銀色遠国からの声

晶沢 志生

青く光る左胸1

 夜空の星が一度に火花を散らし、目が醒める。ぼくは夜と朝の真ん中を知っていた。瞳が朝を映すわずかな間、世界は火の粉をあげて青く燃える。それは小さな予感であって、どうしてだか何を予感しているのかがわからない。それでも確かに炎は燃えている。青い影をつくりぼくの後ろから離れることはない。ぼくはそれを描き表したいと願っていた。それもきっと予感。ぼくはいつか出会う、ぼくが心から絵にしたいと思える、同じ青の影を持つものに。

 カーテンから鈍い光が部屋を漂う。小さな無機質の破片を連れて。時間だ。床に足をつくと、湿り気のある音がする。冷たい空気が足首を攫い、ハッカを口に放り込んだ時みたいに、甘くて、すっとした。それなのに、コートの袖に通す手は青紫色に震えている。画材を入れた木箱を持つと指先が赤くなる。パレットが箱に当てる音を気にして、ぼくはコートの中に隠すみたいにそれを抱えながら部屋を見渡した。もう朝の中にいるのだ。青の炎も予感も、過ぎる一瞬の中で現実になっていく。だからぼくは、世界をこの両足が捉えるのを忘れないようにして、静かに部屋を後にする。

 声が聞こえる。とても小さな、けれども空気を切り裂くカミソリの刃のような冷たさを持って。その切れ味があっても、ぼくのいる二階には、会話は届かない。おかしいと思っている。ぼくはいつも一人早朝に部屋を抜け出す。誰もまだ目を覚まさないうちに。そう、今日だってそのはずだった。もしかして予感は続いているのだろうか。ぼくは悩む。このままいつも通りに過ごせば、予感はすぐ目の前で本当になる。まだ薄暗い部屋に続くドアノブに触れた。積もりたての雪のように手を凍えさせ、体温で溶けていく。ベッドでまどろむぼくもいる。それでも。行こう。口の中で呟いた。「本当」はいつか形になる。だからこそ行くのだ。

 「それが不幸だったとしても、ぼくは描かなくちゃいけない気がする」

 ブーツの踵がならないようにする、いつもと変わらないようにそう歩いていく。

 階段からその景色を見おろす。壁にはいくつも名画のポストカードが木製の額縁におさまってたたずんでいる。縦、横、縦、横が計算された配置。光と影がくっきりと境目をつくる場所で、ぼくは足元だけを照らされて、これから告げられることを考える。

 「おはよう、ミロシュ。港に行くの」

 そうだよ、お母さん。ぼくは何一つ変わらないよ。答える代わりに、少しだけ笑って見せる。母とグレーのスーツを着た男の人を見上げると、その人は腕時計を確認して、母の顔色を見た。グレーは黒と白の真ん中。母が微笑む、諦めるように、ため息をつくように、何かに折り合いをつけている。仕方がないね、と。誰も悪くないのだから。膝を折り、ぼくの肩に触れた顔は、まだ化粧がされていない。

 「よく聞いてね、ミロシュ」

 透明水彩の入った箱が少し揺れる。オペラ色が、そろそろなくなる。

 「お父さん、見つからないんだって。他の学者さんも、船も。でもまだ探してくださるから、きっと見つかるわ。だからミロシュ、きっと大丈夫よ」

 あ。とグレーが声をあげる。母の手をそっと肩からおろし、頭を少し下げて歩き出す。ゆっくりでも、急ぐのでもない調子で。

 「ぼく、行ってくるよ」

 抱えていた木箱とスケッチブックをコートの内から外へと持ち直す、右手が色を変えていき、ぼくは確かに寒さを感じた。 

 ただ、それだけでもう充分だった。

 港町の白い家々は歩き慣れた道を絵にする。朝焼けが、桃色、橙、空色と変わっていくのを映画の主人公のような心地でぼくは漁港へと向かいたかった。どんなことも突然起こるものだと知ったいたのに、ぼくにはまだ父のことが揺れる夏の木漏れ日みたいに手に取れないでいる。泣ければ少し違うのだと思う。けれどもぼくも母もまだ涙が目を焼くことはなかった。妹のエリシュカは大丈夫だろうか。毎日の日々に期待を寄せられるあの子が、暗く深い海へと足をさらわれないか、ぼくは不安になる。人に慣れたウミドリがぼくのそばを通り過ぎて、港に着いていたことに気がつく。食べ物を持っていないぼくに、鳥が立ち止まることはない。日が昇りつつある空気の中、船も水面も静かに呼吸をしている。漁師たちがそれに息を吹き込み、彼らは日々を繰り返す。夜の海から帰って来た船は、これから眠りにつくのだ。何も変わらないではないか、と思う。ぼくはしゃがみ込んで昨日のページを見た。その何日も前とさかのぼり、同じような空の記憶を眺める。どうして今日なの、お父さん。朝焼けが綺麗なのは変わらないのに。スケッチブックを閉じる。昨日までの朝が消えていく。瓶に入れてきた水を捨てようとコンクリートに黒が滲んだ時だった。霞む朝日の中、まっさらな白が飛んでいく。決して美しくない、けれどもとても寂しい声を響かせて。立ち上がり、桟橋の先まで走り出す。遠く、遠くの景色を見つめながら。終わってなんかいない。あの白がそうじゃないか。海の底も、ぼくが大好きな朝の日差しも、透き通った輝きを放つ。その全てが流転している。

 「飛び去ったウミドリは、またここへと帰って来るのだから」

 朝焼けを描いた日々がそっと瞼をとじて、それから目を覚ますことはなかった。

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