れ様の怪我もありますし」

「いえ! 予定通り道の駅にお願いします!」

「しょ、承知しました……けど、後で絶対病院に行かれた方がいいですよ!」

 叱られてしまった。運転手さん、親切な人だ。申し訳ない。

 とにかく、私は怪我をしていない。吐き気が少し残っているだけで、無事だ。

 今になって「もしかして自分はものすごく危険なことをしたんじゃないか」という気持ちが湧いてきて、また体が震え始めた。名前は合っていたのか? 合っていたのに向こうは何ともなかった? それとも間違っていた? なら、ペナルティはなかったのか? 何もわからないくせに前進するなんて、我ながらどうかしている。

「これ、その……私まずいことしました?」

 シロさんにおそるおそる尋ねてみた。

『いや、そんなにまずくはないけどびっくりしました』

 そう答えたシロさんは、もう両目をしっかりと閉じていた。いつもの顔に戻ったのを見て、私はほっと胸をなでおろした。

『とにかく、黒木くんたちと合流しましょう』

「はい」

 私はシートに座り直した。気分はかなりましだけど、まださっきの、ずんとくるような衝撃の余波が残っていた。

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