第10話 ヤ――の娘
※♡※
意識が覚醒していく。何かすごく長い夢を見ている気分だ。
背中に当たる柔らかい感触。しっかりとくっついた瞼を引き剥がすように意識をたたき起こす。目の前に広がったのは、見覚えのない天井だった。自宅ではない。
俺は横になっていたらしい。体を起こすと、柔らかい毛布と畳の良い匂いが鼻を抜けた。
「あれ……どこだ」
左肩がほんの少しだけ痛む。そこでぼやけていた意識がクリアになっていく。
桜庭のことを尾行していたら、変な大男に絡まれて、確か桜庭が現れて――。そこから先の記憶が曖昧であるが、状況的にここは桜庭の家であろう。
遅れて花崎のことを思い出した。さっきまで通話状態であったが、奇跡的に電源を落とすことに成功した。ズボンのポケットにはスマホが入っていて安心した。電源を入れると、花崎からの不在着信が10件近く来ていた。それはそれで怖いって。
部屋を見渡すと、俺以外には誰もいない。下手に動くとまたあの大男に遭遇する可能性だってゼロではないし、ここはいったん花崎と電話しよう。
片耳に張り付いていたイヤホンを外して、彼女に電話をかける。1コール目ですぐに出た。
『もしもし!? 大丈夫!?』
かなり動揺しているようだった。それもそうか。いきなり電話は切れるし、変な大男の声は入ってきただろうし。ここは俺が冷静になって話を進めるべきか。
「なんとか。一応生きてる」
『何にもされてない!? もう本当に心配だったんだから』
「俺じゃなくて相談所の存続がだろ?」
『違うよもうー……。でもそんな口が利けるってことは本当に大丈夫そうだね』
さすがの花崎も俺のことを心配してくれていたらしい。
俺が今いる部屋は完全な和室で、立派な襖が目に入る。陽もすっかり沈んでいて、完全な真っ暗である。
「いま何時だ?」
『19時前。松澤君どこにいるの?』
「多分……桜庭の家だ」
花崎は声を出して驚いた。それもそうか。
俺はまだぼんやり感の残る頭で、これまでの経緯を説明した。桜庭の家が大きな屋敷みたいなこと、大男に尾行がバレたこと、そして――人が変わったかのように言葉遣いの悪い桜庭を見たこと。
『ねえ松澤君。もしかして桜庭さんの家って――』
「い、いやあまさか。俺は何か変な夢でも見たと思ってる。正直めっちゃ動揺してたし」
『でも普通そんな人いないよ?』
コイツの言うことは正論でしかない。実際、俺は否定したけどそう思っているのは確かだ。認めてしまったら、もういよいよここから抜け出せなくなりそうな気がして。
その時、ゆっくりと足音が近づいてくるのが分かった。ギシギシと木の床を踏みしめるように来ている。
「悪い。あとでかけ直す。ちょっと待ってて」
『だ、大丈夫なの?』
「明日になっても連絡なかったら警察に連絡してくれ」
ここが桜庭の家であるなら、そうなる可能性は限りなく低いはずだ。彼女も俺にそこまでするメリットはないし、変に噂話を広げられたくもないだろう。
だがこうでも言っておかないと、困るのは花崎だ。アイツのことだから、きっとあらゆる手段をすでに考えているはず。ありがたい話ではあるが、下手に動かれると逆効果になりそうな気がした。そんな直感がしたが、自信はない。他には心配される人間もいないし。
花崎との電話を切ると、程なくして
「松澤さん、松澤さん」
「……桜庭か?」
俺が返事をすると、起きていると確信したようで、小さく返事をして襖を開けた。
「起きましたか」
中腰になって俺と視線を合わせる彼女は、やはり俺が知っている桜庭であった。上品な花柄のワンピースを身に
俺はまず何を言うべきなのだろうか。思考を巡らせる。
彼女への謝罪? それともここまで来た理由? それとも――彼女の
「……その、悪かった。迷惑掛けて」
結果的に一番当たり障りのない謝罪にした。開口一番で桜庭を問い詰めるようなことはしない方が良いだろう。
案の定、俺の言葉を聞いた彼女は優しく微笑んでくれた。
「いいえ。気を失った時はびっくりしちゃったけど」
俺が思うに、気絶した原因は二つあった。一つは大男に絡まれたことによる恐怖。そしてもう一つは――目の前の少女の変貌ぶり。その二つに頭の理解が追いつかず、気がついたら布団の上に横になっていた。
それを、桜庭は分かっているのだろうか。分かってたらこうして平然と様子を見に来られるだろうか。言葉を探すけれど、良い言葉が全く見つからない。そんな俺をよそに、桜庭は話を続けた。
「松澤さんの自宅ってこの辺なんですか?」
「あー……えっと」
ここで嘘を吐くのは得策ではないだろう。詰められれば誤魔化すだけの余裕がない。
「いや、違う」
「じゃあ、どうしてここに?」
「……桜庭に用があったんだ」
「私に?」
尾行という言葉は使わないようにした。さっきの大男が彼女に告げ口していたが、それは違うという遠回しな否定である。
「……場所変えてもいいですか。ここじゃあ、暗いし」
その提案を否定する理由はなかったから、素直に頷いた。立ち上がると、妙に首に痛みが走った。こんな短時間で寝違えたか?
部屋を出て綺麗な廊下を案内される。中庭もあって、それだけで裕福さが伝わってくる。あの門構えを見れば周知の事実であるが。
「ここで少し待っていてください」
「お、おう」
そう言って桜庭が襖を開ける。見るからに高級そうなソファが4つ置かれている部屋だった。いわゆる応接間なのだろうか。
「飲み物持ってきますね」
「いやそんな……」
畳ではなくカーペットが敷き詰められていた。かなり高級なヤツらしく、ふわふわとした感触が心地よい。促されるままにソファに腰掛ける。
桜庭を待っている間、部屋の中はとにかく静かだった。いや、この家全体から生活音がしない。それだけ広いということか、それとも――。
あまり考えたくなかった。思考を振り払うように視線を上げると、筆で書かれた文字が額縁に入って飾られていた。
やばい、逃げるか? ここで素直に桜庭のことを待つこともないだろう。
だけど逃げられるだろうか。そもそも玄関がどこかも分からないし、下手に動けばまたあの大男に遭遇する危険性だってある。まさに今の状況は
「お待たせしました。紅茶飲めます?」
「あ、あぁありがとう……」
とりあえず今は桜庭も落ち着いているし、下手に刺激しない方が良いだろう。彼女は高そうなコップに紅茶を注ぐと、俺と向かい合う形でソファに腰掛けた。
「それで、用というのは……?」
正直聞きたいことは山ほどあった。でもどれも聞き方を考えないといけないもの。今日こんなことになるとは全く思っていなかったから、言ってしまえば準備不足でしかない。
いやだけど、ここは思い切って聞くほかないんじゃないか。花崎が隣にいたらうまくやるかもしれないけど、俺にはそんな駆け引きはできない。
高いのかも分からない紅茶の香り。多分高いんだろう。もうこうなればヤケクソだ。ここで全ての疑問を解決するぐらいの勢いで聞いてみよう。ついでに無事に帰れることを願って。
「あのさ……その……」
「はい……?」
「初恋相談所のこと、どこで知った?」
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