赤いフェラアリ

有谷帽羊

赤いフェラアリ

 赤いフェラアリが山手線上を周回し始めたのは九月の末だった。最初それはレールに沿ってひたすら直進する体を取っていたが、二週間後の十月半ばには左側のタイヤが二つとも外れ、するとどういう原理かフェラアリは車体そのものをくるくると旋回させるようになった。旋回してなおフェラアリはレール上を進み続け、途中何度かスピードを落としたり旋回が緩やかになったりしてみせたものの、半年経った今なお動きを止めずにいる。

 そういうわけで人々が山手線に乗れなくなって久しいが、未だに暴動もデモも起こらず皆いつの間に現状に慣れてしまっている、というのは誰かにとって面白かったり面白くなかったりするのだろう。テレビを点ければ毎日いずれかのチャンネルで必ず話題に上がっているし、ネットもしかり、また実社会での雑談もしかり、議論は絶えずどこかしらで行われている。数十年前に世界中でウイルスが流行した時もこんな雰囲気だった、とこの頃物忘れの激しい父は食卓で毎朝繰り返しているけれど、少なくともフェラアリは人を殺したりしないのだから、そこまで重たげな空気が蔓延しているというわけでも、閉塞感に満ちているというわけでもない。最初は困り果てていた山手線利用客も乗務員も、今ではそれぞれに別のルートと作業を確保したらしく、彼らも近頃ではインタビュー映像などで見かける機会が減り、却って「困った、困った」と連発しているのは彼らと無縁のコメンテーターや批評家ばかりだったりするしだいである。であるから、まあ、もはやまともに困っているのは全国の山手線愛好家くらいのものかもしれなかった。


 通っている学校が三田にある偶然はわたしにとってなんとも幸運なことだった。赤いフェラアリの走行が始まってからの半年ほど、わたしの朝の日課は地下鉄に乗って三田駅まで急ぎ、そこから歩いて十分とかからない札の辻橋へフェラアリを眺めに行くことだった。札の辻橋から高輪ゲートウェイ駅の方を覗くと目下にレールの並びが見えて、しばらく待っていると内回りのレールに沿って赤いフェラアリは優雅に旋回しながら近付いてきた。フェラアリが周回しだした最初の頃、それは外回りのレール上を回っていたはずが、二輪のタイヤが外れた頃から内回りのレールを進む姿が見られるようになり、最近ではおよそ半月に一度のペースで進むレールを変えている。周回の向きは今のところ旋回の向きと同じ反時計回りを保っているが、それも夏の初めには逆向きに変わるかもしれないとの予想がつい先日、とあるデータ分析企業から発表された。けれど発表したのはいいとして、その予想は一体なんの根拠に基づいているのか、大衆にも理解可能な説明をすることは不可能らしく、そのため結局のところ一般市民にはなにがなんだかさっぱり不明のままだった。

「おはよう」

 双眼鏡を覗いてフェラアリの旋回を観察していると、ふいに後ろから声がけられて、振り返ると背の高い影がわたしによそよそしい笑顔を向けていた。

「ああ、枕太刀先生。おはようございます」

 枕太刀先生とはフェラアリの観察を始めて間もない頃、この橋の上で再会した。先生と会うのは以前通っていた学校を卒業して以来だったから、およそ三年半ぶりのことだった。再会したその日も双眼鏡を覗いていたわたしに後ろから声をかけてきたのだったが、先生の顔を見ても瞬時には思い出す気にならなかった。数学の枕太刀です、と名乗られ、それに加えて「にへら」と、まるで口に出したかのような強いインパクトを伴った作り笑いのおかげでようやく記憶の蓋を開けられた。思い返せば先生の授業を受けていた頃、わたしはこの人が苦手だった。教え方もよく雑談も楽しい、見た目も爽やかで他の生徒には人気のある先生だったが、わたしはなんとなく先生を軽蔑してさえいた。先生の顔から時折繰り出される「にへら」が特にそうさせたのかもしれなかった。そんなわけで偶然再会したとはいえ先生の方からわたしに声をかけてくるとは思いもしていなかった。それこそフェラアリが重力も熱力学も無視して山手線上を回り続けていることよりよほど意外だった。

「今日は綺麗に回って、まるでワルツを踊るようだね」

 ゆったり近付いてくるフェラアリの旋回を眺めながら枕太刀先生は言った。そんな台詞を吐くことに先生はまるで躊躇しないようだったけれど、わたしは先生のそういうところも苦手にしていた。背が高いくせしてまだ背伸びしているように思える、先生にはそういう類の無理を感じさせるところが多々あった。朝日を浴びながらくるり、くるりとテンポよく回り続ける、不思議なフェラアリの旋回の方が遥かに自然に思えた。

「一体いつまでこの状況なんでしょうね」

 ひとりになって観察を続けたかったが、先生が立ち去る様子を見せないので、仕方なしにたいして訊きたくもない質問を投げかけた。すると先生は作り笑いをさらに作り物めかしてこちらに向き直り、頼んでもいないのに堂々と胸を反らして一端の教師らしく説明を始めた。

「物理学や天文学は専門ではないけれど、その観点から考えればおそらく、このフェラアリはもう軌道に乗ってしまったのだろうね。だからこんな風に公転と自転を延々繰り返しているわけで。なにか大きな問題でも起こらない限り、当分このままなんじゃないかな」

「ついこの間話題になった、物理学者集団のネット動画、先生はまだ見てないんですか。彼らの説明によると、山手線のレール幅とあのフェラアリのタイヤ間距離には約七百ミリの差があるから、そもそもこの現象は物理学的に根本からありえないらしいですよ」

「それでもフェラアリは今日もきみの目の前で山手線上を走っているじゃないか。ほら、ご覧の通り」

 長い指先をすっと伸ばして先生が示した先には回るフェラアリがあり、それはもはや双眼鏡も必要ないほど近距離まで迫ってきていた。フェラアリは昨日と寸分違わぬ赤色をして、運転席にも助手席にも人影はなく、エンジンがかかっている様子すらなかった。

「それはまあ、そうですけど」

 わたしは不本意ながら渋々頷いた。先生は再び笑顔になると満足そうに橋の下を通過するフェラアリを見送った。その横顔を見ながら、改めてこの人が苦手だと強く思った。大人らしく落ち着いて見せて、実際それ相応の年齢でもある、けれど実のところひどく子供じみて、その上それが自分の美点だと思い込んでいる、そんな先生が本当に苦手だった。こうして橋の上で毎日のように肩を並べているというのに、先生との間の距離は、それこそ山手線一周分以上は余裕である気がした。

 フェラアリが去ったあとの沈黙に耐えきれず、わたしはその場を立ち去ろうと肩にかけていた鞄の持ち手を握り直した。ところへ急に強い風が吹きつけ、歩き出そうにも一歩も動けなくなってしまった。

「あ、襟が」

 フェラアリを指していたはずの先生の指がわたしの首元へにゅっと伸びて、セーラーシャツの大きな襟を正しい位置へと戻してくれた。感謝の言葉も忘れその指先に見入っていると、すぐ脇を通り過ぎる会社員風の誰かがちらりと視線を投げかけてきた。なんだかわたしと先生とを訝しんでいるような視線だった。不快だった。

「じゃ、お先に」

 わたしは先生の手を振り払うようにして勢いよく一礼し、今度こそ踵を返してさっさと歩き始めた。立ち去る背中へ向けて、先生はなにか言ったかもしれなかったが、聞こえなかった。それよりわたしが気を取られていたのは肩に触れた先生の手だった。心地よくも気色悪くもなかった、それは全く温度のない手だった。


 学校まで歩く間、今しがた確かに触れたはずの手のひらの感触の再構成を試みて、けれどまるで叶わないままとうとう教室へ辿り着いてしまった。教室はいつものごとく混沌としていた。狂おしく誰かが誰かに語りかけるひそひそ声がそこかしこで響き合い、それらがまるで意味のわからない一体となってなおなにかを訴えかけようとあちこちに引っ張られていく、その中で無言のわたしが選んだ真ん中辺りの席の真後ろには二人組の生徒が座っていて、どちらも聞いたことのない声をしていた。彼らの交わす話題が赤いフェラアリであったことに特別な驚きはなかった。むしろフェラアリでなければなんだっていい、わたしは甘いものは好まないが、パフェの話題でもいっこう構わない、そんな気分だった。

「結局、赤っていうのがキーな気がするよな」

 ひとりが言い、それに対しひとりが答えた。

「でもフェラアリといえば赤なんだからさ」

「そこが落とし穴なわけだ。フェラアリといえば赤、その至極自然で単純な連想が許されることにより、本当はそこに隠されたメッセージがあったとしても、皆見逃してしまうんだよ」

「そこまで言うなら、一体あの赤色にどんなメッセージがあるというの? まさかコミュニストがフェラアリなんて高級車使うはずがないのだし」

「いや、そういうことじゃなくてさ。そうじゃなくて、だからつまりは、そういう風に普段は疑問に思わないことを疑問に思うこともできる、あのフェラアリはその可能性を体現してるんじゃないかと思うんだよ」

「コンテンポラリー・アートの一種ということ? それならフェラアリが山手線上を走る意味を説明してくれよ。あの赤色は一体なにを訴えているのか、考察だけでも教えてくれよ」

「いや、さすがにそこまではまだ」

「なんだよ、それ」

 会話がぱたりと途切れて、二人は一瞬だけお互い黙ってみたものの、すぐその重たく沈み始めた空気を取り払うように軽く笑い声を立てた。二人は再び仲良さそうに話し始め、今度はフェラアリでもパフェでもなく、天気の話になった。二人が心の中で互いのことをどう思っているか、わたしにはデータが不十分で推察しようがなかった。けれど今の議論は二人にとってもはや不毛なものと化してしまったのだろうか、その問いかけが頭に思い浮かぶと同時になぜか少しだけ虚しくなった。虚しさを吹き飛ばすように教卓横の扉が開き、今まで授業を受けた分だけ見知ったはずの筋張った顔の教授が姿を現した。

「講義を始める前に、ひとつ話しておきたいことがある」

 教授はやたらもったいつけて宣言し、しかしそれを言ったきり押し黙ってしまったので、教室に集まったおよそ五十人ほどの生徒たちも押し黙ることを余儀なくされた。枕太刀先生との間の沈黙からは遠慮なく逃げることのできるわたしも、このほどの大規模な沈黙からはとてもじゃないが立ち上がる仕草さえ見せることはできなかった。

 偉大な沈黙は偉大なまま、ふと時計を見ると授業開始から既に四十五分が経過していた。教授は未だ教卓の前で俯きながら、紡ぐべき言葉を模索しているようで、その必死さに生徒も心を奪われたのか、皆一様に着席したまま彼が喋りだす時を待っていた。わたしもその一員となりながら、同時に心の中ではちょっとばかり浮気していた。今頃赤いフェラアリは池袋辺りを走っているだろうか、少なくとも上野はとうに過ぎているはず。

「あのフェラアリは、実のところ黄色をしているんだ」

 そんなことを考えていたものだから、ようやく教授が放ったひと言に教室中がざわめき始めたというのに、わたしは乗り遅れてしまった。「嘘」「本当に?」などと囁く声が授業前と同じく四方八方から聞こえてきて、けれど教室の奥の方から放たれた「頭おかしいんじゃね」というやけに明瞭な声にすべては掻き消されてしまった。

「さ、講義を始めようか」

 その声に驚いたのだろうか、教授は慌てた様子でレジュメを配りだし、するともう先ほどまでの深刻な気配はどこにもなくなってしまっていた。レジュメの一枚を受け取り、残りの束を後ろに回しながら、わたしの頭の中で言葉は旋回していた。黄色、あのフェラアリが、あの赤いフェラアリが、黄色。およそそのような文言を反芻することで、わたしは冷静になろうとしていた。

 授業が進むにつれて、周りの生徒は黄色いフェラアリの可能性についてすっかり忘れてしまっているようだった。いつまでも拘泥していたのはひょっとするとわたしひとりだったのかもしれない。授業の内容は今ひとつ耳に入らないまま、わたしは頭の中の山手線上に黄色いフェラアリを走らせていた。レールに沿って進みながら、自らも回転を怠らない、「黄色いフェラアリ」。不思議だ、と思った直後、けれどそれが赤いフェラアリであれ不思議なことに変わりないじゃないか、と自問した。それでも拭いきれない違和感は確かにあり続けていた。今度こそなにかが必要なのでは、とわたしは思いかけて、顔を上げると授業は終わっていた。教卓には既に次の授業の用意がされており、教授もまた別人に変わっていた。赤いフェラアリの議論をしていた二人組の姿もなく、まるでわたしひとりがその場に取り残されてしまったかのようだった。おかしいな、気付かないうち、空間上の裂け目でも出現したのだろうか、とあまりにファンタジーな空想に囚われ始め、そこから身を剥がすようにしてなんとか席から離れると、タイミングよくぐうと腹の虫が鳴った。食欲に助けられたわたしは我に返ることに成功した。もはやなにも考えず、食堂へ急いだ。


 まだ人の少ない食堂にはいつものようにメニュー看板が掲げられて、見ると『Aセット:鶏唐ポン酢和え、Bセット:釜玉うどん、Cセット:カツ丼茶漬け』とあった。カツ丼茶漬けは論外として残るは鶏唐かうどんだったが、あまり油物を食べたい気分でもないのでBセットにすることに決め、カウンターの前に並んだ。490円で受け取った釜玉うどんは見本写真とは比べ物にならないほど貧相な見た目をして、けれどだしの香りだけは一丁前に本格的なものだから文句を言う気にはなれなかった。温泉卵をぐしゃぐしゃにかき混ぜながら、その黄色い色味に改めて黄色いフェラアリのことが思い出された。赤いフェラアリの正体は黄色いフェラアリ、教授の告白したそれは、例えるならつまり今日のメニューは本当のところ『Aセット:カツ丼茶漬け、Bセット:鶏唐ポン酢和え、Cセット:釜玉うどん』だった、みたいなことだろうかと考えかけて、しかしそれだけのことなら言いだすのにあそこまで時間をかける必要がどこにあったろう、とさらに疑問は深まった。教授が「黄色」と言った声には確かに重みがあったし、それに対してわたしの感じた違和感も確かな動揺から来たものだった。あの重みと強い揺さぶりに、一体どうしてわたしたちは耐え抜くことすらできなかったのだろうかと、麺の一本を噛み切りながら、今更ながら口惜しくてたまらなくなってきた。「頭おかしい」だなんて、せめてあんな声が聞こえさえしなければ、教授もわたしも、それぞれの熱量でもって取り組めたかもしれないのに。「赤いフェラアリ」。言葉が文字でもって脳内に今一度ひらめいて、それと重ねるように思い浮かんだ人の顔があった。

「枕太刀先生」

 ごちそうさまでした、と言う代わりにわたしは呟いた。向かいの席で鶏唐ポン酢和えの最後の一口を食べていた人が一瞬顔を上げ、なにも言わないまますっと視線を落とした。こんなところにいつまでもいられるものか、と理由なく思った。そうして学校を後にした。


 札の辻橋へ戻ったが、先生の姿はどこにもなかった。赤いフェラアリもまるで気配がなく、どうやら通り過ぎてしまった直後のようだった。バッドタイミングこの上ないと思いながら、わたしは田町駅へ向かった。最近になって学生の間で流行り始めた『擬似ヤマノテ』を実践するのにちょうどいい機会だった。まずは京浜東北線に乗り込み、三十分弱かけて田端駅まで北上する。田端から池袋まで一時間ほど線路に沿ってウォーキングし、池袋駅からは埼京線あるいは湘南新宿ラインでもって二十分で大崎まで南下する。これでおおよそのところの山手線一周が実現可能なわけだった。ところが京浜東北線の車窓から赤いフェラアリは確認できず、田端から池袋にかけても全く見られないまま、埼京線に乗って元いた地点まで戻る間もついぞ姿を現すことはなかった。所要時間およそ百二十分の間に少なくとも一度は確実に見かけられるはずが、この日わたしはどこまでもフェラアリに追いつけなかった。諦めて五反田から地下鉄で三田に戻るまで、わたしは真っ暗な車窓を呆然と眺めながら、いつもなら燦然と輝くはずの赤いフェラアリを思い描こうとして、けれど眼裏に浮かべられたのはただ薄い灰色をした今にも消えそうな影のみだった。それがフェラアリなのかさえ判然としないまま、身体は電車に揺られていた。重力はわたしを前後左右好き勝手に引っ張っては突き放しを繰り返したが、もはやその法則すら危うかった。

 札の辻橋は既に夕暮れて、見上げると空はオレンジとも紫ともつかない淡く灰をまぶしたマーブル色をしていた。珍しく車も人通りもなく、生物の気配のまるでない空間と化したそこにぽつりと佇む背中はどこか投げやりで、そのくせいつまでも待っていそうだった。

「枕太刀先生」

 誰かが名前を呼ばなければ、この人はこのまま消えてしまうかもしれないと、そんな風に思わせる侘しさが無言の背中から滲み出ていて、プライドも駆け引きもないままにわたしは呼びかけていた。

「ああ、こんばんは」

 振り返った先生の顔には朝と変わらない「にへら」が取り繕われていた。極めてジェントルに挨拶した先生は決してわたしの名を呼ぶことはなく、再び線路の並びへと視線を落とした。その伏し目がちな横顔に、わたしは堪えきれず嫉妬した。悔しさが溢れて、この橋もこの街も一瞬に燃えてしまえばいいのにと、物騒な妄想まで沸き起こった。そんなわたしの熱量に反比例して、先生は冷静だった。線路上に今赤いフェラアリの姿はなく、けれどフェラアリが来ようが来なかろうが多分先生は変わらないのだ。フェラアリが汚れようがフェラアリが壊れようが、たとえフェラアリが止まってしまってでも。

「午前の講義で聞いた話ですけど。あの赤いフェラアリ、本当のところは黄色をしているそうですよ」

 ままならない現実を前に駄々をこねる子供のような言い方になってしまい、おのずと頬が赤らむのが感じられたが、この暗がりでは先生にばれる心配もなかった。わたしはわざと先生の方へ向き直った。

「へえ、なるほど。そういう意見もあるのか」

と、涼しい顔で呟く先生を目一杯睨んだ。ただ気付いて欲しかった。

「黄色、か。もしそういう風に見えたとしたら、この現実も少なからず彩り豊かになるものかもしれないね」

 なぜ先生は。わたしは思った。なぜ先生は、こんな誰もいない橋の上であってでも、言えないのだろうか。ただわたしひとりを前にして、他には視線も聞き耳もない、確かに結べたはずの約束を前にしてでも、言ってしまえないのだろうか。たったひと言、自分は赤いフェラアリに見えるのだと、自分はただ赤いフェラアリを見つめていたかったのだと、自転であれ公転であれもはやなんでもいい、延々止まらない回転を前にして、どうして言ってはくれないのだろうか。どうして、言ってくれなかったのだろうか。あの時、あの謝恩会の終わりの時、わたしはカスミ草の花束を先生に渡した。ただ先生ひとりへ向けて、心を開いて手渡したカスミ草の花束を、枕太刀先生は受け取ってくれた。それでなお先生は微笑んでいた。微笑みのうちにすべてを受け流そうとして、実際そうしてしまった。ありがとう、と、えらく他人行儀な声音で当たり前の言葉を口にして、わたしを置き去りにした。若かった、それだけしか取り柄もなかった幼いわたしは、ひたすら待っていた。先生と過ごした日々のうちに、きっといつか心を明け渡してくれる時を待っていた。なぜならわたしは先生の瞳にすべる光を知っていたし、その光が向かう先にわたしの瞳があったことを、二人の視線が何度も交差した事実を知っていた。それこそ先生の言うように、まるでワルツのようだった。いや、ワルツそのものだったのだ。一台きりで走り続けるフェラアリよりよほど。それらのことはあまりに明白だったのに、いや、もしかしたら明白だったからなのだろうか、最後の日を迎えてなお、先生は答えることをしなかった。先生は逃げた。他の多くの人と同じように。跪いて愛を請うようなことなど、決してしはしなかった。

 そしてそれはある意味でわたしも同じなのだと、とうに気付いているのだった。わたしだって人のことは言えないのだ。「黄色」と言ったはいいものの、謗る声に抗えず講義に逃げた教授のことも、「頭おかしいんじゃね」と謗った張本人の冷笑も、それらすべてを受け流した人々の沈黙も。わたしにはなにも言えやしないのだ。わたしだって、待つしかできなかったのだから。今なおこうして臆病に待つしかできないのだから。言葉にする勇気など、果たしてどうして持ちえるというのだろう。

「先生、新しい学校はどうですか」

 口にできるのは結局、こうした他愛ない世間話に過ぎず、そこに意味は生じようもなかった。空はいつしか完全な宵に沈んでいた。街灯やビルの窓に明かりが灯る中、ふと遠方を見やると、フェラアリがこちらへ向かって来ていた。ようやく出会えた赤い車体はやけにゆったりと回り進んで、待ち望んでいたはずの心はちっともときめかなかった。

「なかなか上手くやってるよ。最近ようやく生徒たちにも馴染んできたみたいで」

「そうですか。ならいいです」

「なにか言いたげだね」

「いえ、別に。ただ、先生はそれで満足なのかな、って」

「満足、か」

 もったりと、しかし着実に近付いている、赤いフェラアリを見下ろしながら先生はしばし黙った。わたしは先生を見つめた。赤いフェラアリなど、視界の端にも入りはしない。というのに先生の目はもうちらりともわたしを見つめてはくれない。

「満足とまではいかないけれど。十分、事足りてはいるよ」

 ようやく先生はこちらを振り向いて、暗がりの中、整った笑顔は氷に触れた時のような刺々しさでもって、わたしの胸の内へ迎えられた。しかしその痛みももはや持続する力を持ちえなかった。すとん、と腑に落ちて、わたしは諦めた。これを契機にやっとすべてを諦められる、しかしその一歩手前だった。

「先生」

 わたしは呼びかけていた。きっと、最後に残った愛おしさが、どうしても捨てきれず理性を乗り越えたのだろう。

「この世界は夢ですか?」

 問いかけに、先生の瞳は揺れた。

 その衝動のまま、言って欲しかった。夢ではないと、なにひとつ決して夢ではありえないと言って、その手でわたしの手を取って欲しかった。

 最後に見せた笑顔が、あの「にへら」でなく、ただわたしひとりへ向けられていたことだけが救いだった。なにも答えてくれないまま、微笑んだ先生の姿が徐々に薄くなっていくのを、わたしは目の前で見ていた。手を伸ばして引き止めようとして、けれど指先は虚空になにも触れられなかった。届かないまま、透明なセロファンのようにまで薄くなってしまった先生は、そのまま橋の下へ落ちた。欄干から身を乗り出して覗き込む頃には、先生の姿は全く消えてしまっていた。線路の上には影もなく、また先ほどまで回転していたはずのフェラアリの姿もどこにもなかった。気付けば橋の上には人通りも車も戻っていた。ガードレールを飛び越えて、車の来ないタイミングで橋の反対側へ渡ったけれど、そこにも先生の姿はなく、フェラアリもまたどこにもなかった。完全に消えてしまっていた。

「だから、言ったのに」

 もぬけの殻の線路へ向けて、わたしは吐き捨ててしまいたかったが、それが声になることはなかった。わたしもまた、言えなかった。なにひとつかたちにできないまま、先生は永遠に失われてしまった。


 帰宅すると母は既に夕食を作り終えていた。催促されながら手を洗い、食卓に着くと運ばれてきたのは焼きうどんだった。今夜はパパいないから簡単にしちゃった、と母は嬉しそうに言って、いそいそと食べ始めた。わたしも箸を持ち一口すすると、だいぶ塩辛かったが、母は気にしていなさそうだったので、なにも言わず食べ進めた。幸せそうな母の様子に、少しばかり気も安らぐ気がした。赤いフェラアリのことも黄色いフェラアリのことも話題にしないまま、食べ終えたわたしは皿を片付け二階の自室へと上がった。

 机の引き出しを手探りして、掴み取ったそれは消えてしまった先生と同じに薄っぺらかった。カスミ草を押し花にして作られた栞は、卒業後の春、先生から送られてきたものだった。封筒の中には栞だけが入っていて、他には手紙も、どんな言葉もなかった。今となっては確かなものはこれくらいしかないけれど、この薄さではいつまで残ってくれるだろうか。答えを求めないまま、わたしは栞を引き出しの奥へ戻した。


 翌朝、山手線はまるで何事もなかったかのように線路の上を走っていた。回転しながら走り続けたフェラアリの姿はどこにもなく、そんなもの最初からなかったかのように人々は平然と電車に乗り、それぞれの街へ向かっていた。その日、わたしは山手線には乗らなかった。地下鉄を降りて学校へ向かった。札の辻橋へは行かなかった。




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赤いフェラアリ 有谷帽羊 @bouyou

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