ペンギンホーム

馬村 ありん

第1話 ペンギンのいる居間

 仕事から家に帰ってくると、居間にペンギンがいた。僕が仕事用のカバンを持って入っきたとき、ペンギンはちょうどエサのイワシを飲み込んだところだった。

「ぎゃあ」

 ペンギンは姉の持つエサにくちばしをつきつけ、「次をくれ、次をくれ」とおねだりしていた。

「どうしてうちにペンギンが? まさか……?」

 僕は姉にたずねた。

「そう。うちがペンギンホームに選ばれたのよ」

 姉は言った。

「ペンギンホームか……まさかそんなものに選ばれることがあるなんてね」

「ええ。今日ペンギン省の職員が来てね、あなたの家が認定されましたので、きょうから世話をお願いしますだなんていうの。急に困るわよね」

 といいながらも、姉はまんざらでもなさそうに、うっとりとペンギンをながめていた。

 種類はアデリーペンギンというそうだ。黒い目をしているのだが、その周りがくま取りしたみたいに白いので、白点の上に黒点を重ねたような愛らしい目元を形作っている。体長は僕の腰より低い。


「ぼく、次はぼくがエサをやりたい」

 姉の足の影に隠れていた甥っ子の大志が、姉の持つイワシに手を伸ばした。

「いいけど。大志、生魚さわれるの?」

「さわれる! さわれる!」

 大志は短い手を精いっぱい伸ばして、姉から生魚を受け取った。ペンギンがくちばしを伸ばしてきたのに驚いて、一度は手をひっこめたが、おっかなびっくりエサをペンギンに近づけた。ペンギンのくちばしはすぐにエサをとらえた。

「うわぁ……食べてる」

 ペンギンはななめうえに首を持ち上げると、くちばしを上下に振ってイワシをちょっとずつ飲み込んでいった。

 大志は目を見開いてその様子を観察していた。


 玄関から慌ただしく廊下をかけてくる音がしたと思ったら、父が居間になだれこんできた。息を切らし、目を輝かせ、ペンギンを見つめていた。その両手に買い物のビニール袋をさげていた。

「マグロ買ってきたぞ! 赤身の特上だ! クロマグロだ! これならペンギンも満足するだろ!」

 父は唾を飛ばす勢いで言った。

「ペンギンってマグロを食べるのかなあ」

 僕は疑問を呈した。

「僕もそう言ったんだけどね」

 父の後ろから部屋に入ってきた義兄の哲治さんが言った。

「もう。ちゃんとイワシを買ってあるって言ったじゃない」

 姉が口を尖らせた。

「わが家にペンギンが来たんだぞ。そんな安いもの食わせていられるかってんだ、なあ、哲治くん!」

「は、はい」

「さ、ペン公。とびっきりうまいのを食わせてやるからな!」

 父はスーパーの食品トレイに載っていたマグロの切り身を素手でつかんで、ペンギンの前に差し出した。

「ほらほら」

「父さん、手は洗ったの?」

 こわい声で姉が言った。

「食べろ。食べろって」

 ペンギンは赤身にチラと目を走らせたが、すぐに首をそらした。それからは見向きもしなかった。

「おい、お前にせっかく買ってきたんだぞ」

 声のトーンが落ちていく父。

「もう、すぐに先走るんだから」と姉。

「おい、食えって、ほら、うんまいぞー。特上だぞー」

 父がどれだけゴリ押ししてもペンギンはマグロにクチバシをつけることはなかった。


 マグロはその夜人間の腹に収まった。

 食卓には、マグロの刺身のほか、じゃがいもの味噌汁、海藻のサラダ、切り干し大根、きんぴらごぼうが上がった。男たちはビール。しかし僕は下戸だ。

 いつもなら夕食時はテレビで七時のNHKニュースが流れていて、政治や金融や平和の危機を目の当たりにしながら漫然と食事をとるのがわが家の常だった。

 でもきょうのところはみんなペンギンに釘づけだ。政治家の疑獄事件の一報も単なるBGMへと変わった。一家の誰も口を利かず、ひたすらに熱い視線を送っていた。

「ペン太郎どうしたの?」

 大志が姉にたずねた。

「お腹いっぱいになったから、おねんねしてるのよ」

 姉は大志の口についたご飯粒を取りながら言った。

「ペン太郎はたったまま眠るの?」

「そうよ」

 ペン太郎という名前を授かったアデリーペンギンは眠っていた。姉のいうとおり直立して眠る。目はぎゅっとつむっていた。この種類のペンギンは目を閉じると、目元に白い一本線を引いたようなルックスになる。寝ている姿まであざといのだ。


「いつまでやることになるか分からんが、これから世話をするにあたって、役割分担を決めておいた方がいいだろ」

 あらたまった様子で父が言った。

「そうですね」

 哲治さんは同意した。

「どういう役割分担をするの?」

 姉はたずねた。

「食事係。これは日奈子でいいな。それから風呂係。ふん掃除係。遊ばせる係。散歩させる係」

「散歩は必要なのかな? 犬じゃないんだし」

「そうだよ。下手に公園に連れて行っで向かいの家のグレートデンにでもいじめられたらかわいそうじゃない」

「お向かいのデンくんはいい子だけどね」

 ぼそっと哲治さんはつぶやいた。

「じゃあ、散歩係はなしだ。俺は風呂係。清は糞掃除係。そして大志は遊ばせる係だ。哲治くんはみんなのサポートにまわってくれよ」

「そんなこと言って、いつまで続くのかしらね。その役割っていうやつも」

 姉はため息をついた。


 糞掃除係を拝命した僕は、さっそくペンギンのスペースを掃除した。居間のスペースに置かれたバスマットの上をモップで拭いた。糞はやっぱりどの動物のでも臭い。嫌な役回りをもらったものだ。

 じっと仁王立ちしているペンギンの横を通り抜けたとき、その翼(フリップというらしい)がピシャリと僕のジーンズの太ももを打ち据えた。

「痛えよ!」

 自分のスペースに入られたことに激怒したのだろうか?

 だが、一発お見舞いしてきたあとは特に何も手出ししてこなかった。なので僕は掃除を再開した。さっきのはなんだったのだろう。

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