For The Pilgrim
Terence and Renna
プロローグ
「イーサン・ヘッカーリング。二七歳。国籍はオーベンラント王国……ああ、この国の人間か。どこまで行くの?」
「ザクスリドゥ公国です。チケットはこれです」
「お仕事は?」
「輸入会社で働いています」
「ザクスリドゥ公国に行く目的は?」
「出張です」
「会社から発行された通行証はある?」
出国カウンターでのやり取りには慣れている。
ここはオーベンラント王国最端の駅。中立国であるザクスリドゥ公国に、これから鉄道で向かう。民間人の乗る鉄道はどの国も攻撃してはいけない国際法があるから、最も安全な移動手段だ。
「今は厳しくてパスポートだけじゃダメだから、通行証も出してね」
イーサンはグレーのスーツの襟を正してから、出国審査官の初老の男性に目線を合わせて品のよい微笑を浮かべた。
立場によって必要書類は異なるが、今回の『設定』に合わせて仲間が準備してくれたものがある。ビジネスバッグの中からA4サイズの淡い緑の紙を取り出し、彼に手渡した。
「通行証です」
「ふむふむ。一週間の滞在ね」
「はい」
「ザクスリドゥ公国の……えーっと君のチケットは……」
「これです」
「ミズラムまで行くんだ?」
「はい」
「五番ホームに来る特急で行けるからね」
駅員はチケットにスタンプを押してから、イーサンに差し出した。
「しかしこんな時期にミズラムなんて大変だね」
「どういう意味ですか?」
「優雅な鉄道の旅はできないよ。開戦前は観光地として栄えたんだけどねえ」
「トラブルでも?」
「ああ、うん。ザクスリドゥ公国ってカイヒ・プロシム社会主義帝国と連合陣営の間にある国だから、揉めているんだよね」
「揉めている?」
イーサンの後ろに出国審査を待っている者はいないからか、彼は社交的に絡んでくる。
「スパイ狩りってやつ。鉄道内は兵士が見回りをしていて、日に日に数が増えているよ」
「終戦するって噂なのに?」
「ああ。こういうときこそスパイが悪あがきするとか何とかってことで、必死みたい」
「スパイねえ? そんなもの紛れたところでもうどうすることもできないんじゃないですか?」
「僕もそう思うけど、よくわからないねぇ。噂もあるし」
「噂?」
ふと、キャラメルの香りがした。
売店で何かを作っているのかもしれない。この地域の名物といえば水でふやかしたパンで、甘いもののイメージはなかった。
「うん。カイヒ・プロシムの秘密兵器が、ザクスリドゥ公国にあるって」
「え、あそこは中立ですよね?」
「うーん。噂だからね。あちこち尾ひれもついていると思うよ」
「そうですか」
「あ、もうすぐ特急来るよ!」
「ホームに向かいます。ありがとうございました」
イーサンはスーツケースを引いて進み、到着した特急に乗り込むとさりげなく周囲を観察した。
確かに兵士が多い。隠すこともなくライフルや拳銃を装備している。
乗降用のデッキから『二等』と表記されているドアを潜って客車に足を踏み入れた。通路を挟んで二人掛けの席が少々、他は向い合せになっている四人掛けの席だ。
誰も座っていない二人掛けの席を陣取り、新聞を開いた。
「お客様、コーヒーはいかがですか?」
顔を上げると、販売員の制服であるエプロンつきのワンピースを着た若い女性がこちらを覗き込んでいる。彼女の傍にはワゴンがあり、紙のカップやポット、軽食の類が載っている。
「ください」
イーサンは販売員に小銭を渡した。
販売員はカップに湯気の立つコーヒーを注ぎ、イーサンが受け取ったのを確認すると他の乗客のところに行った。
カップに口をつけずに数秒待っていると、黒い液体の中に半透明の小さな紙が浮かび上がった。日時が書かれている。
≪接触日は一〇月一二日≫
イーサンはコーヒーと共に紙を飲み込んだ。
窓に備えつけられた小さなサイドテーブルに空になったカップを置いて外を眺めると、田園風景が広がっていた。
人間よりも羊やヤギが多い。とてものどかな雰囲気だ。この地域は地上戦の舞台になったことがないからかもしれない。
特急がトンネルに入り、景色が黒くなった。窓に反射して、イーサンが映っている。撫でつけた濃い色味の金髪で、フレームの細い眼鏡を掛けた生真面目そうなビジネスマン。きっとそういう印象しか与えない風貌だ。
そのまましばらく特急に揺られ、あと一五分でミズラムに到着というところまできた。イーサンは立ち上がった。下車前に用を足したい。
トイレが設置されているデッキにはドアが二つあり、『男性用』と『女性用』にわかれていた。女性用はドアが全開で誰もいない。
男性用はドアが閉まっているが、鍵の位置に『空室』と表示がある。躊躇わずに開けるなり、イーサンは息を呑んだ。
人間が転がっている。手首に触れると、死んでいた。見る限り出血はしていない。普通なら心臓発作あたりを想像しそうだが、その線は薄い。
何故なら――イーサンにコーヒーを渡した販売員だからだ。
拳銃を使わずに殺すのは、大抵スパイか――スパイ狩りと決まっている。
「動くな」
背後から男の声がして、イーサンの後頭部に固いものが当たった。
「両手を挙げて立ち上がれ」
黙ったまま、イーサンは指示に従った。
「ザクスリドゥ公国で何をするつもりだ?」
わざと声を上ずらせて、イーサンは怯えた善良な市民風の演技をした。
「しゅ……出張です! 会社が用意してくれた通行証もあります!」
「正体はわかっている。カイヒ・プロシムのスパイだろう?」
「ち、違います!」
先程この男は『何をするつもりだ』と、尋ねた。
ザクスリドゥ公国には兵器開発の噂があるらしい。そちらの調査をしているとしたら、イーサンの本当の目的は知らない可能性が高い。
「スパイなんかではありません。会社に電話して確認して――」
素早く動いて振り返り、イーサンは拳銃の先を掴んだ。
男は引き金を引いたが、壁に命中した。サイレンサーつきでも少しは音がするものだが、聞こえなかった。乗降用のドアの窓越しの景色が真っ黒になっている。丁度トンネルに入って走行音が大きくなり、音を掻き消すことに成功した。
数秒後、特急がトンネルを抜けて田園風景に戻った。
イーサンは相手を床に倒すと、内ポケットから注射器を取り出し、彼の首に突き刺した。
音を立てずに確実に殺せる道具。どうせ後で騒ぎになり乗客は持ち物検査をされるだろうから、この注射器はここで使って捨てて行くほうがエコなのだ。
(さて、ここからどう対処するか)
イーサンが立ち上がると、再びトンネルに入った。だから音が聞こえなくて、何の予兆もなく突然胸に衝撃が走った。
「……ぐっ」
視線を落とすと、スーツの胸にじわりと赤い液体が広がるのが見えた。
(まさか――)
前方の女性用トイレの中に、薄く微笑んでいる若い女が立っていた。デッキに入った際にドアは開いていて中は確認したはずだった。誰かが隠れている気配もなかった。
「……うぐっ」
身体から力が抜けて、イーサンは遺体の上に尻餅をついた。
まだ、死ぬわけにはいかない。
ミュラー中佐に、伝えなければ。
『オペレーション・フォー・ザ・ピルグリム』の詳細を、この戦争に勝つために絶対に成功させなければいけない極秘任務を、伝えなければ――
カイヒ・プロシムは一五年前の戦争でも負けて、全てを失った。
未来のために、二度も敗戦の屈辱を味わうわけにはいかないのだ。
(俺は、こんなところで死ぬわけにはいかない――)
For The Pilgrim Terence and Renna @renna_sakuri
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