第10話 颯汰
土曜日の昼前。
漠然とした目標のために、フリーターとして今度は特にバイトに明け暮れる日を過ごしていた。あの日、葵が料理の担当になって以降、疲れた身体に彼女のご飯は染みる。
僕はキッチンから香る味噌の匂いで目を覚ます。時刻は十一時。今日は知り合いと会う約束がある。約束の時間は午後二時。余裕は十二分にある。
眠たい目を擦り、クシャクシャになった髪を掻きながらリビングへと向かう。
「おはよう」
「あ、おはよう!ちょうど良いね。ご飯できたよ」
リビングへの扉を開けると、キッチンに立つエプロン姿の美女。見慣れてきたが、やっぱり様になっていて綺麗だと思う。そんなこと口には出さないが。
僕はお礼を言い、食卓へと料理を運び席に座る。二人で手を合わせ、僕は味噌汁を啜る。
「最高」
睡眠中に汗として失われた塩分を味噌汁が補給してくれる。インスタントの味噌汁とは違い、心理的な温かみを感じる。
「ありがとう」
嬉しそうに、葵も味噌汁を啜る。
「今日どうするの?」
目の前に座る葵が声をかけてくる。
「今日は知り合いと約束があるから、会いに行くよ」
「女の子?」
葵が心配そうにこちらを見つめる。
「違うよ。年上の男の人だよ」
良かった、とボソッと葵が呟くが当然僕には聞こえない。
「珍しいね。友達少ないそうなのに」
「おい、失礼じゃないか」
「ふふっ、冗談」
葵の言うことはあながち間違ってはいない。僕には友人が片手で数える程度しかいない。交友関係は狭く、深くが僕のスタンスだ。
「ねぇねぇ」
再び、葵が僕に話しかける。
「どうしたの?」
「気をつけてね」
「ありがとう。気をつけるよ」
「帰ってくるよね?」
そんな心配しなくてもどこかへ行ったりはしない。この場所が僕の家なのだから。
「心配しなくても、帰ってくるよ」
葵の不安を消し飛ばすように優しく。
「そっかー!じゃあ帰り待ってるね!」
無邪気に喜ぶ、葵を横にご馳走様と食器を片す。あの顔をされたら、誰も嫌な気分にはならないだろうな。
それに誰がなんと言おうと、僕の今の家はここなのだから。
――――――――――――――――――――――
僕には知り合いがいる。同世代ではなく、歳の離れた知り合い。
年齢不詳、住所不定、おまけに職業もわからない、謎の男。背丈は僕と同じくらい、前髪は目元に掛かり襟足は長く、長い顎髭。清潔感があるかと言われれば、正直あるとは言い難い。でも、そんな彼が僕は好きだ。もちろん、人として。
「颯汰さん、お久しぶりです」
「お、少年、久しぶりだな」
苗字は分からない。僕が彼について知っていることは、颯汰と名乗る名前と、浮浪をしているということ。それだけ。
「わざわざ、誘ってもらえて嬉しいです」
「近くまで来たからな。せっかくだし、会っておきたかったしな」
僕たちは近くのカフェのテラス席で、お茶をしている。こうして、近くまで立ち寄った際には僕に連絡をしてくれ、こうして会ってくれる。
「相変わらず、人助けをしているんですか?」
「最近ね……特に何もしていないんだよな」
バツが悪そうに苦笑する。浮浪として全国を旅して、助けを求める人に手を差し伸べている……つもりだと言う。僕も颯汰さんに助けられたうちの一人でもある。だから、僕は颯汰さんに感謝をしているし、今もこうして彼を慕っている。
颯汰さんとの出会いは、今から一年ほど前に遡る。
――――――――――――――――――――――
高校三年生の夏、僕の前には進路選択という大きな壁が立ちはだかった。海岸の堤防に腰をかけ、遠くに広がる水平線を眺めながら見えない将来に不安を抱いていた。その時に、颯汰さんが僕に話しかけてくれた。
「何辛気臭い顔してるんだよ、少年」
「悩み事があって」
「女か?」
「恋愛で悩みたい学校生活でしたね。進学か、目標に挑戦するのか悩んでいるんですよね」
「少年はどうしたいんだ?」
「わかりません。どちらの道が正解か分からないんです」
どちらの道を選択するのが正解なのか、僕の浅い人生経験では分からなかった。
「正解か……人生においての正解ってなんだろな」
「え?」
拍子抜けだ。僕より歳の離れたこの人なら正解を知っていると思っていた。
「人生に正解、不正解ってあるのか?」
「高校選びとか……」
「本当にそうか?」
颯汰さんは荷物を下ろして、段差を上り僕の横に腰をかける。
「どういう事ですか?」
「高校選びを失敗したと言っても、その高校でしか得ることの出来なかった経験はあるだろ。友人関係や先生から得られる考えとか。あとはそうだな、この景色とか」
「まぁ、それはそうですけど」
「俺はな、人生において俺は正解、不正解はないと思う。例え、道を間違えてもそれを正解と捉えるか不正解と捉えるかじゃないか」
「失敗から成功を見つける」
「ああ、そういうことだ。まあ持論だがな」
僕は自分の選択がたとえ間違いであっても、その失敗から正解を見出す生き方をすれば良いということか。
「ところで少年、目標とは何か聞いても良いか?」
「明確な目標は無くて、漠然とした誰かを笑顔にしてあげたいという曖昧な目標です。でもその手段がもし叶うのなら、写真を通して誰かに笑顔を与えたい」
父はプロの写真家だった。父の写真はまるで写真の中で生きているような躍動感があり、そんな父の写真が僕は好きだった。父の写真に憧れた。父のような写真が撮りたい、そう願った。だが現実は甘くはない。
僕は成長と共に夢は必ず叶うものでは無い事を知っていく。願望だけで世界は成り立たない。厳しい現実を突きつけられ、夢を諦める者がいるからこそ、輝いて見えるものがある。
そう、僕には才能がなかった。
現実は僕を厳しく突き放した。お前の輝く場所はここではないと。
「なぜそれを目指すんだ?」
「誰かを笑顔にするということは巡り巡って自分の元へと帰ってきます。でもそれだけじゃなくて、その笑顔が誰かを幸せにして、また他の人を幸せにする。その笑顔の連鎖を、僕は作りたいんです」
人を笑顔にしてあげたい。誰かを笑顔にしてあげたい。その結果を得るために、写真という手段に固執するつもりは無い。僕は太陽のように一斉に誰か、不特定多数を笑顔にしてあげることはできない。だから、何かしらの手段でじわじわと連鎖を形成できたら良いなと切に思う。
それが、写真という手段で笑顔にできるのなら、それ以上のことは無い。
「ああ、素晴らしいじゃないか。敷かれたレールを歩む人生も良いが、夢や目標に、感情に駆られて新たな道をこじ開け、切り拓くのも素晴らしいことだと思う。茨の道も悪くはないぞ」
ほっとした。踏み出せなかった一歩を、目の前の見ず知らずの男に背中を押して貰えた。心が安堵した。
「ありがとうございます。僕は目標に向かって挑戦します」
僕が自分で人生の道をこの手で切り開いてやろうじゃないか。自分に恥じぬ生き様にしよう。
踏みとどまっていた、僕の足をこの謎の男は次の一歩の手助けをしてくれた。
「少年、名前は?」
「加賀美陽向です」
「ほう、これを渡しておくよ」
そう言って僕は名刺を受け取る。塗りつぶされた名前らしき場所に、その上から手書きで名前の書かれた不思議な名刺。
《颯汰》
名前の上には電話番号が載っていた。
「颯汰さん」
「どうした?何あったら遠慮なく電話をしてくれよ」
「颯汰さんは何者なんですか?」
「ただの浮浪だよ。自然に触れながらあてもなく旅をしている」
「野暮な質問こもしれないですけどなぜ浮浪をしてるんですか?」
「強いて言うなら誰かの役に立ち、笑顔にしてあげたいからだな。君と似てる」
「そうですか……」
颯汰さんは堤防から歩道に飛び降り、荷物を背負う。
「じゃあ、少年。またどこかで会おうな」
そうして、彼は浮浪の旅へと再び歩みを進めた。
――――――――――――――――――――――
「颯汰さん、僕同居しているんです」
颯汰さんは驚いた顔をして、口を大きく開けて笑った。
「まさか少年から、惚気を聞く日が来るなんてな」
「まだ誰と住むか言ってませんよ」
「分かるさ。男同士の同居なら、俺に相談なんてしないだろ」
たしかにな。友達と一緒に暮らすのなら、相談なんてしないだろうな。何か不安があるから、信頼している颯汰さんに相談を持ちかけているんだ。
「どうしたんだ?何か不安なのか?」
「女の子と同居しているんです。出会ってとんとん拍子で同居が決まって……」
もう出会って時間が経っているが、僕たちはお互いのことを知らない。知らなさすぎる。だが、深く知るつもりもなかった。誰にも知られたくない過去や秘密の一つ二つはあると思うから。
僕の話を聞きながら、颯汰さんは終始ニマニマする。今までで、一番楽しそうに話を聞いている気がする。
「同居することになった理由は?」
「盗撮です」
僕は包み隠さず、彼女との出会いから同居までの流れを説明した。
「それで、どうすればいいと思いますか?」
「知らん」
一蹴された。初めてのことに僕は戸惑う。
「知らないって……」
「彼女にも理由があるんだろうよ」
「……教えて下さいよ」
「教えろと言われても何を教えれば良いんだよ」
「人生経験から基づいたアドバイスですよ」
それは僕より長く生きている人生のアドバンテージから得た経験値のことだ。
「俺から言えることは、少年のその経験はとても貴重な経験だ、楽しめ。以上」
颯汰さんは幸せにな、と言い残し二人分の会計を済ませ立ち去った。今日の颯汰さんの返答は僕の考えを導いてくれなかった。
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