二十四話

 クリスマスを過ぎるとサクヤの目はどんどん濁っていった。


 朝早くから家を飛び出し、夜になるとへとへとになって帰ってくる。大晦日も正月も例外はなく、冬休み中はほとんど家にいなかった。


 ただ今までと違うのはご飯をしっかり食べ、死霊のようなオーラが消えたことだ。以前のサクヤは今にも虚無に引きずり込まれそうなほど生きている感触がなかった。今も目は会社帰りのおじさんのように濁り切っていたが、それはただ疲れているだけ。荒波にもまれ続ける戦士の瞳だ。虚無を宿すよりずっと正常に思えた。


 それでも不安だった。疲れ果てているのに次の日もどこかへ出かけていくサクヤが自暴自棄に見えたのだ。もしかしたら悪い人とつるんでいるのかもしれない。そう思うと訊かずにはいられなかった。


「最近、なにしてるの?」

「う~ん、秘密だ」


 笑ってごまかされた。クリスマス前とは違ってぶっきらぼうな感じはなく、むしろいたずらっ子のように楽しげではあったが、心の距離を感じた。


「ボクに手伝えることがあれば言ってね。なんでもするよ」

「そうだな……計画の後半になったら手を借りるかも」

「計画? なにそれ」


 サクヤはまた笑った。


「秘密だ。……今はまだな」


 意味深に言い残すと扉を開けて出て行った。

 それ以降、冬休みにサクヤとの会話はなかった。


 ボクはどうすればいいのかわからなくなった。サクヤにフラれたけれど、それでも嫌いにも無関心にもなれなかったから。どれだけ悲しくても頭のほとんどをサクヤに埋め尽くされている事実はかわらず、心配だけが募っていく。思考の迷宮に迷い込み抜け出せない。家に閉じこもり一人で考えていると頭がおかしくなりそうで助けを求めた。


 メッセージで呼び出すとすぐに返事をくれて、街の喫茶店に集合することになった。


 急いで準備をして家をでる。バスに乗って喫茶店に着くとすでにキンジョーもミオも来ていた。寒さでかじかむ手をさすりつつ席に着く。


「最近のあいつ、どうなんだ?」


 遅れてコーヒーを注文すると、真剣な表情でキンジョーが訊いてきた。

 ミオも心配そうにしていたので最近の様子をかいつまんで話す。


「……それ大丈夫なのかしら。朝から晩までって、いつか倒れるわよ」

「ボクもそこが心配だよ。なんだかヤケになってるみたいで。目もどんどん濁ってるし」

「何をしているのかしら。ヤクザとつるんでるとか……麻薬を売ってるとか……」

「おじさんがたまに迎えに行くから不良じゃないと思うけどなぁ」


 ミオはぶつぶつとアングラ系ドラマみたいな単語を呟いていた。

 黙って聞いていたキンジョーがぽつりと口を開く。


「あんまり心配いらないと思うぞ。あいつは多分、乗り越えたよ」

「そうかしら。だって、終始元気がないのでしょう?」

「塞ぎ込んでないなら大丈夫だ。義足のあいつが外に出るって相当なエネルギーなんだぞ? その力があるなら心配いらねえよ」


 拓海は湯気の立つコーヒーをすすると微笑んだ。


「何かは知らねえけど、あいつは頑張ってるさ」

「うわ~、なにそのわかっちゃってる感」


 ミオはジト目でキンジョーを指さした。


「男同士だからな。女にはわかんねえよ」

「うわ~うわ~うわ~。聞いたソラちゃん。これが女子に媚を売りまくってる男の本性よ。何股もしてるくせに、いざとなったら女にはわからねえって切り捨てるのよ。何十人もいる彼女がかわいそ~」

「七人だよ。月曜から日曜までそれぞれの曜日担当の」

「そんな少女をマンガ読んだことある気がするよぉ……」


 ドン引きした。軽薄というか、節操なしというか……。


「とにかく、あいつが頑張ってるなら何とかなる。月下は塞ぎこんでるけど何とかする。あの二人は何があろうと隣にいるべきなんだよ」


 悔しいけどボクもそう思った。付き合ってからの二人は本当にお似合いだ。

 孤高の花と思っていたユキだったけど、サクヤにくっついているときだけは幸せそうに微笑んでいた。サクヤもユキと手をつないでいるときが一番優しい笑みを浮かべる。二人でいるのが一番幸せなんだろうと直感的に理解してしまった。


「オレたちはそっと背中を押してやるだけでいいんだ。あとは運命が運んでくれる」

「……」


 複雑だった。キンジョーの言葉でフラれたことを再認識してしまう。


 何度も見せつけられたのだ。サクヤが幸せそうな顔をしているのに、横にいるのがボクじゃない。ふさわしいのはボクじゃないなら引くしかない。好きな人の幸せを奪いたくはないのだから……。


 お邪魔虫にはなりたくないのだ。


 それが自分の気持ちを押し込めることになったとしても。


「背中を押す……か……」


 今度こそあの二人を応援したい。それがボクの誠意だと思うから。


「ソラちゃん……」


 ミオが察したように呟く。ボクは慌てて首を振った。


「大丈夫。大丈夫だから」


 なんとか笑顔を見せる。自分でもわかるほど口元は引きつっていた。


「ちょっと時間はかかるかもしれないけど、ボク、頑張るから。立ち直って見せるから。サクヤに笑顔を見せるから。元気づけてみせるから。きっと……大丈夫だから」


 早口でまくし立ててしまった。


 動揺を誤魔化すため、何度も大丈夫と繰り返した。








 家に帰ると久しぶりに少女マンガを取り出した。面白かった。


 キャラクターはキラキラ輝いていて、まっすぐに恋をしている。誠実な言葉は心に響く。彼女らは全力で青春を駆け抜けていた。


 けれど――どこか嘘くさかった。夜空に浮かぶ一等星のように、手を伸ばしても絶対に届かない。あまりに純粋な想いはリアリティを感じなかった。


 知ってしまったのだ。恋がどんなにどす黒くねばねばしているのか。ボクはヒロインではなく咬ませ犬の悪役で、助けてくれる王子様はいないのだと。


「ああ……もう……」


 自室で涙を流した。持っていたマンガを床に置き、布団に寝転がって天井を見上げる。


 ただ喪失感だけが残った。信じていたものをすべて奪い取られ、心に虚無だけが広がっている。いや、最初からそこには何もなかったのだ。自分をお姫様のように生まれながらの特別だと勘違いし、何者かであると錯覚していただけ。


 何者かに――なりたい。


 心の空白を埋めたい。空っぽでどうしようもない人間だと思われたくない。


「マンガ……描こっかな」


 ボクの心を埋めてくれた少女マンガはただのフィクションになり果ててしまった。ならば、ボクがホンモノを描こう。無我夢中に、全身全霊をかけて。そうすればこの痛みを忘れられるかもしれないから。頭を埋め尽くすサクヤの笑顔を消し去ることができるかもしれないから。


 ほとんど現実逃避だけど、それ以外に方法が思い浮かばない。


 そして、いつの日にか大丈夫になったら、サクヤに宣言しよう。ボクはもう大丈夫だって。ボクなんて気にせず、二人で幸せになってしまえって。こんなに面白いマンガを描けるくらい元気になったって。


 そうだ、今度カナを紹介しよう。こんなに仲のいい友達ができたって自慢しよう。

 バイクの免許を取るのもいいかもしれない。なんてアグレッシブな留学生なんだ。これならサクヤが罪悪感を感じる必要はない。


 それほど立ち直れるのがいつになるかはわからないけど……。


 描きかけの原稿を取り出す。パパの目を盗み、イギリスで描いていた十七ページの作品。あと数ページの清書で完成する。


 それをすべてゴミ箱に丸めて捨てた。こんなものはもういらない。ニセモノの感情で突っ走った過去に価値なんてない。


 どす黒いホンモノをインクに乗せよう。血と魂で描こう。醜い衝動を叩きつけられたなら、いい人になれるのかもしれない。


 この心が癒える、その日まで……。

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