第1回 震旦の美少年
チックタック、チックタック…
大きな柱時計が、流れ行く時を刻んでいた。
チックタック、チックタック…
柱時計は、物音ひとつない静かな部屋の中で、正確なリズムで、機械音を刻んでいる。
そんなもの静かな部屋の中、ひとりの年老いた男が机に向かい、黙々と書き仕事をしていた。
チックタック、チックタック…
その男の頭には髪の毛が一本もなかったが、別に禿げているというわけではない。男は毎日自分の髪をカミソリで剃り落としているのである。そして、男はその身に立派な「袈裟」をまとっていた。つまり、この男は「僧侶」なのだ。
チックタック、チックタック…
老僧侶は自分の仕事に没頭している。羽根ペンでノートになにやら難しい文章を書いては、他の書類と見比べたり、すでに書いた文に二重線を引いて、新しく文を書き直したりしていた。
そしてある時、インクが切れたペンをインク壷に浸そうと、老僧侶がペンを持った手をインク壺に伸ばした、ちょうどその時に、大きな音が部屋に鳴り響いた。
ボオオオン。ボオオオン。
それは柱時計から発せられた音だった。柱時計の文字盤は10時20分を指している。
「これはいかん。もう約束の時間か。」
老僧侶は椅子から立ち上がると、いそいそと部屋を片付け始めた。
5分程で片付けは終わり、老僧侶は、机ではなく、テーブルに備えられた椅子に座り、静かに待った。
そしてさらに5分程が経過して…
コン、コン。
誰かが部屋のドアをノックした。
「どうぞお入りを。」老僧侶はノックの主に入室を促す。
「失礼いたします。」ドアの向こうから男の声がした。
ひと呼吸おいて…
ガチャリ。
ドアが開き、ふたりの人物が部屋に入ってきた。
入ってきたうちのひとりは、部屋の主と同じく、男性の僧侶だった。部屋の主である老僧侶よりもだいぶ若い、といっても50代半ばといったところの中年僧侶である。その体躯は、筋骨隆々とまではいかないが、わりとがっちりとしていて、背も高かった。その顔ははつらつとしていたが、その表情はにこやかで、優しい雰囲気を身にまとっていた。
そしてもうひとりは…
この世のものとは思えない、それはそれは美しい少年だった。
その歳はまだ8歳ほどだが、その姿は、天才的な芸術家が掘り上げた大理石の彫刻のような、欠けるところのない完璧な美少年だった。薄紅色に輝く滑らかな肌。少女にも見まごうような中性的で線の細い、均整の取れた顔立ち。絵筆で描いたような繊細な目、鼻、口。つやつやでふわふわとした亜麻色の髪。頭からつま先まで少年の身体のすべてが完全な美を演出していた。
ただ一点を除いては。
少年の左頬には、その全体を隠すほどの大きな湿布が貼られていた。この湿布の存在が違和感として、少年の完璧な美を乱していた。
ふたりが部屋に入ってすぐに、中年の僧侶は開けたドアを丁寧に閉めた。そして彼は老僧侶に深々とお辞儀をして、うやうやしく挨拶を始めた。
「お初にお目にかかります、烏巣禅師【うそうぜんじ】。私がお手紙でご相談をさせて頂きました、金山寺の住職、法明【ほうめい】でございます。そして、こちらにおりますのが、件の子ども、江流【こうりゅう】でございます。この度は禅師のお手を煩わさせて頂くことになるとは思いますが、なにとぞなにとぞ、よろしくお願いいたします。」
烏巣禅師と呼ばれたその老僧侶は、法明と名乗る僧侶の挨拶が終るのを待って応えた。
「法明殿、そう堅苦しくしなくてもいい。私など、禅心の乏しいただの老いぼれだ。どうぞ気楽に話してくだされ。」
「それでは、お言葉に甘えさせて頂きます。」
烏巣禅師はその視線を、法明から、江流と呼ばれた少年へと移し、しげしげと眺めて、言った。
「その子ども、江流といったね。もう一度確認するが、その子どもが問題の子どもというわけだね。」
「はい、確かに。」
「早速だが、顔を見せてもらえるかな。」
「はい」
そう法明は返事をすると、江流に向かって気を使いながら言った。
「江、湿布を剥がして、禅師様に顔を見せてくれるかい。」
「はい、和尚様。」
江流はそう答えると、自分の左頬に貼られた湿布を、ペリペリと剥がした。湿布が剥がれ、江流の左頬が露わになる。
湿布の下に隠されていたのは、赤い傷跡でもなければ、青い痣でもなかった。
そこにあったのは、言うなれば「漆黒の花紋様」だった。
頬の中心に、真っ黒な小円がポツンと描かれ、その周囲に、水滴形を引き伸ばしたような形の、これまた真っ黒な花びらが八枚、小円から放射状に伸びて描かれている。
その黒い花模様は、まるで重罪人の顔に入れられる刺青のようで、この幼い少年の前途に重い罰を科しているような、痛々しい印象を醸し出していた。
江流の「花模様」を見て、烏巣禅師は小声でつぶやく。
「これは…三蔵…法師…やはり…」
「え、なんですって?」
法明が尋ねたが、烏巣禅師は応えなかった。
烏巣禅師は江流の花模様を食い入るように見つめる。
奇妙な沈黙が場の空気を支配した。
長い静寂が続いたが、ついに法明が耐えきれなくなり、ためらいがちに烏巣禅師に尋ねた。
「いかがでしょうか、禅師。何かわかりますでしょうか。」
「あ、ああ」烏巣禅師は向き直り答える。
「詳しく調べなければわからないが、これはひょっとするとひょっとするかもしれない。」
烏巣禅師の頼りない答えに、法明は少し呆れたような表情を見せた。
「失礼ですが、それはどのような意味でしょうか。」
「話せば長くなるから、それはおいおい話す。ところで、長安の医者にはもう診せたんだろう。何か言っていたかい。」
「はい、長安一の名医と呼ばれる先生に診て頂きましたが、結果は変わりませんでした。身体は健康そのもので、病気ではない、と。それに、刺青の類でもない、とはっきり言われました。」
「やはり、そうか。これはいよいよだな。」
その時だった。
バタン
ドアが乱暴に開いて、ひとりの若い男が入ってきた。
「ハァハァ。禅師、失礼します!」
「趙稍、どうした。そんなに慌てて。」
「禅師、皇帝陛下がお呼びです。至急、長安城の謁見の間に来るようにとの仰せです。」
「わかった。すぐ行こう。トラックの運転をたのむ。」
「了解いたしました。お急ぎを。」
「法明殿、急な話で悪いが、これから私は陛下に謁見しなければならない。すまないがこの子も同伴させてくれないか。」
「烏巣禅師がそう仰るなら。わかりました、どうぞ連れて行って下さい。」
「江、これから禅師様と一緒に皇帝様に会いに行きなさい。いいね。」
「はい、和尚様。」
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